瑠璃色の猫

石野 章(坂月タユタ)

プロローグ

 暗く、重たい雲に覆われた灰色の空が、まるで心の中を映し出すかのように広がっている。まだ日中であるのに、足音はおろか、車の通行音さえ聞こえず、人の気配が微塵も感じられない。まるで世界から切り離されたような静寂の中、翔真は立ち尽くしていた。


 ――ここは、いったいどこなのだろう。


 ふと気がついたとき、自分は既にここにいた。現実のはずなのに、現実とは思えない不思議な空間。周囲を見回すと、家々の立ち並ぶ風景や、アスファルトの道路、電柱、信号機――どれも見覚えのある街並みなのに、人の姿がまるでない。ひどく静かで、そしてどこか神聖な空気が満ちているのがわかる。それは単に人がいないからではなく、もっと根源的な何かが現世と違うとしか思えなかった。


 胸の奥がひどくざわつき、鼓動は逸るばかり。手のひらには汗がにじみ、指先がわずかに震えている。混乱した頭の中では、自然と十年前の記憶を思い出していた。そうだ。あのときも、こんな風に知らない空間に迷い込んだのだ。


***


 小学生の頃だった。両親は今と同じように学校の成績に厳しく、毎日怯えながら勉強をしていた日々。テストの成績が少しでも落ちれば、叱責が飛ぶ。宿題を忘れようものなら、遠慮なく頬を張られる。そんな家庭で育った僕は、常に恐怖と不安の中で過ごしていた。


 ある日のこと。うっかりプリントを忘れて帰ってきた僕は、母さんにこっぴどく叱られた。癇癪玉と化した母さんは「外で頭を冷やして来い」と言い放ち、襟元を掴むと、強引に僕の体を玄関から突き飛ばした。夜風は冷たく、半袖のシャツに半ズボンでは震えるほど肌寒かった。


「…いやだ。家に、入りたい」


 小さな声は、夜闇に飲み込まれるかのように儚く掻き消える。家の中からは、両親の激しい口論が聞こえていた。どちらも僕の失敗をなすりつけ合っているようだ。罵倒の言葉が聞こえるたび、胸の奥がきりきりと痛む。自分はそれほどまでに両親の苛立ちの原因なのだろうかと思うと、喉の奥が渇いて、何かでぐっと押しつぶされたような気分になる。


 震える手で玄関のドアノブを回そうとしたが、鍵はしっかりかけられていた。開けてもらえる気配はない。仄かな外灯の下、自分の小さな影が地面に落ちているのを見つめながら、僕はどうしていいかわからなくなった。


 やがて、夜風の冷たさに耐えきれず、逃げるように走り出す。どこに行けばいいのかもわからない。だが、走らずにはいられなかった。胸を締め付ける孤独感と、家族に拒絶されたという悲しみ。その混乱から逃れたい一心で、ただただ夜の街を彷徨った。


 ――いつの間にか、僕は自宅のある地区を離れていた。いつもは人通りがあるはずの商店街も、閉店の時刻をとっくに過ぎてシャッターが下りている。そうして足が痛くなるほど歩いているうちに、妙なことに気づいた。町並みがどこか静かすぎる。遠くから車の音や人の声が微かにでも聞こえれば安心できるものの、それすらない。不思議な感覚が、心に広がる。


「…ここ、どこ?」


 気づくと、街灯の色が薄ぼんやりとした白い光に変わっていた。コンクリートの壁や道路がわずかに仄白く映り、まるで月の光に照らされているようにも見える。空を見上げれば、満天の星はなく、灰色の雲が重苦しく広がっているだけ。そのとき、女性の声が耳に飛び込んできた。


「なんで、こんなところに子どもが……?」


 振り向くと、白髪まじりで杖をついた老婆が立っていた。その人の顔立ちは温かみがあり、少し驚いたように目を見開いていた。僕は、ほっとして声をかける。


「おばあさん……ここ、どこなんですか? お家に帰りたいんです……」


 老婆はしわがれた声で、穏やかな口調を保ちながら、「何もわかっていないようだねえ」と言って笑った。その笑みはどこか哀しげで、そして懐かしささえ感じさせた。


「まあ、ここに来てしまったのなら、ちゃんと出口を探すしかないね。ついておいで。寒いだろう。すぐに戻してあげるよ」


 そう言うと、老婆は歩みを進める。杖で地面をトントンと叩くたびに、銀色のきらめきのようなものが足元に広がっているように見えた。僕は無我夢中でその背中を追う。


 周囲を見れば、一軒一軒の建物は確かに自分の住む町に似ているのに、よく見ると窓ガラス越しに薄い光の筋が揺れていたり、風鈴のような音が微かに聞こえたりして、不気味なほど神秘的だ。


 やがて、老婆は角を曲がり、小さな路地裏へと入っていく。そこには、鳥居がぽつんとひとつだけ設置されていた。作られてからかなりの年数が経っているのか、朽ちかけの白い木材が組み合わさっているだけで、まわりには他に何もない。


「さあ、ここを通ってごらん。そうすれば帰れるはずさね」


 老婆が杖で鳥居を示す。言われた通りに鳥居をくぐると、目の前にはよく知る交差点と、住宅街の薄暗い夜道が現れる。それが家の近くであるとすぐにわかった。いつもの空気がほんのりと漂うのを感じ、安堵感が胸の中に広がる。


 礼を言おうと振り返ったが、そこにはもう老婆の姿はなかった。見上げると、街灯が普通のオレンジ色に戻っていて、夜の街の生活音が確かに耳に届く。まるでさっきまでの出来事がすべて夢だったかのように、家々の窓には明かりが灯り、遠くでは犬の鳴き声さえ聞こえた。


 けれど、あの老婆とのやり取りは紛れもなく現実だった。後に知ることになるが、あの不思議な空間こそが、「無明域むみょういき」と呼ばれる現世と死後の世界の狭間にある領域だったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る