7-3
中三の時、結衣は水飼と同じクラスだった。
水飼の印象は当時特別のものでなく、強いて言えば「時々学校を休むクラスメイト」程度だった。中学生にしては浮ついたところが少なくて、成績も素行も悪くないから結衣は単に体が病みやすい質なのだと思っていた。
彼が確かに同級生とはちょっと違う空気感を持っていたから、面白半分で休んだ日のことを家の手伝いで霊や妖を払っているんだなんて噂されたりしていたが、情報源は定かじゃなかった。水飼自身の出自と言うよりはむしろ、噂に事欠かない程度に秘密主義なところがあるからだろう。水飼神社のことは知っていた。クラスで話したことは無いけれど、女子が去年の正月にそこで水飼の正装を見たことを騒いでいたから、きっと似合っていただろうと想像に難くなかった。
夏休み明け寺に参列した日に、水飼は学校を休んだ。虚弱体質なら夏バテくらいするか、とも思ったが、一方で水飼は神道だからこういうのに参加できないのかも知れないと考えもした。無宗教の結衣も、こういう場所では半年に一回の何かが見えてしまう気がして早く帰りたかった。
黙祷と合図があり、しばらく頭を垂れていた結衣は、周りでざわざわと小さく囁き合う声が聞こえてちらっと目を開けた。
もし黙祷は終わっているのに自分だけ目をつむっているなら恥ずかしかったからだ。だが囁き声とは裏腹に、周りは皆うつむいたままだった。付き添いの教師陣も目をつむっていて、向かい合った底の住職だけが挙動不審に動く結衣を見つめていた。
結衣も慌てて目をつぶり直そうとしたとき、リンと木魚では出せぬ音がして、高欄の裏側に白い衣が過ぎていくのがよぎった。
「———お直りください」
住職の一声で空気が緩み、皆顔を上げた。列が名前順だったから結衣の前は背の高い生徒であっという間に見えなくなり、白い影もどこかに行ってしまった。その後結衣の学年は、クラスごとの列になって寺の敷地に出た。Uターンする時、結衣はお堂の近くまで来たが、奥の庭にも人の跡は一つたりと残ってなかった。
参列で起こったのはそれだけだ。変わったことと言えば、何故かあの日を境に水飼が学校に来なくなった。
今までも休み自体は珍しくなかった生徒だ。本人も休んだ翌日には涼しい顔で登校して、「昨日は頭が痛くて」なんて口実を垂れていたから、今回もそれだろうと思った。
だが四日連続となるとさすがに周りも本当にいつものかとざわついた。仲の良い生徒が朝礼の跡、担任に聞きに行ったが、その時担任は病欠とも忌引きとも言わず、あいまいなことしか返さなかった。
寺院に行った日から数えて五日目。
結衣もその日は目が覚めた時から頭がガンガン響いて、母が仕事に行った後電話で学校に休みの連絡を入れた。こういう日は、どう足掻いても中学校への道を上りきることすらままならないのだ。瞼の裏が熱かったから、結衣は残っていたとん服を水で飲み下して二度寝した。
再び目を覚ましたのは正午になりきる手前だった。熱は下がりきってないが、体は朝より動いてしまうので、結衣は仕方なく病院に行った。とん服がもう無いのは朝分かっていたし、午後診に行こうとするとまた人が込む。
薬をもらって帰る頃には、とうに13時を超えていた。
熱、また挙がってきたな。
結衣は胸の辺りを握り、信号待ちの間どくどくと心臓の音を数えた。マスクのせいで息も熱い。残暑厳しい時期だったので、結衣はすぐマスクを外し、青に変わった横断歩道を日陰に沿って歩いた。
そんな熱にうなされた日だったからだろう。病院を背にスーパーや何か昔の石垣の跡を抜け、ふと住宅の隙間に入った時、結衣は白くもやが掛かったような影を見た。発熱のせいで夢でも見ていたのかもしれない。不思議といつもの怖い感じは無く、結衣はふらっとその影に引かれた。
白い影が絶えず鈴を鳴らした。そのたび白いのは二つ、三つと分かれて、結衣は驚きつつ、たぶん最初に見た一つの影に皆隠されていたのだと思った。まるで大道芸人みたいで、結衣はますます興味を持った。しかし白い行列は家の垣根でふと姿をくらまし、また結衣は見失った。
ぼおっと熱い頭を回し、結衣はしんどかったが帰り道のついでに垣根の奥に出る道路を覗いた。だがそこに、思わぬ姿があって結衣は曲がり角で身を翻した。
水飼がいたのだ。
九月はまだ蝉の音も高い。水飼は半袖の制服だったが、13時過ぎでは当然今日も学校に行ってまい。こんなところで何してるのと声もかけられず、結衣は水樹がどう動くのかを見守った。
水飼は入り口が広い一軒家の前でしばらく佇んでいた。角の向かい屋根を見上げていたため、結衣に彼の表情はうかがえなかった。その家の玄関は古めかしく、引き戸の色こそ多分新調したぶん明るかったが、土間に挙がる手前の石段が踏まれ続けてうっすらへこんでいた。水飼はやがて背を向け、垣根のさらに奥にあるテナント募集中の空き地へと小さくなっていった。
結衣はその背中を見てぎょっとした。
水飼は学校のたたずまいと同じ本を開いていたが、その周りに冬の息みたいな、白いもやが掛かっていたのだ。もやは燻り、時折人のようなあの行列の形を成して揺らめいた。
むせ返るほどのツクツクボウシがなき詫びる中、きっとあの時結衣は蜃気楼を見ているのだと思った。棒立ちになったまま、結衣は背中の悪寒にようやく気がついた。部屋着のまま来ていたそのTシャツはぐっしょり汗ばんでいて、結衣は肌寒いのを熱のせいにした。
結衣はおぼつかない足取りで水飼の跡を追いかけ、彼がさっき立っていた先の家を見上げた。
「ここって」
結衣はその玄関に立ちすくみ、ばっと水飼をふり返った。ようやくここに来て、水飼の現れた意味が繋がっていくようだった。
前の家のプレートには、死んだ同級生の苗字がかかってあった。大判な引き戸の手前には、誤魔化そうにもゴムとオイルの臭いがわずかに漂っていて、同級生の家が工場だと聞いていたから間違いようがなかった。
降り出しそうな高い入道雲はまだ遠く、炎天下に瓦屋根が焼き付けられていた。住宅のどこかでまた、風鈴みたいな音がリンと鳴っていた。
週が明けると結衣の熱も引いていた。朝おそるおそる教室に入ると、水飼は結衣より先に登校していた。
「どんだけサボってんだよ」
仲良しの子にそう小突かれ、水飼は笑って流していた。周りが本当は何だったんだと問い詰めても、彼は頭痛だといつもの言い訳しかしなかった。
結衣が先週休んだ英語は、先生が跡からプリントをくれた。
「森川さん、お熱はもう下がったの?」
「あ、はい」
その先生は担任でもないのに、休んだ人のことを全て覚えている。こんな結衣も含め、背と全員をよく見ている優しい先生だった。結衣はその先生が好きだから、いつもより深くお辞儀すると先生も微笑み返してくれた。
でも結衣は知っていた。先生は水飼にプリントを渡す時、何も言ってなかった。
「森川さんは、熱下がってよかったね」
さっきのを聞かれていたのか、水飼は結衣にそう話しかけてきた。その頃自分も学校には来ていなかったくせにさもその日は登校していたような口ぶりだ。
ともあれ水飼と話すのは初めてで、なんで声をかけられたのだろうと結衣は冷や汗を浮かべつつ、急にあの家の前でのことを思い出した。
「み……水飼くんも大変だったね、五日も休んで」
「あれは本当に、ほんの少し頭が痛かっただけだよ」
だから先生には仮病って思われちゃってるのかもな、と水飼は頭を掻く。
「……でも金曜日、水飼くん外にいたよね」
結衣はミサンガを握った。
あの日何をしていたのかとか、まとわりついていたあの白いもやは、水飼くんにも見えているのかとか、色んな質問が喉の奥でぐるぐるして一旦飲み込んだ。そもそも今まで「見えてしまうもの」について掘り返そうとしたことがなかった。
水飼なら、あの白い行列や、時折であってしまう何かの正体を知っているだろうか。
水飼は神社の子だしと、少しばかり期待し顔を上げた結衣は固まった。
「見たの?」
落ち着いた水飼の声が、いつもより低い気がした。結衣はたじろいで首だけ頷く。
「……う、ん………」
「何を?」
一歩詰める水飼はまだ、小柄な結衣が見上げてもクラスの女子ほどの背だったはずだ。線が淡い顔立ちもつんとすましたままで、それでも目の奥は死後硬直した体のように冷たかった。
『これが、見えるの?』
彼の本から突然、あの白いもやが列を成し結衣の目の前に広がった。あの時は行列に感じなかった嫌な感覚がふと頭をもたげ、水飼から漂いだす……
と、その日はそんな悪夢を見た。
水飼の問いに、結衣は言葉が出なかった。あの目は、結衣が見る「何か」と同じだったから———それに気づいたのも、結衣が一人になってようやくだった。
以来、結衣は水飼が苦手だった。
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