非合理で非生産的な幸せ
織園ケント
非合理で非生産的な幸せ
カタカタカタカタ
「おい!会議資料いつまでにできんだ?プレゼン来週だぞ?」
「はい!24時までには!」
見た目だけは小綺麗なオフィスに、無数のタイプ音と鋭利な怒号が響き渡る。東京の夜を彩る残業の光。その一端を灯しながら、いつしか当たり前になった居残り業務に勤しむ。数十人の大人による、ある種の宗教的な光景は、21時をまわっても尚、解消される気配すら見せない。
「ここが正念場だぞ!うまく行けばうちの課の営業目標は達成だ!」
誰が定めたのかわからない目標。何のためにあるのかわからないそれを、必死に追いかける毎日。きっと誰も口にしないだけで、この場の全員が感じている。
カタカタカタカタ
23時をまわって、ようやく人が散り始める。
「お先に失礼します…。」
か細い声で、そう告げながら出て行く人達に、目を向けることなく「おつかれさまです」と告げる。
カタカタカタカタ
「完成しました。ご確認いただけますか。」
23:57。3分余らせることができた。上司の確認を待つ間に、未消化だったショートタスクをこなす。
「OK。問題ない。今日はもう休め、おつかれさん。」
「お疲れ様でした。お先に失礼します。」
0:05。オフィスを飛び出して走る。東京でも、冬の夜は冷える。手袋を付けたいが、そこに割くリソースが、時間的にも気持ち的にもない。思考を捨てて、ただ走る。
「2番線、ドアが閉まります。ご注意下さい。」
0:09。終電に飛び乗る。完璧なタイムマネジメントで、今日は終電を捕まえることに成功した。アルコールと汗に毒された地下鉄の車内は、肺が拒絶するほどの独特な空気を運んでいる。
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0:32。住み慣れたアパートのドアを開く。明日も8:00に始業。まだ健全な時間に帰宅できた方だ。通勤カバンを投げ捨てて、スーツとシャツを脱ぎ捨てて、冷たいシャワーを頭から被る。余分な思考が洗い出されていく感覚を、全身から感じ取る。夜食はいつもカップ麺で、シーフードとトマトとカレーをループする。不思議な物で、これが飽きないし、何より考えなくて良いのが楽だった。
1:05。明かりを消して布団に入る。6時間くらいは寝れそうで、少し気が楽になった。明日もきっと忙しい。まずはあの仕事から片付けよう。そんなことを思考していたら、気づかぬうちに夢の世界へ誘われた。
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6:55。鳴り響く頭痛を氷水の一気飲みで黙らせて、冷水で顔を洗う。いつもと同じ、いつも通りの朝。太陽が沈めば夜が来るように、手を離せば物が落ちるように、当然の理としてやってくる朝。今日も誰かの決めた目標のために、宗教的な景色の一部を担う。景色の一部として、パズルのピースが欠けないように、合理的なコスパとタイパを追求する。新卒として入社して3年間、変わらない日常だ。ネクタイを締めて、通勤カバンを握る。ふと、部屋の片隅の封筒が目に入った。
最近は睡眠を取るためにしか使わなくなった部屋に、「退職届」と書かれた封筒が落ちている。書いたのはおそらく2年前、新卒1年目の辛さで書いた物だ。中を見れば、まだ社会人としては半人前の、拙い文章で退職の意向が綴られていた。
「…。」
しばらく呆然と見つめてしまったが、出勤時間が迫っているので、封筒を投げ捨てて家を出た。
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仕事はハードな1日だった。作った会議資料を用いた社内説明会。資料に関する大量の質問を捌ききり、心身ともに堪えた。
「プレゼン資料の修正点だけ仕上げたら、今日は早めに上がれ。」
優しさのようなものを課長が差し出してくる。言われたとおりに修正を加えていった。
「ご確認お願いします。」
「よし、完璧だ。おつかれさん。」
23:27。久しぶりの早上がりだが、胸は躍らない。理由は自分でもわからなかった。
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少しだけ早い帰宅。今日はカップ麺をやめて、コンビニ弁当を買ってきた。少しだけ贅沢しても良い気がしたからだ。冷水を浴びて、寝ようかと思ったが、少しだけ元気だったので部屋を見渡してみる。朝の一件に留まらず、「久しぶりに目にした」という感覚のものが多くあった。
好きだったバンドのCD。最近はライブも行かなくなってしまった。
大学時代の友達との写真が張ってあるコルクボード。当時はみんなで旅行にも行ったりしたが、最近では連絡すら取り合わなくなってしまった。あるいは自分だけがはぶられているのかもしれない。
実家の母からの仕送り。レトルト食品や保存食が大量に送られてきているが、どれも手つかずで、賞味期限が切れてしまっているものもある。最近は実家にも帰っていない。
学生の頃は、誰よりも「縁」を大切にしている自信があった。自分の選んだ場所で出会った人、偶然に巡り会った人、切っても切れない関係の人、たとえどんな「縁」であっても、大切にしたいと心から思って、自ら切り捨てることはしなかった。ただ、今こうして振り返れば、自分の大切にしてきた「縁」は、学生の頃で止まっている。その後がわからないものもあるくらいには、手放してしまった「縁」が多くある。
そんな虚無感に苛まれていると、棚の一番上に置いてあるゲーム機に目が止まった。そういえばゲームも大好きだったのだ。朝から夜までやっていた。バイトをしながら、授業を受けながら、ご飯を食べながら、頭の中はゲームのことを考えていた。同じゲームで繋がる仲間と、ああじゃないこうじゃないと、無意味で非生産的な議論をしていたものだ。でも、それがこの上なく楽しくて、大好きだったのだ。そんな自分が好きで、そんな時間が幸せだったのだ。
約3年振りに、ゲーム機を手に取って、懐かしのゲームを起動する。見覚えのある起動画面に、思わず笑みがこぼれて、わくわくした少年心が溢れ出した。そのままゲームをプレイする。当時、研究に研究を重ねたプレイングは影を潜め、あまりにもお粗末なプレイで全く勝てない。でも楽しかった。こうすれば、ああすればと、次々浮かぶ思考が、この手をゲーム機から離してくれない。その夜は、とても長くて、でも一瞬だった。
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「人の幸せを作りたいです。」
そんな壮大な意志と野望を持って、まだ若かった新入社員は吠えていた。意志と野望があったからこそ、ミスを反省し、叱責を受け止めて進んできた。その進撃を間違っていたと自省する気はさらさらないが、合理性と責任を自らに課しながら進んだ3年間で、効率と利益を追求するご立派な社会人へと姿を変えたことは間違いない。意志と野望は姿を消し、意志の残像と共に、今ここにいる。
そんな人間的な魅力も、闘争心による輝きもない量産型の粗悪品が、誰のためかもわからない日常を無意味に浪費し、世間の評価にその身を委ね続けている。ひどく滑稽なことだと、大学時代の自分なら言うだろう。
ゲームの勝率を50%から51%にするためのロジックとか、他人の書いた文章に偉そうにつける感想とか、黒髪ロングの女子しか勝たん理由とか、そんな非合理で非生産的な議論が大好きだった人間の幸せは、世の中の合理性の波に呑まれて消えていった。それを自分でも、ひどく情けなく、そしてもったいなく感じた。
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結局、明朝5時までゲームにのめり込み、睡眠時間は2時間を下回った。それでも、目覚めた瞬間の満足感は、いつものそれを遙かに凌駕していた。冷水を飲み込んで、顔を洗ってスーツを着込む。いつも通りの準備を完了した後、部屋の隅に投げ捨てられた封筒を拾い上げて、通勤バッグに押し込んだ。今日も帰ったら、ゲームをしよう。
非合理で非生産的な幸せ 織園ケント @kento_orizono
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