欠片

涙目等

死ぬ間際、私は人間であった。

湿った匂いと路地裏の腐臭が鼻を掠めた。

目を開くと曇天の空と鈍い雨。

仰向けの体制に容赦なく振り込むので、私はすぐに目を閉じた。


冷たいアスファルトの上で目を覚ます。


私は寝ていたのか?まさかこんなところで?

起き上がろうと腕に力を入れるが、肩が揺れるだけで動かない。

どうやら肩から下の感覚がない。


それなら足はどうだ、と足を動かす筋肉であろう部位に力を入れる。が、動かない。そもそも今の私に足はあるのだろうか。

四肢の感覚が無いので、自分の身体だと認識できるのは胴体と頭だけだ。

今のところは。



なぜこんなところで寝ていたのだろう。ここはどこなんだろう。

記憶を辿ろうと脳を働かせるが、記憶がないことだけが分かった。


脳を働かせたせいで、身体の痛みに気が付いた。

胴体も頭も、動かそうとすれば痛みが走る。特に背中がジリジリと熱く痛い。

何による痛みなのか見当がつかない。なんたって記憶がない。

記憶もなければ身体も自由に動かせない。今の私はほぼ赤子のようなものか。

もう少しマシなところに産み落とされたかった。




体感数分が経った。

背中の痛みが出血の痛みだと気付いた。

どろっとした液体が溢れ、乾き、背中に張り付いている。出血の量は分からないが、このままだと死ぬのだろう。


今も記憶は戻らない。

きっとこのまま記憶なく死んでいくのだ。

人生の記憶が「死」だけというのは結構珍しいんじゃないか。

寂しい気もするが、記憶があるよりマシな死に方かもしれない。

生暖かい液体だけが私を温めてくれる。

今も雨は降り続けている。


そういえば、数分間の間に新しい事実が判明した。

私は上半身に服を着ていなかった。

服は着ているものだとばかり思っていたので発見に時間がかかった。

下半身の感覚が無いので、感覚的には今の私は全裸だ。

本当に赤子のようなものになってしまった。

もし身体が発見されたときに全裸だったらどうしよう…なんだか恥ずかしくなってきた。下半身は履いていることを願おう。




体感十数分が経った。

出血は続いているが、死ぬ気配はしない。なかなか強靭な身体をしているようだ。

そして、僅かではあるもののうっすらと、記憶が見えてきた。

私の知らない記憶だ。

他人のアルバムを盗み見ているようでバツが悪いが、仕方ない。私の意思に関係なく、勝手に流れてくるシステムのようだから、遠慮なく見させてもらった。



見ると言っても、大した記憶はなかった。

流れてくる記憶は薄れていて具体的なことは何ひとつ分からなかったが、今までの人生で感じた感情のようなものだけははっきりと感じることが出来た。

それだけでも、私は…いや、この身体の持ち主は、割と楽しい人生を送ってきたようだ。

初めて見るはずの感情やうっすらとした記憶は暖かく、実家のような安心感すら覚え、どこかで見たことがあるような気もした。




ここまで記憶がはっきりしないと、もうこの身体を私だとは思わなくなってきた。

身体の持ち主のことを、まるで生き別れた兄弟のような…なんと言おうか。

近くて遠い、そんな存在に思えてきた。


個人的に推しているのは「私が身体の持ち主のもうひとつの人格」という説だ。

この説が一番ロマンチックだった。

もしそうであれば、表に出て活躍していたのは持ち主の方であろう。

そして、人生の終幕という大舞台を、私に任せてくれたのではないだろうか。

ならばその役目、最期の大役、綺麗に飾ってやろう。




私はそっと目を開けた。

いいか兄弟。これが私たちの最期の景色だ。


雨粒を頬に受け、身体に伝う最期の触角を味わう。感覚は変わらず赤子のままだ。


静かにその時を待った。

私の、最初で最期の人間としての時間が終わる予感がした。

目を閉じ、口角をほんの少し上げた。

ぎこちない顔になっているかもしれないが、初めての人体なので許して欲しい。

棺に入った私は、きっとこの身体の持ち主として誰かに泣かれ、焼かれ、埋められるのだろう。

私が人間であった数十分間に思いを馳せながら、遠のく意識に身を任せた。


この身体の死ぬ間際、私は人間になった。

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