でかいカニ
Stairs
でかいカニ
「おい、でかいカニ獲りに行くぞ!」
彼女は勢いよくそう言って私の部屋にずかずかと入り込んできた。私が返事をする前に、壁に立てかけられた釣具を手にとって私に差し出す。
私は読んでいた雑誌を閉じると、机の上にある調味料を倒さないようにゆっくりと置いた。彼女は釣具をもったまま部屋を見回し、落ち着かない様子だった。
今か、と聞く。彼女は頷く。私は心のなかで息を吐いた。重い体をなんとか起こし、周囲から必要な装備をかき集め、釣具を手に取った。
「網とかないの?」
あるか。手持ちの小さなものならともかく、部屋に底引きできる大きさの網があるのはおかしい。うちは本格的な海鮮飲食店ではない。一本釣りで我慢してもらいたく思う。そうしている間に、彼女は既に玄関へ向かっていた。散らかった日常を蹴飛ばしながら、私も後を追う。
ドアを開けると、夜の生ぬるいような、しかし冷えた磯臭い空気が部屋に入り込んでくる。彼女は既に外へ出ていて、少ない街灯の中、月明かりに少し照らされながら先へ進んでいく。
どこにでもあるような海沿いの田舎道。時折大きな石屑が落ちていて、意図せず足にあたり、暗闇の奥へカラカラと転がって消える。遠くから聞こえる何かの虫の鳴き声と、砂利道みたいなコンクリートを歩く音だけが聞こえていた。
少し歩くと海が見える。今日は月明かりがよく届き、海と空の境界が分かりやすい。潮は引き始めていて、月は少し見上げるくらいのところにあった。見回すことのできる範囲に他の船は見えない。
「今日の海は穏やかだな」
街灯の下で私を待っていた彼女は、追い付いた私に対してそう言った。この季節だからわからないよ、と返して目的地である係留所へ歩みを進める。そこには私の船がある。父が貨物船の会社のオーナーで、係留所も所有しているが故に、何隻かの貨物船に混ざって私の船も係留させてもらっていた。
二年前、一級小型船舶操縦士を取得した祝いに父が私に送った船だ。父の仕事を手伝う時には違う船に乗るため、自分の船はメンテナンスを軽く行う程度で、思い返せばこの船に乗ってあまり遠くへ行ったことはなかった。
顔なじみの警備員に軽く会釈して入口を通る。電灯の消えた廊下に、眩しい自動販売機の光と、遠くで聞こえるエンジンみたいなモーター音。世界に誰もいなくなっても、この自動販売機だけはずっと動いているような気がした。
「ここが海になったらさ、あの光に魚は集まってくると思う?」
どうかな。そうなったらその時にうちは水族館になるだろうから、泳ぐ練習でもしておくべきか。
「じゃあ私は受付でもしようかな」
幾らにする、と私が問いかけると、彼女はそっと指を三本立てた。三百円じゃ公共事業だよと返すと、彼女は曖昧に笑った。
ロープを外し、係留している自身の船に乗る。
燃料はほとんど減っていない。一通り点検を行い、エンジンを始動させる。鈍い振動が頭から抜けていくのを感じながら、回転数を上げた。
「いい音じゃん。結構高いんじゃない?この船」
そうだね。七桁くらいはしたと思う。あまり手には馴染んでいないが、それはきっとこの船を動かす機会が少ないからだろう。指折り金額を数えている彼女を横目に、私は船を前に進めた。ライトは点灯済み。月明かりの中些か無粋ではあるが仕方ない。
エンジンの音と海を切り裂きながら進む音が、混ざりながら操舵室の中に反響する。二人で過ごすには丁度いい広さの中で、私は窓の外を見ている彼女を何度か横目に見た。
「あの頃はさ、こんな風に海が広いなんてわかんなかった」
不意に、彼女は呟いた。きっと私達が小さいんだよと、私は返した。
「そうかもな」
彼女は俯いた。私は船に置かれていたブランケットを彼女に渡す。彼女はそれを受け取ると、自身の背中にかけた。そのブランケットが少し斜めにずれていたので、私は片手でそっと端を掴み、かけなおした。
彼女の腕に見える痣を、隠すように。
彼女の話をしよう。私がもっとちっぽけで、何もできなくて、何もしらなくて、でも何かしてあげたくて、愚かしくて、今よりもずっと何かを考えていた頃の話だ。
彼女は幼い頃からの友人だった。外で遊ぶことが好きな彼女と、外を見ることが好きな私は、なんとなく気が合った。彼女はよく木に登るのが好きで、よく落ちた。
「またそんなとこ登って、落ちるよ」
私が上を見ながら声を掛けると、彼女は私の声に反応して枝葉の間から顔を出して、落ちた。
ぬれた雑巾が教室の床に落ちたときに似ているなと私は思いながら、彼女を起こす。膝を擦りむいたのか、薄っすらと血が滲み出していた。
「木ってさ、めちゃくちゃ寝心地が悪いんだ」
木の根元に置かれていた水筒を取り、水で傷口を洗いながら彼女はそう言った。
「わかるよそんなの」
「でも、木の上で寝てる動物見たことあるけど……」
「動物だって布団のほうがいいと思うけどな。結構酷い落ち方したけど、怪我したのは膝?」
「ちょっと腕もぶつけた」
彼女は服の上から腕を擦った。でもその顔は少し楽しそうで、それ以上私は何も言わなかった。私は鞄の中から小さく切られた布とテープを取り出して、彼女に差し出す。
「これしばらく当てておきなよ。すぐ止まると思うけど」
彼女は布を受け取って膝に当て、その上からテープを一周巻いた。何度か膝を曲げて、布が動かないことを確かめてから、彼女は感心したように言葉を零す。
「よく持ってるなぁこんなの」
「あんたの為だよ。怪我ばっかりするから」
私がそう返すと、彼女は口を少し尖らせて肩を竦めた。なんだその顔はと私は思った。
「お前の手は綺麗だな」
彼女はふと、私を見てそう言った。視線を追うように私は自分の腕を見た。殆ど屋内にいる私の腕は、同世代よりもかなり白い。
「不健康的だと私は思うけどね。もう少し外に出られればいいんだけど、走っちゃ駄目って言われてるし、日差しにもちょっと弱い」
私は木漏れ日で模様が揺らめいている腕を見せながら自虐的に言った。彼女は比べるように自身の腕を出し、私の腕につける。
「ほら、こうすると……見たことないか、なんだっけ。コッペパン?」
「ちょっと面白い」
小麦色の肌と白い肌が合わさってパンにも見えないこともない。私が少し笑うと、彼女は砂を少しつまんでから自分の腕にかけた。
「揚げパン」
「ひどいね。あんたが優勝だ」
私はそう言って彼女の腕の砂を払ってやる。何箇所かある痣を見ながら、もう少し怪我が少なければいいのになと私は思った。
「なんでこんなに怪我するの? 痛いでしょうに」
「んー」
彼女は考え込み、言い淀んだ。しばらく自分が座っていた枝の方を眺め、視線を下ろす。そうして、腕の痣を何度か撫で、恥ずかしそうにした。
「なに、恥ずかしがっちゃって」
私が急かすようにそう言うと、彼女は考えをまとめきれていないまま話すように、困った顔をしながら首を傾げた。
「こうしてたら、無くなる気がする」
「無くなるって、増えてるじゃない」
「そうなんだよな」
私達は顔を見合わせて笑った。
彼女の痣の殆どが、彼女自身以外によって齎されたものであると勘付き始めたのは、私が四級小型船舶操縦士の資格を取ったころだった。
背は早々に伸びなくなり、数年。彼女はもう木には登らなくなって、随分と大人しくなっていた。しかし、彼女の身体からは傷が消えることはなかった。私はそのことに薄々気がついていて、ずいぶんと長い間言い出せていなかったように思う。
それでも、私は彼女の傷を隠すように布と氷を何度も当てた。どう見たって少し時間が経ってしまった傷に。もう木には登っていないし、屋外でもないのに、ただ黙って、彼女もなにも言わず、決まって二人だけだった。
彼女は私にとって、長らく自由の象徴だった。きっと私は、その大きな羽が本当はどこにも生えていないなんてことを、認められなかったのだと思う。蜘蛛の巣にかかった虫を見て、飛んでいる、だなんて。
「その……ちょっといいかな」
「なに?」
私は彼女の目を見ずにそう言った。彼女はそれを不思議そうに、回り込んで横から私の顔を覗き込んだ。
「傷、のことなんだけど」
「あぁ、うん」
「もう木には登ってないし、さ」
「転んだんだ」
彼女は恥ずかしそうに言った。
「……そう」
貼り付けたテキストのような返答。そのあまりの露骨さに、私は一度引き下がってしまった。しかし、ここで引けば後悔することも分かっていた。
「あのさ」
私がそう声を上げたと同時に、彼女も言葉を発していた。
「取ったんだって?」
思わず、自分の言葉を引っ込めて、考えた。
「免許の話?」
「そう。ちょっと聞いた」
「とりあえずで取っただけだよ。家の仕事を手伝えるほど何かができるわけじゃない。見てこれ、免許証なんだけど、写真が酷くて」
私は自分の免許証を見せる。印刷された写真には、半分寝ぼけた顔で、寝癖が飛び出ている私がいた。
「なんだそれ。さっきまで寝てたみたいな顔してるじゃん」
「この日寝てなくってさ。撮影前に寝てしまったらこんなことに……」
それを聞いた彼女は目を細めて笑った。
「──あの日」
ハンドルを握って正面を見ていた私は、その声を聞いて横を向いた。
「海の向こうには全部あるんだと思ってた」
彼女は、黒く透けた闇の向こう、船灯と月の光でも見えない遠い先を見ながらそう言った。私もそうだった。そう返すと、彼女は分かっていたと言わんばかりに鼻を鳴らす。ゆっくりとした波が、視界を上下に揺らした。
「でも、最初っから私には多すぎる全部が、ここにあった」
私が渡したブランケットの縁をゆっくりとなぞりながら彼女は言う。
「あったんだよ」
彼女の傷は、日に日に増えていった。一ヶ月とか、そんなものではなく、三日とか四日とか、とにかくそれくらいで、彼女は傷だらけになった。痣だけではなく、擦り傷や、切り傷のような傷もあった。火傷のような傷もあった。
知っていて、私は何もできなかった。もし、私が何かをしたとして、そのせいで彼女が私の手の届かない場所に行ってしまったらと、怖くて、ただ彼女の傷の数だけを数えるしかなかった。
私は苦しいと思った。こんなにも苦しくて、辛くて、そして彼女の苦しみのほうが当たり前に大きかった。
他人の痛みを乗り越える方法を、私は知らなかった。
「船の運転は慣れた?」
とある曇った日、薄暗い教室で、彼女は私にそう問いかけた。
「まだ。自分用の船じゃないからさ。中々忙しくて見てもらえないんだ」
「いつか買うの?」
「私が買うとしたら……小さい船ならバイトして、買える、いや、買えないかも。随分先になりそう」
「船があったらさ、どこまでも行けるんだろうな」
窓の向こう、波の音は聞こえず、薄っすらと開いた窓から少しだけ潮風の匂いがする先を見ながら、彼女はそう言った。自分はどこにも行けないのだと、そう言っている気がした。
「どこまでもは行けないよ。四級だから」
「カニとか穫れない?」
「遠いし、テトラポッドの間探したほうが早いかな」
「夢がないなぁ」
背伸びをしてから、彼女は窓から目を離した。この教室には他に誰もいない。二人だけなのに、一人だけ残されたような気分だった。治りかけの切り傷の上に手を当てて、彼女は苦笑いをする。
「私だよ。この傷を付けたのは」
思わず彼女の目を見た。その黒く深い目の奥底は、冷たい水で満たされていて、何も居なかった。なんで、という言葉が浮かんで、沈んだ。
「無くなると思ったけど、無くなったのは私の分だけだった。全部無かったことになってくれれば良かったのにな」
もう何の言葉も浮かばなくなった私は、彼女の腕を両手で握った。どうやっても、傷は私に移ってはくれなかった。私は崩れるように膝をついて、彼女の腕に額を当てる。治った傷と、残った傷。全部見てきた。彼女が何を望んでいたのか分からなかったから、何もできなかった。
彼女は内側で溺れていて、それで世界は、どうしようもなく完成していた。
顔を上げて、私は彼女を見る。
「どこまでも行けるよ」
彼女は驚いた顔をした。次に困った顔をして、笑った。
「そっか」
私達はその夜、家を抜け出した。お互い荷物はほとんど持たなかった。
船の鍵と少しのお金。私はそれだけを持って、彼女と月のない夜に会った。街灯の明かりの下で待っていた彼女は、何も持っていなかった。
「ひとつ知ってる島がある。仕事を手伝って何度か行ったから航路は覚えてる。そこで船を捨てて、本州へ戻る別の船に乗せてもらえば、更に先に行ける。そうすれば、もう誰も私達の場所なんて分からないよ」
私は一息でそう言った。一番震えていたのは私だったと思う。それから係留所に忍び込んで、まだあまり乗り慣れない古い連絡船に乗り、ロープを回収してエンジンをかける。回転数は最小に、息を殺しながらほんの少しずつ船を進める。それでもエンジンの音は夜の海によく響く。
不意に、金属同士が軽くぶつかるような音が係留所から聞こえた気がした。それが何なのか確かめることもできず、思わず私はエンジンの回転数を一気に上げ、シフトレバーを前進へ動かした。急激に上がった回転数によって、エンジンから発せられる低い音が鋭い音に変わる。プロペラが高速で動き、船首を浮き上がらせながら船は前に進みだした。
恐らくこの音で私が船を動かしたことは誰かに気付かれただろう。
「すっごい音」
「急いで離れるよ。あの係留所にあるレーダーはそう遠くまでは届かないから」
頭の中にある説明書を勢いよく捲りながら、ハンドルを握る。今まで動かしたことのない速度のせいか、ハンドルを少しでも左右に動かすだけで船自体が大きく揺れた。月の無い夜の海を、船灯も付けずに走らせる。
船内には古くて暗い明かりが一つ。機器に表示される数値を見ながら現在地を推測しつつ、頭の中の航路に船を乗せた。
「こんなに暗いのに星、見えないもんだな」
彼女は呑気に海を見ている。
「多分雲が出てる。月が見えないからわからないけど」
そう返しながら、半分も分からない計器を私は舐めるように見る。私の免許では本来この大きさの船は乗ることができない。実際に運転するのもこれが初めてだった。
乗り慣れた船を選ばなかったのは、単純にエンジンの性能である。出力がかなり低く、あの小さい船で遠くへ行くには不安が大きかったのだ。
係留所はもう見えず、誰かが追いかけてくる様子は無い。安堵感の中、頭痛がするほど高まった心拍が収まることはなかった。あの教室のように、私達はどこまでも二人だった。
雨が少し降り出した。月はもう見えない。細かい水がかかって前が見えなくなった。私は旋回窓のモーターを回して水を飛ばす。波は少し高い。
「嵐が来る。私達を攫いに」
彼女はそう呟いた。無線から気象の変化を伝える情報が流れ出す。頭の中で情報を整理しながら、機器の状態を確認する。全て異常はない。
船灯の光に照らされる雨粒で現在の天候を把握しながら、航路を外れていないかレーダーを見る。
「海の向こう側より、ずっと海は深いよ」
彼女はブランケットに顔を埋めて、丸くなった。
激しく叩きつけられる雨に、視界が全て遮られる。船は何度も大きく傾き、その度に私は何度もハンドルを動かした。船灯は既に付けたが、視界は何の役にも立たない。
錆びついた欄干は軋み、エンジンは激しく咳き込んで震えている。計器を見ても何も分からない。
「現在地はまだ大きくずれてない、燃料もある、速度を落として、でもこの嵐がいつまで続くかなんて」
焦りがひどく喉を急かして、思考が全て外に出る。到着までの時間と、船の状態を考えながら、必死にハンドルを握りしめる。エンジンの回転数を落とそうとしたとき、船が一際轟音と共に大きく揺れた。勢い余って回転を想定よりも大きく下げてしまう。
だが、それ以上に今の音。
知らなくても分かる。感覚で理解できた。
──あれは船底が何かにぶつかった音だ。
視界が一気に狭まった。慌てて回転数を戻そうとしたとき、止まるはずのないエンジンが止まっていることに気が付いた。赤いバッテリーランプが点灯し、幾つかの針が一気に下がった。後を追うようにいくつかの光が同時に点灯する。
その中の一つに、浸水警告ランプもあった。そして、排水ポンプは作動していなかった。
船体にあたる雨の音だけが、響く。
「……」
私はハンドルを握ったまま、警告の光に照らされていた。ゆっくりと針が下がっていく何かの計器をただ見つめながら、動けなかった。
肩に感触。目をやると、彼女の手が私の肩の上に置かれていた。次に彼女を見る。彼女は仕方がないと言いたげな顔で首を振った。
「……水没を感知して救難信号が出た。どれくらいかかるかは分からないけど、助けが来る」
「じゃあ、それまでここで待つ?」
「救命筏を出す。船の後ろに一つあったと思う」
外を見ると、嵐が過ぎ去る気配は一向に無い。波は何度もデッキを打ち付け、碌な装備もない人が出られるような状態ではなかった。
私は床に座り込み、天井を仰ぐ。
「海がこうなるかもしれないって、知ってたのにな」
私の隣に彼女は座った。船体が揺れ、お互いの体が押し付けられる。
「楽しかったよ。久しぶりに冒険したみたいで」
懐かしい感覚だった。あの木の下で話していた頃を思い出した。今回、木から落ちたのは私だったのだ。急に悔しくなって自分の腕に爪を立てる。彼女は私の手をその上から軽く握った。
「もう船、乗れなくなっちゃうだろうな。無免許だよ」
「きっとまた乗るさ」
爪の先が水気を帯びる。どう謝れば、済むのだろう。なんと言えば、彼女は私のもとに来てくれるだろう。どこまでも、私には彼女が必要で、彼女に私は必要なかった。冷たい波の感触が心臓にまで届いて、酷く痛む。
「そうかも、ね」
「未来のお前はもっとでかい船に乗ってるんだろうなぁ。多分、すごい似合うと思う」
私の肩に頬を寄せて、彼女は楽しそうに言った。
「……絶対どこまでも連れて行くから」
「じゃあ生きなきゃ、だな」
それを聞いて、私は立ち上がった。再び計器の前に立ち、状況を確認する。揺れは酷いが、傾斜計は確実に前方が沈み始めていることを指していた。
沈む前にバッテリーの電力が尽きれば信号も途絶える。可能な限り、電力消費を抑える必要があった。船灯の一部を消す。
外を見ると、先程より雨は僅かに勢いを弱めている。傾き方からも、あともう少し時間があった。
「数分だけ様子を見て、救命筏を下ろす。そしたらそれに飛び乗って救助を待つ。中には水も食糧も入ってない。保存用の水が少し船内にあるから、今の内に集めて持っていこう。一人二本あれば救助まではなんとかなると思う」
「分かった。探そう」
私達は船内を漁り、持ち出せそうなものを一つの袋にまとめた。水と、ほんの少しの食べ物、古い匂いのする包帯。彼女は重量感のある袋を持ち上げると、底を軽く叩いた。船の傾きは、機器を見なくとも分かるほどに進んでいた。私は、扉に手をかけてから、彼女の顔を見た。彼女は頷いた。
私は扉を押し開けた。全身を押すような雨風の衝撃。まさに怒号の様な風の音とは、このことを指すのだと感じた。雨が入り込み、目を殆ど開けていられない。
一歩ずつ外に出て、滑らないようにしっかりとデッキを踏みしめる。手すりにしがみつきながら、時折船を飲み込もうとする波をやり過ごす。
救命筏ははっきり見える。しかしいつもなら簡単に行ける距離が、今は遠い。振り返ると、彼女も揺れに耐えながら、なんとか付いてきていた。海の水が目に染みる。ゆっくりと近付くにつれ、嵐が弱まっていくのを感じた。
やっとの思いで救命筏の格納コンテナへ辿り着いたときには、デッキにまで打ち付けられる波もほとんどなくなっていた。
「安全ピンを抜いて……レバーを引く」
私がレバーを両手で引くと、救命筏のケースは転がって海へ落ちる。炭酸ガスによって一気に膨張し、十秒と少しで完全に広がりきった。船とは細いワイヤーのようなもので繋がっており、どこかに流れていくこともない。
「これはどうする? もう投げ入れるか」
彼女は私に袋を見せた。救命筏まで、それほどの高さはない。しかし救助までの時間が分からない以上、跳ね返ったり、誤って海に落としたりなどといったことは避けたかった。
「先に私が降りる。すぐにその袋を落としてくれれば受け止めるから、その後降りてきて」
「分かった」
彼女がそう言うと、私は救命筏に飛び乗った。私一人分の重さなど簡単に受け止め、しっかりと浮かんでいた。彼女は身を少し乗り出して、袋を私に落とす。私はそれを受け止めると同時に、不安定な足場によって体勢を崩して座り込む。
彼女は袋が私に渡ったことを確認すると、私を見た。
彼女は私を見下ろしている。私は彼女を見上げている。彼女は何も言わず、身を乗り出したまま私を見ている。雨の中、私達はただ、じっと、目の前の相手だけを見ていた。雨の音が遠くなって、手の中の重量すら忘れてしまった。
依然として強い風に、私の口から溢れた言葉が流されていく。船首が海より低くなっている。船が完全に沈めば、このワイヤーも切れてしまうだろう。私は全身が震えるのを感じながら、彼女に手を伸ばす。
その瞬間、大きな波に当たり、船が急激に浮き上がる。わずかな時間、船体と救命筏の距離が大きく離れ、負荷が強くかかったワイヤーが切れた。音も立てず、視界の端をワイヤーの一部が駆け上がっていく。
彼女から目が離せなかった。船は徐々に遠くなっていく。
私の体が、ひとりでに前に出る。彼女を見上げたまま、神様に縋るように、這いずって、その先が海だなんてことは、私は知らなかった。
彼女が、いっそう身をいっぱいに前へ乗り出す。手が届きそうな気がした。声が存在しない世界で、唯一、彼女のその声だけが響いた。
「かごの外は、世界でいっぱいだった!」
私はそれから三日、海を彷徨って、生きた。
回転数を落とし、シフトレバーをニュートラルに。慣性で船は海上を滑り、やがて止まる。エンジンを完全に落としてから、積んであった釣り竿を掴むと、操舵室の外に出た。雨はもうすっかり止んでいて、月が再び顔を出している。
折りたたまれていた椅子を開き、座る。針に餌を付け、重りのついた先端を下ろす。リールは延々と回って、船はゆっくりと上下する。波が船体を打って、小さく水音を立てる。船体のきしみは大きな人が海の底で寝ているようで、水面が今すぐ何メートルも上昇して船を飲み込むような錯覚を起こす。
彼女は私の隣へやってきて、座った。私がその方をちらりとも見ないので、彼女が笑ったと分かった。
「三日彷徨った後、救助され、すぐに沈没したと思われる船の捜索が行われた。船は本来の航路から大きく外れた海の底で見つかった」
サルベージ船が向かって、船は引き上げられた。やはり船底に穴が空いていて、それが原因だろうということを聞いた。細かい調査書を見たような気がするが、あまり記憶には残っていない。ただ、覚えていることもある。
「船内には誰もいなかった」
結局、彼女は見つからなかった。誰にも見つからないまま、消えて、きっと冷たい海の底に呑まれていった。
やがて海底にはたくさんの蟹が集まって、たくさんの彼女になる。
私は、全て許された。船のことも、沈めたことも、彼女を連れ出したことも。何もかもを許されて、ここにいる。
釣り竿の先端が動いた。私は、リールを巻く。一定の速さで、ゆっくりと、ぐるり、ぐるり。手元に伝わる水圧が、両腕に流れていく。そうしていると、水面に船底が映った。それは徐々に蟹の甲羅に変わって、視界いっぱいまで大きくなった。
水面が跳ね、私は蟹を釣り上げる。とても大きな蟹を。手のひら二つ分くらいの、街を覆ってしまうほどの、蟹を。
蟹は私を見上げていて、私は蟹を見下ろしていた。それがどうしようもなく無意味で、虚しくて、私は座り込み、濡れたデッキに顔を伏せた。嗚咽はなく、絞り出したようなガラスの音が、私の喉から溢れた。
「……私のこと、恨んでる?」
彼女は空を見た。星が見えて、月の光が静かに海へ注いでいた。
「どうかな。忘れたよ」
私は、あの子を救えなかった。これからも。私がどれだけ歳をとっても、大きな船に乗っても、彼女を救うことはできないのだと分かった。
最後に何を思っていたのかも分からなくて、何一つとして分かっていくこともなかった。
私は蟹をそっと海へ放した。蟹は私に手を振り、揺れながら再び沈んでいく。
釣り竿を片付け、エンジンをかける。
プロペラが回る音が響き、やがて船を前へ押し出していった。
でかいカニ Stairs @Stairs
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