異能怪奇伝「ハットは幸せを運ぶ」
卵焼き🍳
一話:【イギリス:1860年/コッツウォルズ地方】(前編)
綺麗な天の川が見える、そんな静かな夜。
窓を開けて夜空を見上げる。
私はこの夜空が好きだ。
偽ることのない、本当の美しさを、永遠に見せてくれるから。
でも、こんな夜空を見ると、いつも思い出してしまう。
偽り、嘘をつき、無理やり笑顔を作り、平気な顔で酷すぎる言葉を吐く人たちのことを。
そんな世界に嫌気が差していた。
いい加減、もうこんな世界で生きていたくない。
私は窓の淵にそっと足を乗せる。
ここは三階。落ちたら大怪我どころか――命だってどうなるかわからない。
でも、それでいい。
意を決して窓の外に一歩踏み出そうとした瞬間、目の前にありえない光景が広がった。
自然法則を無視して空中に浮かぶ男。
都会の貴族かマジシャンを思わせる華やかな衣装に、白いマントをひらつかせている。
白い大きなシルクハットを被ったその男は、浮かぶようにして私の目の前に立っていた。
「やあ、初めまして。僕のことは『ハット』とでも呼んでくれ」
その「ハット」と名乗る男は、笑みを浮かべる。
それが偽りのない笑顔かもしれない――そう思わせるような、不思議な雰囲気を持っていた。
「……何のご用でしょうか?」
率直に問いかける私に、ハットは耳を疑うような言葉を発する。
「ふふ、僕は君を――」
そう言いながら、彼は私の両手をそっと取り、窓の淵から静かに降ろした。
「『幸せ』にしにきた」
その言葉に、私は目を丸くする。
「あの……『幸せ』って……つまりどういうことですか?」
「え?言葉そのまんまの意味だよ」
ハットは首を傾げ、不思議そうに答える。
「君を『幸せ』にする。そのために来たんだ」
その言葉に、私は苦笑いを浮かべる。
「私はもう十分『幸せ』です。なので、お帰りください」
せっかく踏み出せそうだった一歩を、訳の分からない不審者に邪魔されてしまった。
そう思っていると、彼は私の顔にぐっと近づいてくる。
「本当に?『幸せ』、つまり今の現状で満足しているから“飛び降り”をしようとしていた、ってことかい?」
「い……いえ!あれはスリルを感じたくて……!」
苦しすぎる言い訳だと自分でも分かる。
彼は「ふ〜ん」と鼻で笑った。
「へえ。さっきまで“偽ってばっかりの嘘つきな人間が大嫌い”そんな世界なんて嫌だ”って考えてたのに、自分は平気で嘘をつくんだね」
その言葉が心に刺さる。
「そ……それは……」
何も言い返せない私に、彼は素敵な笑顔を向け、「冗談だよ」と言いながら頭を撫でてきた。
私は思わず、その手を払いのける。
「確かに私は『幸せ』じゃありません。それに、あなたに嘘をつきました。……私は周りの人間だけじゃなく、こんな自分自身も嫌いなんです。だから――こんな私から、人間として生まれてしまった私から、消えたいんで……」
気がつけば、私はついムキになって話しすぎてしまっていた。
はっとして口を押さえると、ハットは突然大笑いを始める。
「ははは!何それ!変なこと考えてるんだね!はははは!」
腹を抱えて笑う彼に、私は顔が赤くなるのを感じた。
すると彼は、ポケットから小さな鏡を取り出し、私に向けてきた。
「なんだ、顔は正直じゃん。『全部が嘘つきだ』とか言ってたけど……体は正直みたいだね」
その言動に、私は少しイラッとして自分のベッドに戻る。
「お騒がせして申し訳ありませんでした!もう帰ってください!」
彼はニコッと笑顔を浮かべながら、こちらを見つめると窓の方へゆっくりと歩き出す。
「あ〜あ、拗ねちゃった」
「! 拗ねてなんかいません!」
「あぁあぁ、もういいって」
彼は軽く手を振るような仕草を見せると、窓の淵に腰掛けた。
そして、こちらを向いて一言、言い放つ。
「明日は君の望む“幸せ”の世界になってるから、楽しみにしててね」
その言葉を残すと、彼は窓から飛び降りた。
「ちょ、待って!」
私は慌ててベッドから飛び出し、彼を助けようと窓際に駆け寄る。
しかし――窓の外には誰の姿もない。
あるのはただ、静かな夜の風景と、綺麗な天の川だけだった。
翌日。いつもなら、朝になると家で働いている使用人が優しく私を起こしに来る。
だが、その日の言葉はあまりにもおかしかった。
「おい!早く起きろ、ガキ!私はこんな朝早くから起きてんだぞ!」
いつも穏やかに声をかけてくれる使用人が、まるで人が変わったかのように声を荒げてきたのだ。
「あ……え?」
あまりの変わりように、思わず惚けた声が出る。
すると今度は、扉を乱暴に殴り、蹴り始めた。
「おい!返事しろや!」
その威圧的な声に、私は慌てて返事を返す。
「あ、はい!起きました!」
使用人は「チッ」と舌打ちをすると、乱暴に足音を響かせながら部屋を離れていった。
その瞬間、昨日の「ハット」という男の言葉が頭をよぎる。
――“明日は君の望む幸せの世界になってるから”
(……なるほど、こういうことか。)
私は、あの優しい使用人にも裏があることを薄々感じてはいた。
でも、その本性がこんな形で表に出るなんて思ってもみなかった。
いつもなら、楽しく話しながら着替えを手伝ってもらっていたのに、今日はそれがない。
少し悲しく思いながら、自分で着替えの準備を始める。
すると、扉がノックされる音が聞こえた――が、返事を待つ間もなく使用人が部屋に入ってくる。
その手には、学校へ着ていくドレスコードが持たれていた。
「え?」
突然の来客に目を丸くしていると、使用人が無言で私の服に手をかける。
「早く脱げ。学校に遅れるだろ」
その声には荒々しさがある一方で、どこか優しさも感じられた。
「あ……ありがとうございます……」
先ほどの荒々しい態度が頭をよぎり、つい体が萎縮してしまう。
そんな私を見た使用人は、ふと優しい目で私を見つめる。
「別にさっきのは、早起きして機嫌が悪かっただけだよ。そんな萎縮すんな。やりづらい」
「そうですか……」
私は心の中で、また一つ理解した気がする。
この世界――嘘をつく人間がいない世界。
それは、心だけではなく、体もまた嘘をつけなくなるということだ。
本当はあんな荒々しい起こし方はしたくなかったはず。
でも、返事をしない私をどうにか起こしたいという思いが抑えられず、扉を蹴るという行動に出たのだろう。
この世界では、それすらも許されないのだ。
「使用人さん……」
私は自然と笑顔を浮かべ、使用人の顔を見つめる。
「いつもありがとうございます」
その一言で、使用人の顔が一気に赤くなる。
そして、私の頭を撫でながら、照れ臭そうに笑う。
「別にいいよ。私だって好きでこの仕事やってんだから」
確かに、本性は少し怖かった。
でもその奥には、ちゃんと私のことを大切に思い、愛してくれている優しさがあった。
正直になるのは、確かに怖い。
でも、それを乗り越えた先には、今まで以上に深い絆が待っているのかもしれない。
(意外と、悪くないかもしれないですね。この世界)
そんなことを思いながら、本音で話し合ういつもと違った楽しい着替えの時間を過ごした。
その光景を高所から見守るハット。
「ふ〜ん……この世界も悪くないね〜」
そう呟きながら、彼は街の方へと目を向ける。
「さて……その気持ち、いつまで保てるかな?」
彼の視線の先には、荒れ果てた街が広がっていた。
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