第5話
翌日。登校して教室に入ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。少しずつ汗がひいていくのを感じながら、俺は自分の席に着いた。
朝の教室をぐるりと見渡す。それぞれのグループでそれそれの友達と、楽しそうにお喋りする生徒たち。そんな何気ない日常の風景に、ただ一人、周りとは違って見えるものがあった。
「音ちゃん聞いてよー。昨日の部活、先輩に遅くまで残らされてさぁー、もう足ぱんぱんになっちゃったよぉ」
「あはは、それはスパルタだったねぇー」
友人の話に、笑って相槌を打つ、逢坂さんがいた。いつもだったら見惚れてしまうところだが、今日の俺は、別の考えで頭が埋め尽くされていた。
『今年の祓戸祭りの夜。音羽が神隠しに遭って、この世界から消えてしまうかもしれない』
「……っ!」
昨日の神宮寺先輩の言葉が、頭をよぎる。こみ上げる胸苦しさを嫌って、俺はゆっくりと深呼吸した。
先輩の話は、にわかには信じられないものだった。一晩経った今でも、その印象は変わらない。ただ、昨日の先輩の言葉には、どれを取っても妙な重みがあった。聞いてすぐの頃は大きかった驚きも今では薄れ、じっとりとした現実感に上塗りされていた。
楽しそうに笑う逢坂さん。その表情には、一点の曇りも陰りも見えなかった。
「…嫌だな」
あの笑顔が、もう少しで、消えてしまうかもしれない。町を守る、神への生贄にされて…。
そうなれば、俺は、逢坂さんと、二度と会えなくなる。
そう考えただけで、俺の心には、数え切れないほどの思いが巻き起こった。なにがなんでも、絶対に彼女を失いたくない。失わせたくない。だから俺は、神宮寺先輩が言ったように、彼女を神隠しから守らないと―
「あっ」
「ん?どしたの音ちゃん」
逢坂さんと目が合った。ドキン、と俺の心臓が跳ねたのが分かった。
蛇に睨まれた蛙ではないが、驚きと緊張で動けずにいる俺を、逢坂さんの大きな瞳が捉え続けていた。
「いや、なんでも。ごめん、何の話だっけ?」
「もおー、忘れるなんてヒドイよぉ」
さっ、と顔を戻して、逢坂さんは会話を再開した。見つめ合ったのは、時間にして約三秒ほどだろうが、俺には永遠どころか、時そのものが止まったように感じられた。
「…こんな調子で大丈夫かよ」
甲斐性のない自分に溜息を吐き、俺は、家から持ってきた文庫本に目を落とした。
昼休憩。
豪が学校を休んだ。普段から遅刻の多い豪は、今日みたいに学校そのものも時々サボることがある。だから俺は、別に気にしていなかった。まあ、一人きりの昼食も悪くないしな。
というわけで、気分を変えて外で食べることにした。校舎から伸びる渡り廊下。その先に建つ体育館の壁際に、いい感じのベンチが置いてあった。
「こんな青春スポットがあったとは」
ベンチに腰掛け、さっそく弁当をもぐもぐ食べる。影になっていて涼しいし、眼前に広がる誰もいない校庭も風情がある。これで隣に逢坂さんがいたら最高。俺が食べてるのが逢坂さんの手作り弁当だったら昇天。
「ふう、ごちそうさま」
一人きりの昼食を満喫して、俺は両手を合わせた。袋に入れた弁当箱を腰のそばに置き、膨れた腹を軽く撫でる。見上げた空には、燦々と光る太陽があった。
「はぁ…どうしようかな」
俺は呟いた。突然告げられた神隠しの件も、逢坂さんへの片想いも、そして、小説家になりたいという自分の夢も…今の俺には、頭が爆発しそうなほど、たくさんの悩み事があった。
特に小説に関しては…この半年、いや、下手したらこの一年、ずっと頭を抱えている。少しずつ成長している実感はあるが、満足できる結果は出せていない。それにも関わらず、進路という名の決断は、着々と近づいてきている。俺には、もう時間がなかった。
「とりあえず、早く新作を書き出さなきゃな…」
言葉を漏らした。その時、ぶわっと、一陣の風が吹いた。前髪が目にかかり、一瞬、視界が奪われる。流れる髪をかき分けた俺は、そっと瞼を上げた。校庭には砂埃が舞っていた。
「あれ?なにしてるの、相沢くん」
急に声がした。まるで、優しく耳を撫でられたような、すごく聞き心地の良い声だった。
「いや、ここで弁当食べてた」
俺は答えた。そして、突如として目の前に現れた、一人の少女を見上げた。
―
普段は全く関わりがなく、これまでに言葉を交わしたのも数回程度。だから俺は、声をかけられたことに、軽く驚いていた。
「へえ、相沢くんもここで食べるんだ。私もたまに…ほら」
杵村さんが、水色の弁当袋を掲げてみせた。俺は再び驚いた。
「え、そうなの?なんでわざわざ、こんな場所で?」
一緒に食べる友達がいない、俺みたいなヤツならともかく。委員長の杵村さんは、俺の中では、人付き合いの上手い社交的なタイプの人間だった。
「今日は職員室に書類を届けてたから、そのついで。あと私、一人でいる方が好きだし」
「マジ?あ、だったら邪魔だよな。もう食べ終わったし、帰るわ」
俺が腰を上げようとすると、杵村さんは目を丸くした。
「え、別にいいのに。まあ、私と一緒にいるのがそんなに嫌なら、止めはしないけど」
「お隣どうぞ…」
俺は身体をベンチの端に移動させて、空いたスペースを手で差した。今みたいな言い方されて本当に帰ろう日には、「腹黒い」とかいう噂を立てられかねない。女子ってコワイ。
「ありがと」
杵村さんが隣に座った。シトラスの香りが、ふわりと漂った。
「一人が好きって、あんまりそういうイメージなかったわ」
俺は、杵村さんの横顔に話しかけた。
「そう?…まあ私、学校では誰かと一緒の時が多いからか」
俺にというより、自らに対して答えた感じだった。
「あ、ごめん。全然食べながらで」
「ありがと。じゃ、いただきます」
卵焼きを一つ、口に含んだ杵村さん。綺麗な所作だな、と思った。
「そう言う相沢くんも、一人の方が好きなの?」
「そうだな。友達と過ごすのも楽しいけど、ずっと一緒だと面倒くさい。それに、一人でいる方が考え事はしやすい」
ここでの友達とは、新島豪ただ一人を指す、極めて限定的な用法であることは伏せておく。
「ふうん…。考え事って、具体的にはどんなこと?」
「えっ」
そこ突いてくるのかよ。…いかん、なんと答えたものか。
俺が答えあぐねていると、杵村さんがハッとした表情を見せた。
「エッチなこと?」
「断じて違う」
一瞬で否定すると、杵村さんは悔しそうな顔を見せた。それから「うーん」と、空を見上げて唸りはじめた。
「なんだろうな…哲学的なこと?人生とは何か、みたいな」
「それもまあ、時々あるけど」
俺が言うと、今度は嬉しげに笑う杵村さん。もしかしてこの人、変わってる?
「あのさ。なんでそんなこと知りたいんだよ」
こらえ切れなくなって尋ねると、杵村さんは小首を傾げた。
「そんなの、相沢くんのことが気になるからに決まってるじゃない」
「…っ」
いきなり心臓を銃で撃ち抜かれた。
「き、気になるって、なんでだよ」
「んー。授業中の相沢くん、いつも様子がおかしいから。すごく真剣な顔でノート取ってると思ったら、突然ニヤニヤ笑い出したり。かと思ったら困ったように頭を抱え込んだり」
「ぐはっ!」
いや、気になるってそっちかよ…。ていうか全部見られてたのかよ。俺そんなに目立ってたのかよ。小説のアイディア考えてる時の俺、そんなに「見ちゃダメ!」の人だったのかよ。
「あ、心配しないでも、私以外は誰も気づいてないと思うよ」
勘違いを招く発言が再び投下された。が、さすがに今度は無視する。
「いやあの、実は…」
俺は、もごもごと口を動かした。どうせそこまで見られていたのなら、いっそ全てバラしてしまおう。そう思った俺は、杵村さんに秘密を打ち明ける決意をした。
「俺、小説を書いてるんだ」
言った。ついに。まさか家族と豪以外の人間ではじめて明かすのが、杵村さんになるとは。
「……」
杵村さんは、何も言わなかった。呆れて物も言えないのか、それとも驚きのあまり絶句しているのか。どちらにせよ、俺にとっては耐え難い沈黙だ。
「いや、だからさ。授業中の様子が変なのも、あれ全部、小説の構想練ってたり、思いついたことメモしたり、あと、ちょっと詩みたいなのを書いたりしてて…」
言葉の途中で、俺の顔に熱がこみ上げた。きっと、ゆでだこみたいに真っ赤だろう。
「だからまあ…考え事ってのは、そういうことだよ」
俺は吐き捨てるように言った。相変わらず黙ったままの杵村さんは、そのぼんやりとした瞳を、静かに俺に向け続けていた。
なんで、何も言ってくれないんだろう。これじゃ、一生懸命に説明した自分が馬鹿みたいじゃないか。冷笑でも、ドン引きでもいい。わかりやすい反応を、見せてくれよ―
「…素敵だね」
「え」
それは、世界に一つだけの、魔法の言葉だった。
「物語って、たしかに人を動かす力があると思うの。それを自らの手で、誰の目にも触れることなく、情熱を持って作り続けるって、本当に素敵なことだと思うな」
どこまでも優しく、そして美しく、彼女は言葉を紡いだ。それを聞いた俺は―
「うっ…」
「え?ちょっと、相沢くん⁉」
杵村さんが心配した声を上げる。俺の頬を、一筋の涙が伝った。
「ご、ごめんね?私、なにか気に障るようなこと言ったかな?だとしたら、本当に悪かったわ。ごめんね、相沢くん」
違う、そうじゃない。俺は、嬉しかったんだ。自分がやっていることを、何のためらいも飾りもなく、ただ「素敵だ」って思ってもらえたことが。賛辞でも嘲笑でもない。俺が本気で打ち込んでいることを、どこまでも率直に、美しいと感じてくれたことが。俺は、ずっとその言葉を、待っていたんだ。「素敵だ」って、ずっと言って欲しかったんだ。
「相沢くん…?」
「はは、ごめんな。俺は平気だから」
「ごめんね。知ったような口きいて…」
「違うよ。俺はそんなこと思ってない。ただ…」
杵村さんは思い違いをしている。だがそれは、この世で最も無視してはいけない思い違いだ。
だから俺は伝える。みっともなく溢れる涙を拭って、夏の空気を胸いっぱいに吸い込んで、俺は伝える。
「ありがとう」
「…!」
驚いたような、呆気に取られたような。杵村さんは、そんな表情を浮かべた。なんだか晴れやかな気分になった俺は、最後に一つだけ、彼女にあることを伝えた。
「昼休み、あと三分しかないぞ」
「あっ…」
何気なく伸びる影の下、杵村さんは目にも止まらぬ速度で弁当を食べた。それでも綺麗な箸使いに、俺は素直に驚いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます