陸 南風

 釜無川と笛吹川


 この両河川が合流して富士川と名前を変え、駿河の海へと流れていく


 富士の高原と南アルプスの狭間―狭隘な地を流れる富士川は他に水の抜け道がないことから古来より暴れ川として知られており、特に甲府盆地から一気に狭まる鰍沢かじかざわ(現在の山梨県富士川町)周辺は行き場のない水が滞留する洪水多発地点である


 その富士川沿いの隘路(河内路)をひたひたと北上しているのは、今川氏親率いる2万の大軍だ


 (我ら今川軍が甲斐侵攻を躊躇していたのはこの狭隘な道で敵の奇襲を受ける危険性があったからだ。だが、穴山氏がこちらに付いた以上、もはや邪魔者はいない)


 今川氏親は甲斐侵攻の成就を確信し、ほくそ笑む


 一方の信虎は甲斐中南部の拠点である勝山城に援兵を送り守りに徹した

しかし今川軍の数の多さに対抗する術はなく…


 「ご注進!勝山城陥落ッ」


 「なに、3日ほど前に敵が来襲したと聞いたばかりだぞ」


 「今川の大軍の猛攻に遭い、あえなく…」


 勝山城が落ちたことにより、甲府盆地に今川軍がなだれ込む


 「放火だ放火だー!」


 「金目の物を奪えー」


 「いい女はいないかーっ」


 武田軍が守勢なのをいいことに、今川方は略奪、放火などを行う

国中で火の手があがり、甲府盆地はさながら地獄の釜と化した


 (くっ、好き勝手に荒らしていきやがって!)


 信虎は今にでも飛び出して行きたい気持ちであったが、小勢が単に突入していっても勝ち目はない

 そこで信虎が考え出したのは、笛吹川を利用して戦うことだった


 (勝山城を拠点にした敵は石和館を目指して進軍してくる。その際には必ず笛吹川を渡らなければならない。渡河をする際はどんな大軍でも進軍速度が落ちる。そこに弓矢をもって射撃し敵の勢いを削ぐ。いくら大軍といえども人の集まりだ、流れを変えれば可能性を見出せる…!)


 信虎は4千の軍勢で石和館を出陣し、笛吹川沿いの砂原に布陣

今川軍の襲来に備える


 そして今川氏親は遂に占拠した勝山城を出陣し、信虎の待つ笛吹川の南岸に布陣

北岸の武田軍と睨みあった


 数日のにらみ合いが続いた後、今川軍は重臣の福島正成くしままさしげを先鋒として渡河を始める

それに対して武田軍は当初の想定通り弓矢をつがえ、射程範囲内に敵が入るのを待ち構えた


 そんな中、武田軍本陣では荻原常陸介が呟く


 「今日は南風が強いですなぁ」


 参謀の一声を聞き逃さなかった武田信虎は常陸介にその真意を尋ねる


 「敵は南から押し出てきます。通常であれば渡河時の水圧により進軍が鈍りますが、今日はその敵を押し上げるような強風です。また、この風なら矢には逆風となり距離も伸びない。これは厄介ですぞ」


 その常陸介の危惧は見事なまでに的中してしまう


 今川軍は風に押されて勢いを緩めないまま渡河し、一方の武田方の放った矢は逆風に晒されて失速する

 あっさりと渡河を許す結果となり、白兵戦でも今川軍が数で圧倒


 武田軍は総崩れの危機に瀕した


 「御屋形様、これ以上ここで戦っても勝ち目はありませぬ。退却されるべきかと!」


 重臣の甘利宗信あまりむねのぶが撤退を進言するが、石和館は戦場のすぐ北にあるため、


 「館に撤退しても間髪入れず敵が襲来してしまう。どうしたものか」


 参謀の荻原常陸介に助言を求めた


 敗色濃厚な現状においても極めて冷静な常陸介は石和館を一旦捨てるべきだといい、


 「ここは万力まんりきに撤退し、再起を図るべきかと存じます」


 と助言した


 万力は現在の山梨県山梨市万力という地名で残っている

石和から見て笛吹川の上流にあたる地域だ


 「確かに万力まで行けば山が深くなっていく。山岳戦で再起を図るのだな」


 「はい。今の戦況を鑑みれば地形に頼るのが大事です。この甲斐の大自然を武器に、味方にして諦めずに戦っていきましょう」


 「うむ!」


 こうして武田軍は石和付近の戦場から退却し、笛吹川の上流を目指した

一方の今川軍は下手な深追いをせずに石和館を占拠。じっくりと追い詰めていく作戦に出たものである


 今川軍は各地を荒らして周り武田軍の士気低下を図ったが、万力に撤退した武田軍は士気が下がるどころか戦意の上昇を見せる


 「敵は我らが甲斐の家や畑を荒らしている。そんな酷いやつらに負けてたまるか!なあ!」


 「そうだ!最後まで戦うぞ!ここまで一緒にやってきたんだ。今回もこの皆となら乗り切れるぞ!」


 総大将である信虎が決して諦めずに言葉でも、そして戦う姿でも味方を鼓舞してきた。その姿勢に武田の将兵は感化され、一致団結。百万力、千万力の底力を得て再起を図るのであった

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