二話:【イギリス:1860年/コッツウォルズ地方】(後編)

 使用人との楽しい着替えを終えると、三階の自室から出て一階のリビングへと向かう。

 すると、私が“飛び降り”をしようと決断した要因となった母親が、リビングで白い封筒を何枚も開きながら座っている。


「お母様…おはようございます…」


 その封筒には、私の兄の名前が書かれている。


「あぁ…おはよう」


 母の目の下には黒く大きなクマができている。


「はぁ…また見てたんですか?自作自演のお手紙を」


 母は無理をして笑いながら、手紙を暖炉へと入れていく。


「ええ…心配で心配で心が壊れそうで、それを紛らわすためにね…」


 私の兄は2年前、清朝との戦争に出兵し、定期的に手紙を寄越してくれていたのだが、半年前から手紙が送られてこなくなった。


 そこから母はおかしくなっていった。

 いや、私の前では普通に振る舞っていた。

 だが私は見たことがある。

 真夜中、蝋燭が一本置かれたリビングで、今まで送られてきた手紙を抱えながら机に突っ伏し、使用人に慰められながら泣いているその姿を。

 別の真夜中、充血した鋭い目で延々と自作自演の手紙を書いているその姿を…。

 そしてまた別の夜、使用人に向かって放った言葉…。


「※※が消えてあの子が帰ってきてくれればいいのに…」


 その言葉に、私は母を慰めようとも助けようとも、ましてやこんな人間のために生きようとも思わなくなった。


 だが、今日の母の様子はいつもと違う。

 母は暖炉へ手紙を捨て終わると、いつもは見せない優しい笑顔を私に向けて話し出す。


「使用人ちゃん、ご飯はできているかしら」


 使用人は母の顔をどんよりとした目で見つめ、「はい」と一言返すと、皆の分の食事を用意し始める。

 私はそのやり取りを見ながら、ゆっくりと口を開き、母へ恐る恐る質問する。

 あの時の答え合わせをするために。


「お母様」

「ん?どうしたの?」


 一息つき、思い切って聞いてみる。


「お母様は私のことをどう思っているんですか?」


 その質問に母は驚いた表情を見せた後、申し訳なさそうな顔になり、私に近づいてくる。

 そして私を抱きしめ、一言。


「勿論………………いらないに決まっているじゃない」


 その言葉と同時に、使用人がいきなり飛び込んでくる。


「お嬢様!危ない!」


 それと同時に目の前に赤黒い液体が地面に広がる。

 使用人はそこに倒れ込み、母……いや、悪魔の手には血塗られた短剣が握られていた。


「あら、なんで邪魔するのかしら」


 そこには狂気じみた、人間とは思えない、近寄ってはいけない、関わってはいけない、そんな目をしている人間がいた。

 使用人は刺されてもなお、母へとしがみつき、その動きを封じている。


「早く…早く逃げてください!逃げろ!早く!」

「なに?このひっつき虫、邪魔なんだけど!」


 母は使用人を蹴り飛ばそうとするが、それでも離れない。


「なんでそこまでするの?あんな使えもしない小娘のために」


 使用人は母を睨みつけながら、血を口から垂らしつつも話し始める。


「使えない?あの子に対してそんなことを言うなんて…見る目がないな…」


 ドッ!


 使用人の背中に短剣が深く突き刺さる。


「うっ!」

「はぁ…いい加減にしなさい。雇い主は私よ。私の命令を聞きなさい。」


 それでも、やはり離さない。

 そして喋るのも辛いだろうに、ゆっくりと口を開く。


「お嬢様は今まで……嫌われてきた私の性格を……嫌わず……笑顔で……受け入れてくれた……だから!」


 最後の力を振り絞り、使用人が大声で叫ぶ。


「そんな優しいお嬢様は殺させない!」


 その気迫を私は見た。

 私を本気で愛してくれていた…。

 ずっと避けられてきた、誰かと本音でいることは許されないと思っていた私を…初めて許してくれた。

 まるでその感謝を命を懸けて返してくれているように。


 私はその言葉を聞いた瞬間、動かなかった足を無理やり動かし、家から飛び出した。

 使用人が命懸けで食い止めてくれた。

 だからこそ生き残らなければならない。


 家から出ると、街は荒れ果て、死体や体に何かが突き刺さった人々、殴り合う人々が散乱していた。

 自分の気持ちに嘘をつけない人々が作り出した、偽りのない世界がこんなものだったなんて…。


 私は必死に走り続け、いつの間にか街を見渡せる木々が少ない山の上まで来ていた。


 そこには、昨夜見た男…ハットが切り株に座り、バグパイプを吹いているのが見えた。

 よく聞くと「Amazing Grace(アメイジング・グレイス)」を奏でていることが分かる。

 まるで私の今の現実に慈悲を投げかけるように、綺麗な音色が響いている。


 すると、ハットは私がいることに気づき、演奏をやめて微笑んだ。


「やぁ、元気してたかい?」


 その微笑みに苛立ちを覚える。

 こいつのせいだ。

 こいつが何かをしたせいで、こんな世界になったんだ。


 すると、ハットは笑顔を絶やさずに話し始める。


「どうだったかな?この世界。君の望んだ“嘘のない世界”“偽りのない世界”は」


 腹が立ってくる。


「最悪です…みんなが人を殺して、殴り合って…母親が暴れ出して…」

「これが“偽りのない世界”だよ。嘘や偽りは、時には秩序を守る……ってそんなこと、君にとってはどうでもいいことか。」


 ハットは切り株から降りると、シルクハットを手に取り、バグパイプを中にしまい始める。

 それは普通ではあり得ない光景だったが、今の私にはどうでも良かった。

 するとハットは補足するように言葉を付け足す。


「あ、ちなみに僕がこの世界にしなくとも君はいつかころ…」

「違う!」


 私は声を荒げる。


「そういう問題ではありません!そもそも私は頼んでなんかいません!いきなり現れて『幸せ』だとかどうとか言い始めて!」


 目を見開いて叫ぶ。


「幸せどころか最悪です!消えてください!」


 ハットは「ふ〜ん」といったように軽く返す。


「じゃあ戻す?」

「え?」


 私はつい声が出る。


「え…戻すって…」

「時間を戻すでもいいし、元の世界に戻すでもいいし…記憶を消すでもいいし、なんでもいいよ」

「え…だからどういう…」

「僕は最初に言ったと思うよ。君を“幸せ”にしに来たって。そのためなら時間を戻すよ、人を殺すよ、なんなら君自身が死にたいなら僕が殺すよ」


 私は青ざめる。

 この人はいろんな意味で狂っている。


「あれ?※※」


 すると後ろから声が聞こえる。

 私の名前を呼ぶ男性の声。


「え?お兄様?」


 そこには、昔からよく遊んでくれた、私が泣いた時は慰めてくれた、だからこそ偽りなく接してくれていると一番信じたかった人物。


「※※!」

「お兄様!」


 私は兄と抱き合う。


「ただいま!」

「おかえりなさい」


 するとハットが後ろから話しかける。


「僕が軍の基地から呼んできた。今君の家が大変なことに!的な感じにね。あ、ちなみに説明ももう終わっているよ」


 私はその話を聞いてびっくりする。


「いやほんとびっくりしましたよ…いきなり帽子が出てきたと思ったらそこから人が出てくるんですから」


 兄が、この嘘のつけない世界で唯一まともに見えて、安堵感が襲ってくる。


「なんか嬉しそうだね」


 ハットに言われ、顔に出ていることに気づく。


「ええ…これであの人たちと住まなくても良くなるって思って」

「へ〜…なんでそう思うの?」

「兄がいれば、あの人達とも暮らさずに済みますから。お金ならお兄様がいますし。きっとお兄様もあんな奴らと暮らしたくないでしょうから」


 私は笑顔でハットを見つめて言う。


「I'm so grateful, I feel on top of the world.(本当にどうもありがとう、今すごく幸せだよ)」


 ハットは私の後ろへ目線を向けながら一言。


「You're welcome.(どういたしまして)」



______

 彼女は知らない。

 後ろで銃口を君へと向けるお兄さんがいることを…。


 バン!




「彼女はなんとも被害妄想が凄まじい子だったな〜」


 私、ハットは元の平和なコッツウォルズ地方の片隅に佇む豪邸を、一際大きな木の上から眺めている。

 その豪邸の中では、男女三人が静かに食卓を囲んでいた。

 一人の男は皿の隣に血塗られた拳銃を置き、もう一人の女性は幸せそうな表情で楽しげに食事を取っている。

 そして、使用人として雇われているらしいもう一人の女性は、二人の間に立ちながら、笑顔で料理をテーブルに並べていた。


 そんな風景を眺めながら、僕は時間にしてたった三時間という短いあの出来事を思い返していた。

 そして、手に持つ紅色の勾玉に視線を落とす。

 その勾玉には『継』という漢字が刻まれている。


 僕はその勾玉を軽く放り上げ、くるくると回るそれをそのまま口の中へ落とし込んだ。


 彼女は、いろいろな意味で「好き」の感覚が狂っている子だった。

 言うなれば――ヤンデレというべきか。


 まあ、殺されてこれが出るのであれば、“幸せ”だったってことなのかな?


 さて、次の国はどこにしようか。

 不幸な子を探して、この勾玉をまた手に入れるために。

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異能怪奇伝「ハットは幸せを運ぶ」 卵焼き🍳 @tamagoyaki2830853

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