第2章 戦隊ヒロイン
前の職場仲間との、送別会ともただの飲み会とも分からない宴会も終了し、留美が少し仕事にもなれてきた数週間後、新たな展開が始まった。
「留美さん、ちょっとよろしいですか。」
珍しく事務所にいた豊田課長は留美に声をかけた。相変わらずきちんとした身なりで言葉も丁寧だ。ただ、手はすごい勢いでキーボードをたたいている。顔はこちらに向いているのに、ちゃんと文章が打てているのだろうか。もしかすると豊田課長はただものではないかもしれない。初見は、若干セクハラ親父が入っているかと疑ったが、実際にはそのようなことはなく、通常は極めて普通の言動で、むしろかなり優秀な奴なのではないかと留美には思えた。そうはいうものの、いつからか、名前で呼ばれるようになっており、慣れてきたらいずれ「ちゃん」付けになるのだろうか。
「はい、なんでしょうか。」
留美も、神妙に答える。小さな職場なのでもう少しくだけた口調でもいいのではないかと思うが、メンバーも誰もが丁寧で、自分だけくだけるのも気が引ける。
「留美さん、来週から3週間、スプリングエージェンシーという会社に派遣で行ってもらいます。ここは、いわゆるイベント会社で、着ぐるみショーとか、映画の撮影の補助とかやっている会社です。毎年、今の時期になると派遣の依頼が来るので、うちから出しています。少し肉体仕事になりますが、留美さんなら大丈夫でしょう。最初はすこしきついと思いますけど、楽しんできてください。」
来た、とうとう来た。前に豊田課長から聞いてはいたが、自分が別の会社に派遣されるとは。しかも着ぐるみショーの会社。今まで、きれいなオフィスでのデスクワークが楽すぎたつけがまわったきたということか。しかし、自腹で空手エクササイズに通っていたことを考えれば、いいトレーニングになって逆に一石二鳥かもしれない。
「留美さん、最初は大変だと思うけど頑張ってね。」
と、川島がフォローしてくれる。
「かしこまりました。」
このGBプランニングに移ってからというもの、前の職場のようなもやもや感もなくなり、空手エクササイズに通うこともなくなっていた。少し体を鍛えるつもりで行けばいいか、留美は覚悟を決めていた。
派遣先のスプリングエージェンシーは、本社から少し離れた郊外のビルの3階にあった。今の職場はピカピカの巨大なビルだが、ここは築4、50年経っていると思われる、薄汚れた殺風景な雑居ビルだ。留美は前の会社の昭和の事務所を思い出した。また同じような環境に逆戻りかもしれない。
入り口にはすりガラスの扉に、白い文字で「スプリングエージェンシー」と電話番号が描かれていた。留美が恐る恐るドアを開くと、そこには1フロアをそのまま1つの部屋にしたような板張りの空間が広がっていた。そして、20代から、30代のジャージ姿の男女が練習をしているところだった。
留美は、少し声を張って「こんにちは。GBプランニングから来ました木隅です。よろしくお願いします。」とあいさつをした。GBプランニングに移動してからこっち、大きな声であいさつする機会が増えており、だれに対してというわけでなく、ただ大声であいさつするということにも慣れてきたのであった。
「あー、木隅さんだね。いらっしゃい。よろしくね。」
部屋の端のほうから、50代くらいのひげの男性が手を振りながら歩み寄ってきた。上は何か意味不明の英語が書いてある真っ赤なTシャツ、下はハーフパンツというくだけた格好だ。予想通りの展開。留美は、昭和の事務所の予感が的中しそうな気がして一瞬ブルーな気持ちになった。うーん、この雰囲気だと、かなり緩いか・・・・。
「スプリングエージェンシーの社長の深井です。むさくるしいところで申し訳ないけど、今から3週間ここで頑張ってください。早速、殺陣(たて)の練習しますから、そっちの更衣室で着替えて下さい。」
見かけによらず言葉遣いは丁寧だ。深井は部屋の向こうに向かって叫んだ。
「ちょっとー、佳代ー、新人さん案内してー」
「はーい」
佳代と呼び捨てにされた、上下ジャージの20代前半の女性は部屋の反対側から、練習中の人を避けるように駆けてきて一礼した。
「坂上です。よろしくお願いします。更衣室、こっちです。」
意外に礼儀正しい、体育会系のノリだ、留美は案外居心地がいいかもしれないと期待を抱いた。
ほかの人と同様ジャージに着替えた留美は簡単な自己紹介の後、殺陣の練習に加わった。殺陣といっても、そこは着ぐるみショーの殺陣であり、一回一回の出番は短く、入れ替わり立ち代わりステージに出ていって少し動くというものだ。また、セリフは録音のため、あたかも自分がしゃべっているような仕草が難しかった。アクションは大きな振りで、もちろん本当に殴ったり、蹴ったりしないように気を付ける必要がある。練習用のマスクを被って、狭い視界でアクションをしなければならないため、案外、空手エクササイズでサンドバッグと戦っているほうが簡単かもしれなかった。
交代交代の出番とは言え、そこそこのアクションはあり、結構なトレーニングであった。留美は、女性の戦隊ヒロインの役で、なんとなく、なよっとした仕草が求められた。社長の深井が指導に当たっていたが、外見に似合わず繊細な要求が多く、本来ガサツな留美は注意して演技しなければならなかった。
数日、練習が続いた後、ついに本番がやってきた。ショーの場所は巨大なショッピングモールだった。留美は早朝にスプリングエージェンシーの事務所に行き、他のみんなとワゴン車数台で現場へ向かった。
「木隅さん、今日から本番だけど、緊張しなくていいからね。いつもの調子で。」
と、助手席に座った深井社長がワゴンの後ろを振り返って留美に声を掛けた。本番だというのに、あいかわらず、ハーフパンツである。まあ、そんなものかもしれない。
「まあ、ちびっ子たちにいいとこ見せてね。顔見えないから、恥ずかしくないから・・・。」
案外、やさしい。本番となるとやはり緊張する。前回のお人形さんになって立っておくのとは違う。留美は、いつものジャージ姿でワゴン車のうしろの席で小さくうなずいた。
楽屋は殺風景な会議室で、折り畳みテーブルとパイプ椅子が数脚置いてあるだけだ。ワゴン車から衣装や小道具を運び入れると、楽屋は荷物でいっぱいになった。
留美は見慣れない男性が楽屋に居るのに気付いた。30代前半だろうか、他のメンバーとおなじようなジャージを着ており、メンバーと親しげに話しているところを見るとこの人も社員なのだろうか。少し怪訝な表情を見てとられたのか、その男性は留美にあいさつに来た。
「派遣さんですかね。初めまして、黒岩といいます。ちょっと映画の撮影で合流できていなかったのですが、今日は戦隊ブラックでご一緒します。殺陣は頭に入っているんで大丈夫です。よろしくお願いしますね。」
細身で、背丈もあり、何より笑顔がすがすがしい。他のメンバーもみんないい人で礼儀正しいが、さらに洗練された感じだった。プロの貫禄というところか。きっと、笑うと八重歯がきらっと光るタイプだ。って、一体どんなタイプだ、留美は自分に突っ込んでいた。
映画の撮影と言っているところをみると、名の知れたスーツアクターなのだろうか。留美は、こんなメンバーが居たのかと驚きつつ、少しうれしさも覚えた。
「は、はじめまして。
「あー、GBさんですね。前の真理さんが事故ったて聞きましたけど大丈夫でしたか。まあ、代わりの人が来たということは今は仕事はできないということでしょうけど・・・」
「はい、前任者は足を骨折したって聞いています。」
「そうですか。お気の毒に。真理さんに、お大事にって伝えておいてください。」
ん、名前まで覚えているのか?留美は少し違和感を覚えたが、表情には出さずに会釈を返した。まあ、会社でも名前で呼ばれているし、この着ぐるみショーの会社でもみんな名前で呼ばれているので、この業界では名前で呼ぶのが普通なのだろうか。
留美が言葉を繋げないでいると、突然扉が開いて深井社長が楽屋に入ってきた。
「黒岩君、いらっしゃい。いつもすまんねー。最近活躍してるねー。でも、どっちかっていうと顔出しが多いんじゃない。もうスーツアクターは卒業して、俳優専門でいいんじゃないの。男前だしねー。」
「いえいえ、これが僕のルーツですから。時間が合えばいつでも来ますよ。」
「映画とかもやってるんだろー、すごいね。もう、がっぽ、がっぽだろ。こんな儲からないショーはつまらないだろう。なんか、豪邸買ったって聞いているよ。」
「家は買いましたけど、大したものじゃないですよ。親戚が安く手放してくれたので。こうやってまめにショーに出させて頂いているからですよ。社長には感謝しています。」
照れくさそうに答える黒岩を見て、留美は、映画やテレビ、いやネット動画もあまり見ないが、たぶん相当な有名人で、イケメンで、恰好よくて、お金持ちで、しかも性格も良いと、万事揃っているまれな存在だと感じていた。前の職場ではあり得ない。そして今の職場でも、ここまで整った男性はいない。留美は、これからのショーが楽しく演じられそうな予感がしていた。
軽い挨拶のあと、早速会場の準備に入った。スプリングジェンシーと名前はかっこいいが、所詮小さい会社である。さすがに舞台セットを組み立てるところは専門業者に任せているが、会場の椅子並べや、楽屋ブースとなる目隠しのボード立てから始まり、ショーの立ち位置のばみりなど全部自分たちでやらなければならない。もちろん、ショーで動いた後も、有料の撮影会の運営から、片付けまでが一連の仕事だ。若い女性のスタッフが司会のおねえさんだ。
楽屋の中に目隠しボードが立ち上がった後、留美たちは着替えに入った。留美のほかにも、別の戦隊ヒロインと、戦闘員の何人かが女性だった。楽屋ブースといっても12畳程度の狭い会議室である。ここで男女キャストが一斉に着替えるので、かなり窮屈だった。とはいっても、Tシャツにスパッツは着こんでいるので、下着姿になるわけではく、それほど時間が掛かるわけではない。
ブラック役の黒岩も着替えているが、手慣れた様子でさっさと衣装を着こんでいく。他のキャストも場数を踏んでいるためか、動きがスムースだ。
戦隊ものの場合、衣装といってもいたってシンプルで、戦隊側はサテン生地のジャンプスーツで、戦闘員は全身タイツ姿に胸周りの甲冑とマスクのみだ。留美の衣装は、ピンク色に派手なストライプの入ったもので、飾りのベルトが付いている。サテン生地とは言え、留美が衣装を着ると案外、体形があらわになった。あとはブーツと手袋を付け、戦闘員と同じように胸周りに甲冑のようなプロテクテターを付け、最後にヘルメットをかぶれば完了だ。戦闘員と違うのは、造形が少しかっこよくて、色が派手といったところくらいだ。
そしてヘルメットをかぶった瞬間、軽いめまいとともに再びそれはやってきた。
今回は楽屋ブースではなく、どこかの控室のベンチのようだった。そこには戦隊ものの衣装を着た男性。どうも黒岩のようだ。そして黒岩のほうを見ていて顔が分からないが、小柄の女性がやはり戦隊ものの衣装を着て座っていた。手には飲み物らしきものを持っている。休憩中だろうか。
「だいぶ慣れてきたね。こっそり練習してるんじゃないの。堂に入ってるよ。」
「それほどでもないわ。黒岩さんの指導が良かったからよ。」
黒岩と女は親しげに話している。どんな関係なんだろうか。
「ステージが終わったらまたどっかに休憩に行かないか。腹ごなしも兼ねて・・・」
「いいわよ。こっちも今日はこれで終わりだから・・・」
「じゃ、後で。」
黒岩と女はベンチから立ち上がり、視界から消えた。
「留美さん、留美さん、大丈夫ですか・・・」
ふと気付くと留美の前にはマスク越しに黒岩が話しかけていた。
「え、えー・・・」
留美は先ほど見た幻想の整理がつかず、うまく言葉が出てこない。
「なんか固まってましたけど、どうかしました。まさか、閉所恐怖症じゃないですよね。体調がすぐれないなら、一回マスク外しましょうか。」
黒岩は心配そうにマスクを覗き込んでいた。
「いえ、ちょっと考え事を・・・」
留美は苦し紛れに答えた。考え事をするシチュエーションではないが、黒岩と女性が話していた幻想が浮かんだ、などと本当のことを言うのははばかられた。どうせ信じてもらえないし、二人の関係も気になる。黒岩の彼女だろうか・・・。そもそもあんなかっこいい男性が、一人ぼっちということはないだろう・・・。それとも、まさか将来の自分なのだろうか。留美は、高値の花とは思いつつも黒岩のことが気になりだしていた。
「大丈夫ならいいですけど、気分が悪くなったらすぐ合図してくださいね。」
黒岩の優しい言葉は留美にとっては新鮮だった。いままでの環境があまりにがさつ過ぎたのか、そこにいた同僚たちの性格なのか、相手を心づかうような言葉は掛けられたことがなかった。前の職場では自分もすさんでいくのではないか、いつもそう思っていた。今回の異動は思っていたものとは少し違ったが、居心地のいい職場だし、また黒岩のようなやさしい男性と巡り会えたことも人生の分岐点かもしれない。
「あ、ありがとうございます。」
留美は、いろいろな想いを胸に抱きつつ一言だけお礼をした。
ショーは滞りなく進み、その後も場所を変えて何回か繰り返された。黒岩とはその後1、2度会ったがあいさつ程度で深い会話をすることもなく、それ以外のステージではスプリングエージェンシーのいつも居るスタッフが戦隊ブラックを演じていた。
留美は、何度か舞台に立ち、同じマスクを被ったが、あの幻想を見て以来、何かの幻想を見ることはなかった。最初に見たセクハラおじさん、そして、黒岩、何の脈絡もない。留美自身と関係があるのかどうかも分からない。いったい何を見ているのか、留美には想像がつかなかった。
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