第2話 弁論術の時代

 えーっと。

 これ、最初に蛇を描き上げた男は、「足を描き足す前の段階で「蛇の絵」は完成しているのだから、やっぱり最初に蛇の絵を描き上げたのは自分だ」と言い張ることができるような……?

 それと、これって、「費用対効果」の話ですよね?

 同じ事業を続けて、収益が最大限に達しているのに、さらに同じ事業に資源を投入しても、収益は上がらないのにリスクばっかり増大する。だから、収益が最大に達してあとはコストとリスクばっかりという事業からは撤退してはどうですか、ということです。

 たんに、よけいなものをつけ足したから価値が下がった、または、価値がなくなった、というのとは、ちょっと違うような……。


 ほかに、このエピソードは「(中国史上の)戦国時代らしい要素」がいろいろと現れています。

 まず、この当時、せいのほうは、支配者の家系が交替して、新しい体制の新興国として勢いがありました。

 これに対して、はいわゆる「老大国」で、「昔から強かった国」ではあるのだけど、国内の改革が進まず、新しい時代に対応できなくなっていました。

 この対話は、楚の将軍が斉を攻めると、敗北のリスクがそこそこある、敗北しなくても大きい損害を出すリスクがかなりある、という状況でないと成立しません。斉が強国であったからこそ説得力があったわけです。

 また、この対話で、将軍のほうが

「いや。斉軍を圧倒して帰国すれば、それはこれまでになかった功績なのだから、わが国はさらに高い職位を新設してわたしを処遇してくれるはずだ」

と言えても、やっぱり説得力がない。

 もっと言うと、将軍が

「ここで勝って、その勢いで楚の国を乗っ取っておれが王になるつもりだ。そのためにはここで戦って勝たねばならんのだ!」

とか豪語してしまうと、まったく説得になりません。

 「想定外」の大きな功績を挙げて国に帰っても、その功労者を特別待遇するような用意が楚の国にない。

 将軍のほうも、その旧秩序にこだわる楚の国の体制を受け入れていて、斉に対する戦勝の功績でさらに高い地位を要求するという発想がない。

 そういう条件があったから「ここでうちの国を攻めても蛇足ですよ」という説得が効いたわけです。


 中国史上の戦国時代は、緊張した国際情勢と関係して、「論理で相手を言い負かす」という技術が発達した時代、ともいえるでしょう。

 いちど蛇の絵を完成させて、そのあとで足を描き加えたことで蛇でなくなったことで、蛇の絵が完成したことも無効になるのか?

 それとも、蛇の絵を完成させたあとに足を描き加えて蛇でなくなったのだから、蛇の絵が完成したこと自体は有効なのか?

 現在、もし法廷で争うとしたら、そういうことが争点になるでしょう。

 このばあい、相手の将軍がこの点で争わなかったので問題になりませんでしたが、やっぱり言い合いになる可能性はありました。使者のほうは、そういうときにどういう議論をするか、想定して訓練したことでしょう。

 この時代には「「白い馬」は「馬」ではないのでは?」(「白馬非馬」)というような、そこだけ聞くと「どうでもいいじゃんそんなこと!」と思われるような内容の論理学が発達しました。

 それも、このような緊張した国際情勢が持続したことが背景にあるでしょう。

 使者が「理屈っぽさ」で粘れることが、国の安全に関係したのです。


 また、個人のレベルで見ても、社会的な「流動性」が上がっていた、ということがあるのでしょう。

 春秋時代はまだ身分制のいわゆる「封建制」が残っていました。すると、親の地位が、自分に受け継がれます。それでも本人があまりに無能だとダメでしょうけど、まあ、親と同じ仕事をしなければならないかわりに、親と同じ仕事をしていれば普通に生きられる。そんな時代でした。

 ところが、戦国時代になると、国の動きも社会の動きも活発になり、才覚があればいくらでも出世できる世のなかになりました。そのかわり、才覚をアピールして回っても採用してもらえず、就職活動に失敗すると、かなり貧しい生活に甘んじなければいけなくなる。

 そういう世のなかで、弁論術や論理学が発達したわけです。


 これは、同じくらいの時代の古代アテネや、もう少し後の時代の古代ローマでも同じです。

 民主主義全盛期とされている時代のアテネは、じつは名門支配の時代で、民主主義といいながら名門出身者が指導する時代でした。ところが、その名門支配が、繁栄の時代からスパルタとの泥沼の戦争、疫病の大流行へという時代の流れのなかで崩壊し、そのあとに弁論で指導者の地位に勝ち上がるという時代が来た。そういうなかから弁論術と論理学が発達したのです。

 ローマでも、紀元前一世紀に旧来の身分制にもとづく国家運営が巧く行かなくなり、弁論で身を立てて出世するエリートが登場します。

 名門でないのに弁論で異例の出世を遂げたという点で最も目立つのはキケローですが、その政敵だったカエサル(シーザー)も名文家として知られています。カエサルが、戦いに勝って「(私は)来た、見た、勝った」の三語を掲げて自分の功績をアピールした、というところにも、「ことばで目立つ方法」の達人だったことが伺えます。

 ちなみに、「来た、見た、勝った」は日本語で言うと何のことがよくわからないのですが、「戦場に到着して(来た=着いた)、すぐに戦場の様子を見て情勢判断をし(見た)、その判断に基づいて戦ったらすぐに勝った」という意味です。「VENIウェーニー VIDIウィーディー VICIウィーキー」で語呂も見た目もよい。

 国際的な緊張と、社会の流動化というのが進んだときに、その国際的緊張にも社会的競争にも勝ち残るために、論理学や弁論術が重要になる。

 そういうことが洋の東西を問わずに起こったように思います。

 ここで重要なのは、論理とか弁論とかだからといって、論理的かどうか、ということだけが重視されるわけではない、ということです。

 むしろイメージ戦略として弁論をいかに印象づけられるか、というところが重要なわけです。

 カエサルの「来た、見た、勝った」は「こいつは戦場に着いて戦場を見ただけで勝てるのか!」というイメージを植えつける戦略ですし、キケローも、相手のある弁論では、相手のイメージを下げるような悪口を並べたりしています。

 「蛇足」のばあいも、楚の将軍が「いや、最初に蛇の絵を完成させた男が、それに足を描き加える余裕があったのと同じように、おれもこれから斉を攻撃する余力があるんだから、やっぱり斉を攻撃するぞ!」という論理を思いつく前に、やる気を失わせているわけです。

 必ずしも、論理対論理の弁論で勝っているわけではない。

 このことは、国際的な緊張も高まり、社会の流動性が増して社会の不安感も増している時代には、覚えておいていいことだと思います。


 ※ 第3話「蛇の神様」は本日午後6時に掲載します。

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