3-3
次の日登校すると、結衣の机上には日誌が置いてあった。日直だ、と結衣はそれでようやく気づいた。朝来るのがぎりぎりだと、職員室に取りに行く暇も無く担任が投げ置かれるのだ。
日直の仕事は毎授業後、黒板を超すことだ。結衣が背伸びして教卓の前に出ずっぱりだと、気づいたクララが二限の終わりから一緒に板書の残りを消しだした。結衣は切実にこれが周りにどう見えているのか知りたかったが、ひとまずクララが消したところなら第三者にも綺麗に見えることが確かめられたのみだった。
クララは何かと気前がよかった。だが結衣の態度は、昨日以降再び硬くなる一方だった。そもそも前もあったことだが、これは結衣が頼んだことじゃない。手先は器用なはずだが、体幹や基本動作が弱いクララは一限おきに黒板消しを取り落とし制服に白い粉をくっきり残していた。待った粉が吸着したのか、昼休みの後には肩や紙袋頭の上にもピンクっぽい粉が浮いていた。
クララは日直の仕事をよくやってくれた。それでも結衣が素直に喜べなかったのは、やはり昨日のことが引っかかっていたからだろう。
あの瞬間、結衣の中で初めにあった嫌な感じがフラッシュバックした。もとより言葉で表せない感覚だ。ただ関わってはいけない、ろくでもない目に遭うと今まで避けてきたものが、そう簡単に受け付けるはずない。こっそり授業中に日誌を最後まで埋めるや、結衣は終礼の挨拶をも見切ってすぐ教室を飛び出そうとした。
「ああ、そうだ」だが担任が思わぬ形で結衣を引き止めた。
「森川、数学のノートが返されてたんだ。ひとまず職員室の机から持って上がっといてくれ」
「え……」
皆掃除用に机を下げる中、結衣の掠れた「え」は担任の耳に入らなかった。
「日直だろ?」
黒板の右下に書かれた結衣の名前を確かめ、担任は持ち運びのかご片手に教室を後にする。硬直する結衣の後ろでは、白くチョークで汚れたクララが頭を傾けていた。
クララは多分、悪意があるわけでは無い。
結衣は下りる階段の後ろにまた一つ足音がついてくる。気にするまいと、クララはノートを運ぼうとしてくれているだけだと結衣は自分に言い聞かせた。だが足音は一段一段とぴったり着いてきて、結衣はじりじりとせき立てられるみたいだった。
気づけば結衣は、人通りのない踊り場でその足を止めていた。
足音が止んだ。結衣が呼吸を整え、久々にクララの方を向いた。クララは四角いフォルムの制服になで肩を隠し、マネキンのように四肢を垂れ下げた。
「……ついて、来ないで」
まとまらないまま口に出してみて、結衣はしかめっ面になった。多分、これは言い方が悪かった。
「ごめん。クララのことよく分からなくて、でも」
踊り場の上からは遠くの談笑が響き、放課後並んだ窓の日はまだ白かった。これではクララを突き放し過ぎている。結衣がわずかに重心を動かすたび、古い階段の縁がきしんだ。
「でも……今はちょっと、怖い」
結衣はミサンガの掛かった手首に思わず爪を立てた。掃除から帰ってきたらしい他クラスの生徒が数人、結衣の近くや、結衣とクララの間を通って上階へと戻ってった。彼らは結衣に一瞥をくれ、ひそひそと噂して笑っていた。結衣は思わず顔に血が昇った。
と、今まで動きのなかったクララが首を反対側に折った。
彼はそうするや、きびすを返し階段を来た方にさかのぼっていった。結衣を笑った生徒と同じ方向に沿って、やがてクララの姿は曲がり角の壁に消えてしまった。
伝わった、と捉えてもいいのだろうか。結衣は呆然と目を見開き、不意に力が抜けて壁伝いに手をついた。
結局それからの放課後、クララは姿を現さなかった。結衣は重たかったが山積みのノートを一人で運び、教室の前に運んでから忘れていた日誌を届けた。二度目に職員室を訪れた時には、担任は机にいて小太りの腹を撫でてご苦労と結衣をねぎらった。
「あれ、一人で運んだのか?誰かに助けて貰えばよかったのに」
担任はごく当然の感想と共に苦笑した。結衣も愛想よく返そうとしたが、ふとよぎったのがクララだったもので上手く笑えなかった。もし見える人間が結衣じゃなくて、この担任のような人だったならクララとまた違う関係を築けただろうか。結衣は昨夜以来のことを誰にも吐き出せず、黒いものが腹の底に溜まっていく心地がした。
いつからクララが気持ち悪くなったのだろう。結衣は頭をひねり、あっと昨日の下校時を思い出した。ちょうど、担任が終礼に注意していたあの後だ。
「先生、あの」
結衣は蚊の鳴くような声を上げた。ん、と担任が日誌から目を離す。
「昨日言ってた、子どもの話ってどういうことですか」
赤ペンで浪人回しをしていた担任の手が止まる。おどおどしながら、しかし結衣はたとえ不謹慎でも尋ねてしまうほどには気になっていた。
子どもが行方をくらます———それも担任は、最近そういうことが多いとまで言っていた。このご時世、本当にそんなことがあったならきっと担任より先にニュースを通して知っているはずだ。結衣は『くらます』という言い回し自体、どこかうさんくさかった。
「あー……そうだな」
担任は顎を腕に預け何度かうなずいた後、森川の地区に近いからなあと口を割った。
「実はな、あの話にあった子どもは皆もう帰ってきてるんだ」
別に警察から口止めされてるんじゃないし、と担任は言い訳がましく念を押す。多分隣で座っていた別のクラスの担任に横目で見られたからだろう。
聞けばそれは、大事になる前に火種ごと煙に巻かれてしまったような、未解決事件の類いだった。子どもがいなくなるのは決まって夕方頃、近辺では追跡できるような防犯カメラもそれなりに設置してあるが、行方府営になった子どもが連れて来られる様子は一切記録されていない。皆忽然と姿を消し、いよいよ捜査が本格的に乗り出すかと思った矢先、路上でぽっと発見されるのだという。
状況を明らかにしたいものの、しかし一番厄介なのは見つかった子どもたちで、彼らは何を聞いても口をそろえて「覚えてない」と首を振るのだった。どこに行っていたのか、誰と一緒にいたのか、いなくなっている間、彼らがどう過ごしていたのか。何を聞いても子どもは「分からない」「覚えてない」の一点張りだ。
口を割らぬよう皆脅されているのかと疑われもしたが、しかしどうやれば小学生ほどの子どもたちの口にあんな堅い戸を立てられるのだろう。見つかった子どもは復学後、下の生活に馴染んでいたし、多分警察も色んな調査をした上でこの結果だからかなり難航しているはずだ。
「まあいなくなったってのも全部小学校の方だから、俺たちにはあんまり関係ないけどな」
担任は悪気無く笑うと、「ちょっと」とついに隣の女性教員が声を荒げた。肝っ玉が小さい担任はわ、わと焦って手をふる。これ以上居座っても担任が可哀相な気がしたので、結衣はさっさと職員室を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます