牛糞俵さん、逝く
天丘 歩太郎
第1話
「うっわカキフライおいしそー。あっ、あっ、あっ」
12才のひとり娘が犬のように息を荒くするのが食卓の方から聞こえて来、室田哲志は思わず微笑む。哲志もカキフライが好物だったからではなく、妻(娘にとっての母)が作った料理について「うっわ」という感嘆詞をまじえて喜んで、犬の真似までしてしまう娘の天真爛漫な育ち方に、言いようのない快楽を覚えたのだ。子育ては気持ちが良い。
「あなた、そろそろごはんにしましょうか」
と妻が、書斎の引き戸をちょっと開けて哲志に声をかける。
「うん。今行く」
と、すっかり慣れてしまったリモートワークの仕上げにメールチェックをしながら哲志は答えるが、敢えてすぐには腰を上げない。
ドタドタドタと足音がして、引き戸がいきなり全開になり、妻の後ろから娘の顔がまろびでた。妻の腹の横をなめらかにくぐって入って来、
「『今行く』じゃなくて早く!」
「うん。すぐ行くから」
「んもおおおぉぉぉ! 冷めちゃうからぁ!」
と娘が哲志の手首を握って立たせようとする。そうして欲しかったから、敢えてすぐには立たなかったのだ。たっぷりの脂肪に包まれている、いつまでも子どもみたいな、柔らかく湿った娘の手の感触が怖気だつ程幸福だった。
「今行くから。すぐ行くから」
と、なおも哲志が立たないでいると、娘は、
「なぁんでよ。ふぅぅぅぬぬぬ」
と手だけではなく腕と腹とで哲志の肩のあたりを絞るように抱きしめて、引っ張ってくる。肉や筋よりも一足先に発達している肘の骨が尖って哲志の肩甲骨と背骨の隙間のつぼにこれでもかと食い入って来、声が出そうになる。それでも、
「行くってば。すぐに行くよ」
と哲志が動かないでいると、
「行くよじゃなくて! ねえーお母さんも手伝って」
と娘は母親に助力を求める。夫が本当に仕事をしているのではなく、わざと立たないで遊んでいるのだと察した妻は、娘が掴まっているのとは反対側の腕を取り掴んで引っ張る。妻の、慣れ親しんだ手、この手でお鍋に水を張り、フライパンのウィンナーとキクラゲを振って、洗濯をして、ふとんを上げ下ろし、受け身の哲志の至る所を愛撫し、オセロの石を裏返したり、妊娠したり、塩をつまんだり、砂糖をつまんだり、娘を抱き支えて授乳をし、授乳に限らず抱き支え抱き上げ、おむつを換え、髪をとかし、結って、体操服のゼッケンを縫い付けた妻の器用な、年相応には静脈が浮いてなおあまりあるぬくみに心がからめ取られる。妻と娘によって引き裂かれようとする格好になり、胸筋とか、鎖骨のあたりの筋が伸び、
「ああ。うん。あ、気持ちいい」
「はぁぁぁ? 気持ちいいとかじゃなくてごはんだから早く、た、ち、な、よ!」
娘が肩の辺りを、立たせようとするために上方に引っ張りながら、同時に食卓の方へ連れて行く目的もあるからその方向へも引っ張り、結果的に哲志は斜め上の方向に肩をねじ上げられる形になる。
妻も戯れに、もちろん加減はしながらだがかなり無理な角度に哲志の腕を曲げる。痛い痛い痛いっ! と哲志は呻く。妻がふふふと笑い娘があっ、あっ、あっとまた犬の息をする。湿度の高い呼気が首筋に甘く直射し窒息する。
その時、外からくしゃみの音が聞こえて来る。牛糞俵さんだ。隣の家の牛糞俵さんがきっと庭先に、もしくは縁台に出ているのだ。
右腕も左腕もすん、と解放されて、静けさが訪れる。その静けさの中にもうひとつ、牛糞俵さんのくしゃみの音がする。もうひとつ。そしてまたひとつ。うううううううぅぅぅぅううぇっっっひぇえええええぇぇぇっいYa!
娘が、
「早く食べよ」
と急に低くなった声でいい書斎から出て行く。
妻は笑みを浮かべたまま、しかしその笑みはさっきまでの自然に溢れてくる笑みなのではなく、
「窓、閉めるね」
と言って、哲志が開け放していた書斎の窓を、普通に閉めればカラカラと音のするのを、ゆっくり、じりじり、じりじり、打ちひしがれたように首をうなだれながら、閉めていく。鍵をかける。娘もリビングの方の窓を同じように慎重な動作で閉めているらしい。じり、じりり、りという音。風に乗って、牛糞俵さんのたばこの煙が既に少し入って来て匂う。
さっきまであんなに楽しくじゃれあっていたのが嘘のように重苦しい、三人の食卓。牛糞俵さんのくしゃみは結局15回ほどで止んだが、その後も時々、んぁああああぁ、という、あくびなのか、身体を伸ばしているだけなのかよく分からない声が、窓を閉めたから直接ではないけれども、くぐもって聞こえて来る。妻が、「ポテトサラダも食べるのよ、スープもお替わりあるからね」
と殊更明るい声で言うのだが、
「食べてるよ。スープはいいや」
と娘はうち沈んだ低い声で応える。いや、妻の方も、一見明るい声色ではあるものの、明らかに作り物の明るさでしかないのだ。母親がこんな感じだから、それが娘に伝染して娘まで沈んでしまうのではないか。そうして沈んだ娘に引っ張られて更に妻も沈んで、更に娘も・・・・・・、だからこそ自分だけはこの悪循環の埒外にいなければならぬ。
「カキフライおいしいね」
と娘にとも妻にともなく言ってみて、それがいかにもとってつけたような響きになったのを、妻がフォローしようとして、
「いっぱいあるからね。あ、ないんだった。ここに出てる分しかないんだった。カキはもうないんだった」
と立ち上がり、腰を斜めに振って踊るのを、娘も、哲志も一瞬意味が分からずぽかんと見つめてしまう。
「なーんてね」
と座る妻の声が痛ましくかすれ、娘が、
「なにそれ。ハハ。お母さんおかしい」
と何とか母を救おうとする。哲志も救えるものなら救いたいのだが、今妻が何をしようとして何に失敗したのかが本当に分からず、何とかくみ取ってやりたい思いで妻の横顔を見つめていると、その瞳がせわしなくふるえ始め、そのふるえが頬や唇の方にすみやかに伝わって、ついには首ごと、がくがく蠕動する。妻の頭部顔面部が緊張性の発汗を始め、いや、服を着ているから見えないが全身発汗しているのだろう、やがて湿気ったヒノキの匂いが漂ってくる。粒子カプセルが哲志の、そしておそらくは娘の鼻先でぷちぷちとはじけ一挙に苦みが増す。ふるえや汗を何とか抑えようと、深い呼吸を妻が試みているらしいところへ、
うぅぅんわっあああぁぁぁ!
という牛糞俵さんの声。ぶう。とおならの音。
椅子が転げる程の勢いで妻は立って、
「ちょっとお手洗い」
トイレの方へ、必死に逃れようとするような、何かに追いすがるような足取りで行ってしまう。
そういう妻の様子に娘が過度の不安を抱くのを防ぎたいという思いと、逆に自分自信が不安でなんとか娘がこの不安を解消してくれないかという思いと、両者は終局的には同一な気分なのだが、とにかく哲志は娘の顔を見る。娘は口に残っていた食べ物を、食べるためというよりは、口に入った物質をとにかくその質量の分だけは処理するためだけにというような弱々しい、子どもらしさのない顎の動きで噛み、か、か、という音をさせて、うまくもなさそうに喉をすぼめて飲み下す。義務のようにポテトサラダをスプーンでボウルからひとすくいし、真顔で自分の皿に乗せ、機械的に、全然楽しくなさそうに、箸ですくって口に運ぶ。
くぁぁぁああああ、ペッ。・・・・・・ハッ。・・・・・・ハッ。ペッ。
と牛糞俵さんの音。
「しね」ダン、と両手を拳にし、つまり右手に関しては箸ごと握り拳にして娘がテーブルを叩く。その際に、箸に付いていたポテトサラダのかけらが哲志の右手の袖に飛んだ。自分でそれに気付いた娘が、
「ごめん」
とすぐに謝ったので、哲志は娘の発言について注意する機会を失する。娘がティッシュを二枚取って、哲志の袖を拭こうとする。
「大丈夫だよ。自分で拭くよ」
と、哲志が娘の手からティッシュを取った時、
「ごめんねー急に。つわりかも」
と言って妻が戻って来、
「え!」
と哲志と娘が同時に声を上げる。
「あ、いや、かもってだけよ。かも。多分違うけど」
と、妻は、苦肉の策でひねり出した言い訳に失敗し更に苦境に陥った形だが、もう吹っ切れてしまったのだというようにそのまま席に戻った。
「なーんだ、びっくりした」
と娘も、これも吹っ切れてしまったというように、だいぶ自然な感じに、笑った。つられて哲志も笑い、妻も笑い、
うううぅぅぅいぃぃぃぃッヒャ!
と、しかし牛糞俵さん……。
もともと隣の家には八十くらいのおばあさんが一人で住んでいたのだが、去年、つまり二〇二〇年の春頃、ちょうどコロナが流行りだした時期にどうやら息子らしい五十過ぎの男が一緒に住みだしたのだった。特にあいさつも説明もなかったのだが、ときどき話し声が聞こえたり、庭に出ていたりということが続いたので、どうやら少なくともしばらくの間は一緒に暮らすのかな、と室田家ではそんな会話を交わしていた。やがてコロナで、という噂もあり心臓の方だという噂もあるのだが、とにかくおばあさんの方が亡くなって、ああ、病気になっていたおばあさんの看病に息子あたりが帰ってきていたということだったかと思い、そうであればまた近い内にどこかへ戻って行くのだろうとなんとなく思っていたがいっこう戻らず、結局もう一年以上住んでいる。朝となく夜となく、うるさい。頻繁に縁台や庭先でたばこを吸う。二年前の春、娘の学年が変わるタイミングでこの建て売り住宅の購入を室田家が決めたのはそこそこ広い庭があって、ガーデニングという程ではないにしても、花や木を植えてみたり、芝を敷いたりというようなことをしてみたいと妻が言い、それだけが理由ではないけれどももう一つ候補にはしていた東京の物件ではなく、近県のこっちに決めたという経緯もあって、引っ越しのどたばたが済むとすぐに妻は喜んで庭をいじり始め一年くらいは続けていたのである。もともと趣味と言えそうなものを持たなかった妻が生き生きとしてくるように思えて哲志もこっちにして正解だった、片道二十分ほど通勤時間は増えた計算ではあったがそれを差し引いてなおこっちにして良かったと満足していた。が、牛糞俵さんが住むようになってから妻は一切庭に出なくなった。洗濯物も部屋干しになった。たばこの煙が、ということではなくて、高確率で庭に牛糞俵さんが《いるから》だった。牛糞俵さんは無職なのか、家で何かしているのか、まともに話しをしたこともないので、その辺は一切分からない。 明らかな怒鳴り声を上げるとか、庭で違法にゴミやら何やらを燃やすとか、裸で庭にいるとかの、誰が聞いても異常だという行動があればまだよかった。しかし牛糞俵さんはくしゃみをし、おならをし、鼻歌を歌い、庭に頻繁にいるというだけなのだ。デシベルの大小で言えば多分小さい。人に相談しようにも下手をすれば室田家が神経質なことを言っていると取られかねない。もちろん警察やら市役所やらが相手にしてくれる内容でもない。
「引っ越そうか」
食事の後、娘が二階の自室に上がってから、哲志は妻に言ってみた。言ってみた、のだ。本気ではない。
「え?」
と皿を洗う手を止めて、哲志の方へ向けられた妻の目は乾いている。しばらく考える時間があって、やがて、「・・・・・・。無理よね。ローンもあるのに」
「たとえば、ここを売って、賃貸マンションに引っ越すとかは、無理でもないかも知れない」
「ふふふ。ふふふ」
と声では笑いながら真剣な顔つきで皿を洗い終えてから、「そうね」と妻は諦めたように言う。頭の中で具体的に色々と考えていたのだろう。「そうね。でも、あの人、いつまでここに住むのかも分からないし」
「ああ、確かにね」
「でもいつまでいるつもりですかなんて聞けないものね。そもそも会話すらまともにできる人なのかどうか。例えば三年とか、十年とかでも、せめてはっきり期限が分かればね・・・・・・。引っ越す・・・・・・。引っ越せないでしょう。私達が何で。こんなことで。どんなことなの。これ。・・・・・・ごめん」と妻はティッシュで目を拭いて、「ごめん・・・・・・。ごめん・・・・・・。」
「いや、・・・・・・。謝るなよ」
「うん、そうだよね」
と泣く。哲志も何と言って良いか分からず、どうしようもない時間が流れる間にも一発、いいいいいいっしぃぃぃぃぇぇぇえええYA! 長い長い、名状しがたい牛糞俵さんの何かの音。塗りつぶす。どんな感情もどんな雰囲気もどんなやさしさも塗りつぶす。家族の暮らしを汚い音が塗りつぶす。
一瞬妻は目を閉じ下唇を噛みしめてから、振り切るように、干されている洗濯物に手をかけたが、すぐに動きを止める。
「全然乾いてないや」
と笑おうとする口から一筋の血が垂れて緑の絨毯の床に黒い染みができる。乾燥機付きの洗濯機を、とか、そういう話しでもない。まだ耳栓の方が気が利いている。耳栓では力不足ではあるのだが、力の入れ方としては全うなのだろう。いぃぃぃえっぇっぇーっぃあぁあぁぁいYA! ぺっ! へっひゃ。
「っごめん。絨毯が・・・・・・」
「絨毯なんて」
気にするなというかわりに抱き寄せ傷口を哲志が吸うとだんだん妻の身体から力が抜けていったのだが、くぁぁあああああああ、YA! と音がすると身をこわばらせて唇を離し、一度哲志の胸に額を押しつけるようにしてから、離れ、
「拭けば落ちるかしら」
ふきんを水に濡らし、ゆるく絞ると膝をつき、絨毯の血を拭き始めた。
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