しらすのたましい
きなこ
◇
あたり一面に、粉砂糖をふりかけたような雪のシラカバの林を抜けると、そこにはすっかり錆びて、茶色に枯れた蔦の絡みついた真鍮の門があった。門の奥にずっと道が続いているようにも見えるがなにしろ周り一面は雪で真っ白、景色はうすぼんやりとしか分からない。
その奥には仄かに灯りがともっていた。古い電球のひかりのようなうす黄色の灯りは優しく、時折人影のようなものが雪とひかりの間をかさこそと横切る。ここまでの道なりにてんてんとついた足跡をきれいに覆い隠す雪は、どういう訳かひとつも冷たくなかった。
「あのー!『てんごく』てとこを、探しているんですけど」
硬く閉じた門扉に鼻先を突っ込むようにして、ほの明るい門の奥の誰かに訊ねたのは、『しらす』という名前の大きな白くて大きな犬で、丁度この日朝、16歳で死んだところだった。
しらすの大声を聞いて、白いひかりの奥の人影らしきものが向かってきた。
(よかった、人がいるみたい)
しらすは自慢のふかふか尻尾を三度、大きく振った。こういう場合、建物の中からでてくるのは大抵ニンゲンの大人だ。しらすは咄嗟に体を低くしてフセの姿勢をした。ニンゲンが皆犬を好きだとは限らない、特にしらすは体がとても大きいので、ニンゲンを怖がらせないよう、いつも気を付けていた。
「犬は、天国に入れないのよ」
ひかりの奥から出てきたのは、しらすの予想に反して小学3、4年生くらいの女の子だった。白いオーガンジーのリボンを襟もとできっちりと結んだ紺のセーラー服と、くるりとした巻き毛の長い髪。しらすは家にあった古いピアノの上のフランス人形を思い出した。
「どうして?」
「人に飼われてた犬は、飼い主と一緒じゃないと天国に入れないの」
「えっ…でも、生き物は死んだらみんな天国に行くんでしょ?」
「まあ一応はそうなんだけど、でも飼い犬は普段御主人様といつも一緒でしょ?お散歩とか、お買い物とか、あっ、最近だとドッグランとか?だから天国も一匹では入れないの。あんたの御主人様と一緒に来て?」
「ごしゅじんさま…ってなに?」
しらすは、ちっとも冷たくない雪の上を歩いている間に、ちょっと前までのことをずいぶんと忘れていた。
思えば今朝がた、大きなダンボールの中に自分の体と白い百合の花、それからテニスボールや、犬柄の毛布を入れてくれた乾いた掌の持ち主の顔も、春の朝の散歩道のように白く霞んで、なんだかうまく思い出せない。
「あんたのことを、あっちの世界でいちばん大切に想ってくれていた人間のことですよ」
門番の女の子にそう言われて、しらすは元きた道を引き返した。御主人、御主人、御主人。それは今日、自分の頭を優しくなでてくれた掌の持ち主ではない気がする。ぼくの御主人は、もっと湿っていて、日向の匂いがして、うんと元気のいい子。そうだ野球、野球が好きだった。
門番の子が言うには、死んだもののたましいは、天国の門をくぐると地上にいた頃のことを少しずつ忘れてしまうらしい。
天国の門の前に辿り着いたしらすは『ごしゅじん』のことを思い出そうとしても、その明確な輪郭と姿と匂いを思い出すことが、できなかった。
でもしらすが『ごしゅじん』というものについて考えると、お腹の中が春のぽかぽかしたひだまりのようになって、足が自然と馬のギャロップのように弾み、背中がぴょこぴょこと上下に揺れた。
◇
ゆうとが産まれた時に『しらす』という、ちょっと変な名前の犬はもう家にいた。
しらすは、ゆうとが産まれる3年前の台風の日、近くを流れる川の中州に取り残されていたのを、ゆうとの父親のサトルが助け出して、そのまま飼われることになった犬だった。
拾われた時、ずっと碌なものを食べていなかったせいか、ふんわりとまん丸く見えた体のほとんどは体毛で、川の泥で汚れた体を洗ってみるとその本体はひょろりと細く、まるで小魚のように見えた。それで「しらす」と名付けたのが、それから1年程で成犬になると、小餅に小豆粒がひっついているように見えていた小さな前足は大人の掌からはみ出るほど大きく、その名の通りしらすのように細かった背中は、幼稚園児くらいならひょいと乗せて楽々歩けるくらいに大きくなった。
大抵の大きな犬がそうであるように、しらすはとても心の優しい犬だった。
しらすが飼い犬になって3年目の夏にゆうとが産まれた。ゆうとは新生児の頃から1時間もまとめて眠らず、傍らに人の気配がないと泣いては両親を困らせた。そんなやや過敏症の赤ん坊の横で、ゴハンも食べずずっと不寝番をしていたのはゆうとの母親のカナでも父親のサトルでもなくしらすだったし、庭で遊んでいた2歳のゆうとが、両親が目を離したすきに、交通量の多い表通りに走り出たのを、その時に着ていた赤いパーカーのフードを咄嗟に咥えて止めたのもまた、しらすだった。
しらすはゆうとが大好きで、そんなしらすをゆうとも大好きで、ひとりといっぴきは、まるで血のつながったきょうだいのように育った。
ゆうとが幼稚園に通っていた頃、しらすは毎日ゆうとの幼稚園のバス停まで、黄色い通園カバンを咥えて送り迎えをしたし、小学校に入ると朝、集団登校の列が見えなくなるまで庭でゆうとのランドセルの背中を見送り、下校時間のチャイムが鳴る前に庭に飛び出して、庭の道路に面した柵の間から鼻先を突き出して、ゆうとの足音が角を曲がってこちらに向かって来るのをじっと待っていた。
それは、まるでしらすが人間の文字を理解していて、冷蔵庫に貼ってある『学年だより』を解読して、ゆうとの予定をきっちり把握しているのではないかと疑うくらい正確で、「しらすちゃんの鼻先が道路につき出していたら、ゆうと君が帰って来る時間」と、近所の人が時計の代わりにしているくらいだった。
ゆうとが小学2年生から地域のリトルリーグに入ったのだって、しらすがボールを投げて取ってくる遊びが好きで、それを遠くに飛ばせば飛ばすほどふかふかの巻尾を振って喜ぶからだった。肩をうんと鍛えて、遠くにボールを投げられるようになれば、しらすはもっともっと喜んでくれる。
でも、ゆうとが大きくなって、チカラが強くなり、ボールを遠くに投げられるようになればなるほど、しらすは遠くに駆けられなくなってしまった。
河川公園に連れて行っても、公園の真ん中のクスノキの木陰に伏せたまま、川面を渡って来る風の匂いをひこひこと嗅いだり、公園の中にある野球グラウンドから時折飛び出してくるファールボールを眺めているだけ。
そうしてそこから後ろ足の踏ん張りがきかなくなって、立ち上がれなくなるまで、あまり時間はかからなかった。
「しらすは年を取ったのよ、獣医さんが言ってたんだけどね、体の大きな犬は小さな犬よりも少し年を取るスピードが速いんですって」
カナにしらすの寿命がもう残り少ないのだと聞いてから、しらすが死んで冷たい亡骸になるまで、ゆうとはあまりしらすに構わなくなった。
それまでしらすのご飯もおやつも散歩もうんちの始末も、しらすに関わることはなんでも「俺がやる、俺の仕事なんだ」と言って譲らなかったゆうとが、しらすの大きな額をかりかりと掻いてやることすら稀になった。
すると、たちまちしらすのふかふかとした柔らかな白い毛からは艶が消えてなくなり、澄んだとび色の瞳は白く濁り、しっとりと濡れてぴかぴかに輝いていた鼻も、すっかり湿り気を無くしてかぴかぴにひび割れた。
「オイ、ゆうと。犬ってのはなァ、ほらあの…獣医さんとこで買ってるあのナントカってフードだけで生きてるんじゃないんだぞ、愛情を食べて生きてるんだ」
サトルは、しらすを避けるようになったゆうとを、以前のようにかまってやらないとダメじゃないかと言って叱ったけれど、ゆうとはいつも聞こえないふりをするか、「ふん」とか「うーん」なんて言ってまともに返事をしなかった。
結局、しらすは16歳になってすぐの冬の朝、いつもの寝床で眠ったまま目を覚まさなかった。サトルは赤い目をして、ついこの前しらすのために買った加湿器が入っていた大きなダンボール箱にタオルを敷いてしらすをその中に収めた。カナは朝一番に近所の花屋に飛んで行き、鼻筋の通ったしらすの面差しによく似ているからと、白いユリの花を買い占めてダンボールの棺の中に沢山詰めた。
ゆうとは、何も言わずに学校に行ってしまった。
(きっと、怖かったんだよね、死んでゆく僕をみているのが)
ゆうとが家から飛び出して、いつもの通学路を全速力で走っていた丁度その時、しらすももと来た道を猛然と、そして颯爽と駆けていた。
◇
さて、あのセーラー服を着た天国の門番の子が言うのには、犬のたましいは、飼い主がこの世にいて、その存在を忘れない限りずっとこの世にとどまるのだそうで、飼い主のニンゲンがその犬を思い出せば思い出すほど、その魂からは柔らかな若草の優しい香りがするのだそうだ。
結局、この日、ゆうとは学校をサボった。そうしていつもしらすと散歩にきていた河川公園のクスノキの下で、お日様がクスノキのてっぺんに来るまで、ずっと泣いていた。
ゆうとの傍らに寄り添うしらすは、たましいになって色々なことを忘れてしまっても、川面を渡って来る風の匂いと、昨晩の雨のしずくを含んできらきらひかる木々のみどりのうつくしいことを、ちゃんと覚えていた。
自分のことを想って泣いている、ゆうとのことも。
しらすは嬉しくて、お日様のひかりに透ける透明なしっぽをふかふかと振った。ゆうとが子どもから大人になり、それからおじさんになっておじいさんになって、いつか体を脱ぎ捨てて自分とおなじたましいになった時、しらすとゆうと、ふたつのたましいはひとつに溶け合って、そうしてやっと、天国の門をくぐることができるそうだ。
「あんたは、とても愛されていた犬だからね」
門番の女の子の言った言葉を、しらすはなんども思い出して、それから涙と鼻水ですっかりしょっぱくなってしまったゆうとの顔をぺろりと舐めた。
しらすのたましい きなこ @6016
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