第1話

 あれから十年。僕は高校生になっていた。成長しても両親の教育方針は相変わらず厳しく、他の何もかもを押しのけて、勉強することだけを命じられていた。


 地域の名門校に通い、それなりの成績は収めているものの、周囲との関係は芳しくない。部活にも入らず、勉強ばかりしている僕は明らかにクラスの中でも浮いていた。入学してからまともな友達はできず、最近では露骨に無視されているのを感じる。直接的な危害こそ加えられないが、まるで僕が存在していないかのように振る舞う様子は、かえって胸の奥底をちくちく刺されているように堪えた。


 誰も助けてくれる人はいなかった。先生に相談しても、「そんなのは気にしなければいい」と言われるばかり。両親に報告すれば、いつも以上に「お前がしっかりしないからだ」と怒鳴られる。それどころか、学期が進むごとに成績の一挙一動を責められるようになり、家に帰っても罵声ばかり耳にする日々。


「……もう、いやだ。何もかも」


 そうつぶやいたのは、夜の自室でノートを広げていたときだった。開いた教科書に視線を落としても、頭の中は親への恐怖とクラスでの居場所のなさがぐるぐる回るばかりで、全く集中できない。成績が落ちればまた両親の怒りを買うし、良くなったとてクラスの誰も僕を相手にしないだろう。そんな不安ばかりが膨れ上がっていく。


 ふと、見下ろしたノートの白紙に、鉛筆で文字を走らせる。誰に宛てるでもない言葉。それでも、腹の奥底から沸き上がり、書かずにはいられなかった言葉。


『死にたい』


 僕は部屋を出ると、そのノートをリビングのテーブルの上に置き、家を飛び出した。夜道を歩きながら、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちてくる。その瞬間、悟った。僕は、ずっと死にたかったのだ。終わることのない痛みを抱えて生きるよりも、ただ静かに消えてしまうほうが、どれほど穏やかだろう。どんな方法があるのか、考えもつかないけれど、それでも思う。――僕は、もう死ぬべきなのだ。このまま、誰もいない場所まで歩いていこう。そして、そこで全てを終わりにしよう。

両親があの言葉を見たらどう思うのだろうか。また罵声を浴びせられるだけかもしれない。でも、もうどうでもいい。僕はこれから死ぬのだ。何がどうなろうと知ったことではない。


 顔をくしゃくしゃにして泣きながら、僕はただ足が向くままに歩き続ける。道行く人がチラチラとこちらを見てきたが、構わず無我夢中になって街を彷徨った。周囲の灯りが潤んだ視界に反射して、宝石のように美しく瞬いていた。


 どのくらい経ったときだろうか。ある暗がりの路地に差しかかったとき、僕は胸の奥に奇妙な違和感が広がり、思わず足を止めた。まるで身体に力が入らず、意識だけがふわりと浮き上がるような感覚。視界が歪むような気がして、慌ててコンクリートの壁に手をついた。


 そこは、数分前まで歩いていた街並みとは異なる、不思議な雰囲気の場所だった。街灯はいつの間にか白っぽい光に置き換わり、周囲からは人の暮らしの音が消え失せている。車が通る気配も、誰かの足音もない。現実と夢のあいだ、その継ぎ目のような静けさが、肌の奥にじわりと染みてくる。


(ここは……一体?)


 路地を抜けてみても、やはりそこは今までとはまるで違う景色だった。人の営みの消えた街――かといって廃墟のような荒涼感ではなく、どこか神聖さすら漂わせている。空気にはひやりと澄んだ匂いが混じり、わずかに甘い香りを伴って鼻孔に届く。それは森の朝露のようでもあり、焚きしめられた香のようでもあり、はっきりと定義できない不思議なものだった。


 不意に、足元に細かな光の粒がちらりと舞い降りるのが見えた。銀色の蝶の羽のようにも思えるが、つかもうと手を伸ばすそばから消えてしまう。それと同時に、十年前のかすかな記憶が頭をよぎる。幼い頃、同じような静寂の街を彷徨い、謎の老婆に道を教えられて帰った記憶――もしかして、ここはあのときの場所なのか。


 立ち止まって深く深呼吸してみるが、この息苦しさをどうにも変わらなかった。道端に転がる落ち葉を踏みしめるごとに、胸の奥で不安が増していく。どこへ行けばいいのだろう。しかし、自分から家を飛び出してきたのだ。今さら戻れる場所などないと思うと、胸の奥がちくりと痛む。雨の名残を含む風が、灰色のコンクリート壁をかすめるたび、ひどく冷えた湿度が肌を撫でていった。


 どれほど歩いても、見覚えのある景色には出会えなかった。歩みは次第に鈍り、やがて力尽きたように地面へと腰を下ろす。夜の冷気がじわりと染み入り、肌を刺す。膝を抱え込むようにして、そっと顔を埋めた。静寂が広がる闇の中、僕はひとり、息を潜める。まるで世界に置き去りにされてしまったかのようで、胸の奥に言葉にできない寂しさが広がった。


 そのとき、不意に耳をかすめるような声がした。


「こんなところで何をしている?」


 低く、けれどどこか軽やかな調子。驚いて顔を上げれば、深い青色の布がふわりと揺れながら漂っている。それが誰かの衣服であると気がつくまでに、少し時間がかかった。やがて、布の周囲に人の輪郭がゆっくりと滲み出し、次第に形を成してゆく。それは少年だった。青の衣は、使い込まれた柔らかな半纏(はんてん)だった。

その少年は、僕と同じくらいの歳に見えるものの、雰囲気がひどく異質で、すぐに言葉が出てこない。柔らかい笑みを浮かべているのに、肌に走る寒気をどうにも抑えられなかった。彼の纏う青い半纏が、夜の色を帯びて妖しく光を放っているように見える。


「……だれ、ですか」


 やっと声を絞り出すと、少年は首をかしげるようにして笑った。まるで猫が喉を鳴らすときのような、含みのある表情。


「安心しろ。とって食べやしないさ。……君の名前は?」


 その問いかけに即答するか迷っていると、少年の瞳が闇をそっと撫でるように動いた。嫌な感じではないが、どこか人間離れした雰囲気が彼を包んでいるように思えた。


「翔真……です」


「翔真か。俺は猫八って言うんだ。変わった時間に歩いているな。どうやってここに来た?」


「わかりません。いつの間にか……道に迷ったみたいで」


 僕の曖昧な答えに、猫八と名乗った少年は「ふーん」と鳴くようにつぶやき、半纏の端をしっぽのようにひらりと揺らした。


「もしかして、お前……最近、死にたいとか、考えたりしたか?」


 唐突に放たれた問いに、鼓動が喉元まで跳ねあがる。どうしてそんなことを知っているのだろうか。僕が言葉を発する前に、猫八はくすりと笑みをこぼした。彼の口元は楽しげでありながら、まるで生者を逸脱した冷ややかさも含んでいるようで、背筋に小さな震えが走る。


「図星か、そういうことね。じゃあ君は人間というわけだ。行くあてはあるのかい?」


「……ないです」


 首を横に振るしかない僕からは、不安と弱さが滲み出ているに違いない。けれど猫八は気にも留めず、夜の空気を裂くようにして言葉を続ける。


「なら、俺の店に来いよ。こんなところで呆けていたら、何に連れて行かれるかわからないからね。どこか宿が必要なら面倒見てやる。どうせ死ぬつもりなら、どこへ急ぐ用事もないだろう?」


 その一言が胸を刺す。死ぬ覚悟を決めて家を出たはずなのに、実際には何もできず、こうして弱々しく彷徨って、結局は誰かの存在を求めている。己の愚かさをこれでもかと思い知らされ、胸の奥にどうしようもない居心地の悪さが広がった。しかし、猫八は邪険にする風もなく、身を翻して闇の先を指し示す。


「店はすぐそこだ。おいでよ、翔真」


 迷う余地もなく、僕は立ち上がる。足元が覚束ないほど消耗している。頭が痛むし、胃が焼けるように空っぽだ。見知らぬ少年に一抹の不安を覚えながらも、何かに縋らなければこの夜に呑み込まれてしまう気がした。深呼吸し、彼の背中を追うと、僅かな路地灯さえ途切れた場所へ踏みこんだ。


 幾度か角を曲がった頃、僕の視界に「猫屋」と書かれた看板が浮かんだ。それはよくあるコンビニエンスストアのような建物だったが、よく見るとどこか違う。外壁には古めかしい木の板が張り付けられ、窓からは妙に淡い照明が漏れている。猫八が自動ドアではなくガラス戸を押し開けると、かすかな鈴の音が夜気を裂いた。


「ここが俺の店。ちょっと強烈けれど、我慢してくれよな」


 言葉どおり、入った瞬間に胸を圧するような匂いが襲ってきた。獣の毛と香辛料のような、甘くもあり尖ってもいる奇妙な芳香。辺りを見渡すと、棚には瓶詰めの液体や風変わりな菓子のようなものがずらりと並び、レジ横には古びた秤や真鍮の道具が積まれていた。さらに、床やカウンターの上には大小様々な猫がくつろいでいる。痩せた三毛猫が振り向き、黒光りする瞳を僕に向けた。


「……猫、いっぱい」


 呆然と漏らすと、猫八は奥へ消えながら「猫屋だからね」と言い、どこか愉快そうに笑った。毛並みの良い白猫が僕の足元にこっそり寄ってきて、すりすりと頬を寄せる。僕は思わずしゃがみこむが、手を伸ばすのがためらわれた。猫が嫌いなわけではないのに、今の状況が現実味を伴わず、腕がこわばっているのだ。


「あれ、猫が好きなんだね。たくさん寄って来ているじゃないか」


 いつの間に戻ってきたのか、猫八が後ろから覗きこむ。目線を上げると、カウンターの端にも猫が数匹集まっている。夜の不気味さを少しだけ和らげる、柔らかな毛並みたち。けれど、その光景はどこかこの世界の非常識を際立たせている気もした。


「安心しろよ。勝手に寄ってくるだけだから、傷つけたりはしない。ちょっと気まぐれが過ぎる連中だけどね」


 猫八が半纏の袖を揺らすと、猫たちが散り散りに離れていく。まるで合図を理解しているかのような動きだ。猫八が手招きで「奥に入れ」と促すので、緊張しながら足を進めると、小さなテーブルがあり、湯気を立てる飯らしきものが並んでいる。


「食うか? ひどく疲れているみたいだしな。大したものじゃないけど、腹は満たせる」


 人間が炊いたとは思えないような不思議な香りがするが、疑う余力もなく、一口食べてみる。モチモチとした穀物に、何か野草のような苦みが混ざり、胃が反射的にぎゅうと痛む。それでも、空腹が勝り、次の一口を口に運んだ。濃い味の汁物が唇を潤し、ささくれ立った心が少しやわらぐ。


「……ありがとう。こんなにお腹が空いていたなんて、気がつかなかった」


 そう呟くと、猫八は小さく笑って椅子に腰かけた。その笑いが不思議に優しくて、僕は少しだけほっとした。さっきまでの闇の路地にいたころを思えば、ここはずいぶん明るい。でも、その明かりも蛍光灯ではなく、ランプのような灰色の光をまとっていて、不自然なくらいに柔らかい。


「家に帰らないと……」


 ふと、その言葉が喉をついて出た。生きるのが辛くて家を捨てたはずなのに、今は妙に母さんや父さんの顔が浮かんでくる。彼らがどんな思いで待っているかを想像すると、胸がえぐられるように痛んだ。それでも、帰りたいと完全には思えない。自分が何を求めているのか曖昧なまま、身体だけが疲弊している。


「へえ、帰りたいのか。命を手放したいわりには、未練があるものだね」


 猫八は面白がるように言い放ち、その声に含まれた棘が静かに心を刺す。猫たちが足元を行き来し、時折尻尾をふわりと掠めていく。店の片隅で眠る大柄の三毛猫が、低く唸るような声を上げ、すぐにまた眠りの海へ落ちていく。何もかもが現実じみていないのに、どこか温かみが混ざり合った世界だ。


「ここは一体どこなの? 何と言うか、普通じゃないってことはわかるのだけど……」


 僕が尋ねると、猫八は肩を竦めるようにして答えた。


「無明域、って呼ばれている。あんたの世界からすれば異質な空間だよ。ま、人間の来る場所じゃない。現世とあの世の中間、とでも言えばいいのかね。俺はこっちで暮らす身だから、あまり説明は得意じゃないけどさ」


 そう言いながらも、猫八はつらつらと語り出す。彼が言うには、ここは現世で死んだ人間が、あの世へ向かう途中に立ち寄る場所だという。


「どうやって帰ればいいの?」


 口を挟むと、猫八は手をひらひらと振りながら「まあ待てって」とぼやいた。


「事はそう簡単じゃない。本来は現世と無明域は繋がっていないんだ。だが、時折迷い込む人間がいる――翔真みたいね。それは、知らず知らずのうちに冥路めいろを通ってしまったということだ」


「冥路?」


「そう。まあ、この世界の出入口だと思ってくれればいい。本当は死んだ人しか通れないんだが、生きていても強く死にたいと願う人間なら通れてしまうことがあるんだ。匂いが一緒なのかもしれないね」


 猫八は鼻をすんすんと動かしている。


「じゃあ、その冥路ってところから出ればいいんだね?」


「そうなんけれど、まだ問題があってね。冥路も入口用と出口用があって、入ったところから出られることは少ないんだ。それに最近は数自体が減ってきているから、探すのも大変だしね。少なくとも、俺はこのあたりに出口があるって話は聞いたことがない」


 猫八の話に耳を傾けながら、僕は十年前の記憶を思い出していた。あのとき、老婆に導かれてくぐった鳥居――朽ち果て、今にも崩れそうだった白い柱の影が、瞼の裏にぼんやりと浮かぶ。あの場所は、もう跡形もなく消えてしまっているのかもしれない。


「じゃあ、どうすればいいのかな……」


 自分でも情けなくなるような声が漏れた。そんな僕の心情を察したのか、猫八は柔らかく穏やかな猫撫で声を響かせる。


「まあ、それは明日考えようや。そこに布団を敷いたら、眠れよ。そんな状態で無理をしても、さらに辛くなるだけだぜ」


 猫八が示すほうを見れば、段ボール箱の隙間を片づけ、毛布が並べられていた。小さなライトが照らすそのスペースには、子猫が一匹だけちょこんと座っていて、僕と目が合うと尻尾を振った。なんだか悔しいくらい愛らしい。指を伸ばそうとしたが、猫八がひらりと手を振り、「勝手に触ると怒られるかもよ」と言う。仕方なく目をそらして布団へ転がりこんだ。何時間も歩き詰めだったからか、そのまま吸いこまれるように意識が遠のいていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る