漆 断じて

 万力の山地に布陣した信虎は防衛陣形を整えて今川軍の襲来を待つ


 (今川は人数こそ多いが兵1人1人で考えればこちらに分がある。この狭隘な山岳地帯で戦うとなれば個々の力が試されるし、何より海沿いが領国の今川軍は山岳戦に不慣れであろう。とはいえ、圧倒的な兵力差だ。苦しい戦いになるがここが生きるか死ぬかの分かれ道だ―)


 信虎にこれ以上後退する道はなく、踏みとどまることができなければこれまで存続させてきた武田家を滅ぼすことになる


 覚悟を固める信虎だが、一つ不安なことがあった

それは小山田氏の動向である


 小山田氏は今、本拠地である郡内地方の防衛にあたっており、実際今川軍の別動隊が甲斐南東部の端、吉田城(現在の山梨県富士吉田市)を占拠。小山田勢と交戦している

 だが、信虎が石和館から撤退したとの一報を受けて離反するのではないか、という不安だ


 (小山田信有が今川に降れば、その別動隊も参戦してくる。そうなればいよいよ勝ち目が薄くなってしまう)


 信虎の危惧はあながち的外れなものではなかった




 ここは小山田氏の本拠地である中津森なかつもり館(現在の山梨県都留市金井)


 今まさに小山田の一門や重臣が集まって評議が行われていた


 その議題は、このまま武田家に従うか否かである


 小山田家重臣の小林昌喜こばやしまさよしがまず意見を述べる


 「信虎様はしぶとい男です。報告によれば武田軍の戦意も依然として高い。流石の今川軍も進軍できるのはここまでではないかと考えております」


 昌喜は武田家に従い続けるべきだと言ったが、その意見はこの武田家の劣勢な現状において少数派だ


 一門の小山田弾正おやまだだんじょうが反論する


 「いやいや昌喜殿の目も遂に鈍られたか。武田家はもはや虫の息である。これ以上従っていたら今川に睨まれて家を滅ぼすだろう」


 彼の意見に重臣の小菅こすげ氏などが賛同する一方、小林昌喜や与力の加藤虎景かとうとらかげなどが粘り強く武田家に従うべきと主張し、議論は平行線をたどる


 遂に小山田氏の行く末は当主、信有の一存に託された


 信有もまた迷っていたが、ここでふと思い浮かんだのは妻の存在である

信有の妻は信虎の妹であり、政略結婚ではあるが相性が良くお互いに愛し合う存在になっていた


 (我々は武田家から好待遇を受けている。その恩もあるし、ここで離反したら妻が悲しむであろうな…)


 信有は情に動かされたのか。下した決断は…


 「武田家にはこれまで良い待遇をしてくれた恩があるし、戦況的にも武田家に反撃の余力があるように思う。わしは武田家の底力にかける!」


 こうして小山田氏は武田家に従う決断に至り、信有は信虎の陣屋に使者を向かわせてあるものを送った


 「御屋形様、我が主君・信有様からの贈呈品です。何卒、お受け取りくださいませ」


 信虎が考えを巡らせながら恐る恐る包みを開ける

すると、その中には一本の短刀があった


 「これは…」


 「我らが小山田家の始祖・小山田有重おやまだありしげ公所有と謂われ、当家に代々伝わる短刀です」


 小山田の使者の話を聞いて信虎は驚く


 「そ、それは大変なものだ。家宝ではないか」


 信虎は一瞬返そうとも思ったが、ここで信有の意図を読み取る


 (これは小山田信有がわしに家の命運を預けた、ということか!これは返さずに思いと共に受け取るべきだろう)


 「あいわかった。共に今川軍と戦い、断じて打ち破ろうではないか!」



 信有の判断に妻に対する多少の情が入ったことは確かだが、最後に腹をくくらせたのは信虎のこれまでの戦い様であったのだろう


 そして迎えた9月28日

万力の近くに布陣した今川軍2万が遂に動き、命運をかけた一戦が幕を開けるのであった―

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