遠い夏「幽霊」の夜
人生で一度だけ、幽霊に助けられたことがある。
きっかけは小学2年生の、遠い夏の日。まだ日本が暑さでおかしくなってしまう前、扇風機だけで夜を超えることができた頃だ。それにしても、やけに涼しい夜だった。当時は家族4人で、和室で川の字で寝ていた。私の右側に父親、左側に母親で奥に妹、という配置だったと思う。
深夜に目が覚めて、ふと右側を見ると、父親の手前に誰かが寝ていた。おそらく女の子に見えた。妹にしてはやけに小さい。視線を左側にやると母親と、その隣に妹がいた。あぁ、と私は思った。これってもしかして、と。
もちろん両親が同じ部屋にいるから、声をあげることができた。私は母の手を握ろうと、手を伸ばした。でも、できなかった。小学2年生にして、すでに強がることを覚えていたから。「おばけが怖い、弱くてかよわい女の子」なんてダサいと思っていた。だから寝ている母を凝視し続けて、時間が過ぎるのを待った。正確には首を動かすことができなかった。扇風機がまわっていないのに、空気が乾燥している気がした。
しばらくして、恐る恐る首をまわした。その子がいたところは、ぽっかりと誰もいなくなっていた。父親がいびきをかいている。いつもの夜が広がっていた。
朝になっても、私は昨晩の話を家族の誰にもできなかった。弱い自分を見せて、慰めてもらうことなんてまっぴらだった。それに、あの女の子の悲しい過去が伝わってきて、話したら泣いてしまいそうだった。誰かに泣くところを見られるのも絶対に嫌だった。
断っておくと、私は毒親育ちではない。どちらかというと何でも受け入れてくれる、温かい両親に恵まれた。そんな両親の元に育ったくせに、性格上の問題で、誰に対しても心理的安全性を全く感じていなかった。人に弱みを見せるくらいなら死んだ方がマシだとすら思っていた。そうしているうちに弱さを見せる方法を忘れて、色んなことがうまくいかなくなって、どこにも行けなくなるとも知らずに。
あれから数十年が過ぎて、私は3児の母になった。小学校が夏休みに入る少し前、夜明けに長男が夫婦の寝室に乗り込んできた。「夜にお化けを見た」と騒いでいる。詳しく聞いて、私は驚いた。それはあの夜の状況に、ものすごく似ていたのだ。うちは親子で寝室を分けているので、少し状況は異なるが。以前から長男はかなりの怖がりだった。下の子たちを保育園に送迎するだけの、ほんの少しの時間でも一人で留守番ができない。怖いから誰か一緒にいて欲しいのだという。夜にトイレに行ったり、冷蔵庫に水を飲みに行く時ですら、一人では行けない。そうして、このお化け騒動である。
寝室に駆け込んできた長男は「見た時は怖すぎて、そのまま寝ちゃった。でも朝になってまた現れると嫌だから、ママの寝室に来た」と語った。そして私のベッドにもぐりこんできた。ベッドで視線を時計を移すと、まだ朝の4時だった。普段の私なら「こんな早くに起こしてくるなよ!」とイラつくところだ。長男を払いのけて、子ども部屋に戻るよう言うだろう。
でも、できなかった。彼が私の手を握ったからだった。ものすごく遠い夏の日、あの夜の私の姿が見えた気がした。それは私ができなかったことで、その後の人生でもできていないことだった。
私は自分の子育てに全く自信が持てなかった。2歳差で3人を生み、その間に2回の流産があり、常に妊娠か出産を繰り返している状況だったし、自分のキャリアも諦めきれず、あまり手をかけてあげることができなかった。長男と同い年の一人っ子が愛情たっぷりに育てられてる姿を見て「こんなママでごめんね」と、罪悪感に苛まれていた。
だから、自分の弱さを見せられる長男を見て「その一点においては、なんとか育て上げることができたのかもしれない」と、心が安心で満たされていくのを感じた。無意識のうちに、私は長男の手を握り返していた。彼の手は少し湿っていて、あたたかい。ただ怖かった幽霊に、私はこうして救われた。
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