6-4

翌朝、結衣はいつもより一本早い電車を降りた。


等間隔空けて並ぶカエデは落ち葉が増え、踏みしだくたびやわな感触が足裏に伝った。結衣はうつむいて、葉の山に行き当たるたびちょっと足で避けたりして前に進んだ。


昨日、この道でキーホルダーをなくした。気がついたのは家に着いてからだった。ピンクのうさぎのキーホルダーで、小学校の頃から付けていたものだった。家から最寄りにかけても慎重に歩いてみたが、らしいものは見当たらなかった。


そうこうする内に西北門が見え、生活委員の男女が一人ずつ立って門前で挨拶する声が聞こえた。キーホルダーはまだ見つかっていない。この道と、学校の落とし物入れにもなければあと心当たりがあるのは駅だけだ。もっともキーホルダーは年季の入ったものだったから、見つけた人がいたとして届けてくれるかも微妙だ。自分の手で探すのが一番確実だろうと結衣は少し速い胸を押さえた。


ざり、と校門の手前で小さく落ち葉の音がして止んだ。自分の足音じゃなかったので、ぶつかりそうだと結衣は顔を上げた。高校のグラウンドが横並ぶ歩道だが、この時間は朝の散歩に通う近隣のおばさんも多い。


しかしそこにいたのはいつものおばさんじゃなかった。背は結衣よりもっと小さくて、通学用の黄色い帽子を被った園児が、フェンスの方を向き棒立ちになっていた。


あっと結衣はそれを見て凍りついた。


同時に、足を止めてはいけないと強く心臓から警笛が走った。その顔は見なくても分かる、だって全く同じものを結衣は昨日、帰りの道で拝んでいたのだから。





結衣のいう、まさに「この世ならざる何か」だった。それに対抗する手段は、今のところ無視してなるべく近寄らないことしか結衣は知らない。まあそれが効かず馴染んでしまった先例もあったが、特例だ。

いずれにせよ、あれが気持ち悪いという思いは変わらなかった。

とにかく結衣は、あの顔を正面から拝む前に通り過ぎたくて、挨拶もそこそこさっさと校門をくぐった。









結衣は時折、人に見えない何かが見える体質だ。


同じ現象を分かってくれる知り合いがいたら、どれほど気が楽だったろう。けれど引っ込み思案な結衣には到底、そんな奇怪な話を自分から振るなんてことは出来なかった。


結衣は何度か落とし物箱を覗きに行ったが職員室前のショーケースには他学年の資料集とか、ノートとか、そんなものばかりだった。クララは隣で首をかしげたが、何でもないと結衣はかぶりを振った。


あのキーホルダーは諦めても、結衣は全然構わなかった。それでいいからと願うのに、嫌なことはとんとん続いた。あの顔のない子どもが、ふたたび結衣の前に現れだしたのだ。


初めは通学路で佇んでいるだけだった。それが校舎内に入ってくるようになって、次の夕方には結衣の最寄りにも現れた。普通、ああいうのは一度無視すればもう出くわさないものなのに、クララの時みたいに園児は何度も見えてしまった。


あの園児が出るのはきまって結衣が一人のときなのも酷く怖かった。結衣はあくまで、あの園児に自ら口を利いたことはない。しかし園児の方はずるずると足を引きずって、


「返シテ……」


と時折拙く訴えるのだった。


きっとクララも、あの園児のことは知るまい。やつれ気味で席に着く結衣を見て、彼は頭をかくんと折り曲げたが、今は小声で説明するのも難儀で力なく笑った。









結衣の境遇は考慮されるはずなく、水曜日には古語の小テストがあった。そろそろ点を取らないと十二月の成績表が怖い。そう結衣はペンケースを開いたが、ひとつ気合いを入れたきり結衣は固まった。


採点されないくせ、真面目に空欄を埋めていたクララは横から結衣をのぞき込んだ。先生に見つかればきっと生徒指導室送りだが、クララなので問題も起こらないのだ。

そのへんてこな紙袋頭に、結衣はなんだか泣きそうだった。


「……シャーペン、無いかも」


開いたペンケースには、いつも三本持ち歩いているシャーペンと、他書けるもの一式がすべて消えてしまっていた。どうしてこんな時にと結衣は小声で囁きながら胸が苦しくなった。


するとクララは、ぱっと自分が使っていたシャーペンを差し出した。結衣がおそるおそる手に取ってみると、それは確かに質量を持っていた。クララ自身はすぐ左に置いていた予備のシャーペンで答えの続きを埋め始める。手元を見ると、もらったのは尻に小さな消しゴムが付いているタイプだった。


後でお礼しようと思った。結衣はかすみかけた目をこすって、ようやく自分の氏名欄を埋めた。








あれから近場を探し回ったが、結衣のシャーペン類は見つからなかったので、その日はクララのシャーぺンを一日借りることにした。どうなることかと思ったが、仕事の速い古典担当の教諭が四限に返した小テストは7点と大きく書かれており、事なきを得た結衣はほっと胸をなで下ろした。もし他人には透明に見えるなんてことだったら、今日のテストは点数すら付かないところだった。この調子なら、今日とったノートが次の日消えていることも無さそうだ。


結衣はちらりとクララの方を窺った。今昔物語を延々と品詞分解する板書の文字を、クララは行にぴしりと書き納めている。勉強しなくてもいいはずなのに、借りたシャーペンで落書きしてばかりの結衣より真面目だ。というか、ちゃんとその顔で見えてるんだなと変なところに感心してしまう。


気づけば結衣の中にあったクララを恐れる気持ちは、今や窓越しの曇り空みたいに薄まっていた。よく考えたらクララも紙袋かぶせていて顔は無いのに、この横顔を眺める分には嫌な感じもしない。

ストックホルム症候群と言ったらあまりにクララが可哀相かと、結衣は笑いをこらえた。

ようやく見られていると気づいたクララがこっちを向いた。結衣ははにかみを隠しきれず、黒板に向き直った。










それから再び結衣が見てしまったのは、昼休みのことだった。


いつものように踊り場でクララを待たせ、結衣はトイレに行こうとしていた。だがあの園児は、女子トイレの小窓の前に立ち尽くしていたのだ。


結衣はそれを見た途端、ヒュッと喉が鳴って動けなくなった。似たようなことがあったと、にわかに頭の中には先日の記憶がよみがえる。五限に美術があった日、鏡の端で黄色い何かを見た気がしたのだ。あの時は笑われてそそくさと出て行ったが、あれは絶対見間違えたんじゃなかった。



「返シテ……」



園児が呟いた。


結衣はすぐトイレを飛び出した。階段前で猫背になっていたクララがいつもより早い帰還に頭をもたげる。その顔には今の結衣の形相も見えるのだろうか。見えているなら伝わるはずだった。


結衣はクララを腕ごと女子トイレの方に引き連れた。クララは僅かに抵抗したはずだが、多分人間の男子生徒よりはすんなりとトイレに連れ込まれた。恐怖で溢れる冷や汗と、どうしたら説明が浮くか空回る声が胸元で支えて、ようやく結衣は「助けて」と吐きだした。


クララは顔を上げた。窓の下にはまだ、あの園児がいた。


震えて入り口の方に背く結衣を落ち着けるよう、クララが肩を撫でた。一瞬クララは手を止めたが、そのままじっと結衣を挟んで紙袋頭を窓の方に向けた。


くっきり浮かんでいたはずの園児は、クララを前に姿が歪んだ。やがて園児は、スッと姿をくらました。


とんとんと肩を叩き、クララは結衣に合図した。結衣が目の縁を充血させふり返ると、もう園児の気配は無かった。


結衣は体の力が抜けた。



随分ふしぎだった。いや、自分でどうにかしてほしくて連れ込んだから、こうなるのは望んでいたのだが———結衣はこれまで何回かクララに助けられ、だからこそ信用したのだ。だが一体どうやって追い払ったのか、種も仕掛けも見えず結衣は目をしばたたいた。


クララの手がするする結衣の肩から腕へと下りる。


「え……えっ?」


クララはじっとその細く青白い手首を見下ろした。すぐ離されると思っていたものだから、結衣はどぎまぎして声がうわずった。

その時ばかりはどう言おうか、結衣はかなり迷ったが、結局離してと命じたらクララは手を下ろしてくれた。先よりトイレに行きたくて来ている訳だから、そろそろ離してくれなきゃ困ることがあるのだ。


「あの……今日はこ、ここで待ってて」


あんなことがあってすぐだから、一人は怖かった。結衣は急いで個室に籠もり、後からやって来た女子生徒で混み出すトイレの一角を、器用に縫いながらクララは洗面台の前で待機した。


外から同級生の声が聞こえた時は、結衣も少しほっとした。やっぱり、人じゃ無いとは言えあのクララと女子トイレで二人は恥ずかしい。



『…………返シテ……………』



記憶の中でふと、その囁きがよみがえった。結衣は絶対気のせいだと勢いよく水洗トイレを流し、洗面所にかけた。


聞こえてなどいない。

だって、認められなかった。もし本当に聞こえたのを認めてしまったら、さっき入った個室には、見えないところにあの園児ののっぺらぼうがいたことになってしまうからだ。

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