3-2

それから終礼に担任の話があったのは、数日後のことだった。


「最近、近くの区域で子どもが行方をくらますことが多くなっている。日も短い時期だから、皆気をつけるように」


担任は定期試験前の部活動禁止の連絡に合わせ、ざっくりと注意を促した。まあまあ物騒な話だが、担任がそんなだから生徒たちも上の空だ。毎度指示自体通りにくい教室だから、日頃の諸注意はことごとく通らないのだ。ひとり結衣がうつむいた拍子に前髪が目まで下り、隣のクララは首を傾けその横顔の方に向いていた。


子どもが行方をくらますことが、多くなっている。……結衣は何だかどうにも釈然としなかった。


それからもとよりどこにも入部していなかった結衣は、終礼が終わるやかばんを肩にすぐ校門を出た。部活禁止は来週以降だから、グラウンドからはまだ運動部のかけ声が各々飛び交っている。


「『行方をくらます』……」


担任の言葉をくり返し、結衣は定期を通した。ピッと青い光が手元に灯り、改札のゲートが開く。ホームまでは上り階段が続いていて、電光掲示板には次来る電車の時刻が粒々に光っていた。


がこん、とつっかえる音がして、結衣は我に返った。


ふり返ると、クララが閉まりっぱなしのゲートに挟まっていた。あ、と結衣は塊、とっさに周りを気にした。だがちらほらいるホームの生徒はどれもこちらを見ていなかった。ガコ、ガコというきりで、ゲートも警報が鳴らない。そのうちクララは引っ込んで、あの長い足でひょいとゲートを跨いでしまった。


クララの長身が結衣に近づき、またいつもの位置でぴたりと止まった。


「あ…………」


いつもはあの柵の奥で止まるのに、どうしてだろう。

クララは頭の紙袋をカサリと傾けた。色んなことが頭を巡っていて、結衣は思わず眉を寄せた。


ちょうど頭上のマイクからはその時、帰る方面の電車が入るアナウンスが流れ出した。








緑色をしたソファの座席に結衣とクララは二人並んだ。

乗客は結衣の高校以外の生徒や、出かけ帰りの年寄り夫婦が間を空け座っていた。端に座った結衣たち二人は、夕焼けの合間を縫って短いトンネルに入るたびその姿が向かいの窓に映った。


「先生の話さー。あれ、どういうことだったのかな」


結衣はひとりごとと思われてもいいくらいの声で、だが確かにクララに向かって尋ねた。クララの頭は結衣より高い位置にあって、電車の振動に合わせ右へ左へゆらゆら揺れている。結衣は手を組み替え、もぞもぞと頭をうつむけた。


そもそもクララとは対話が成り立つかも怪しいのだ。こんなことを訊いたって何になろう。


奇怪な存在が隣で一緒に下校しているのは気になったが、結衣は大人しく勉強でも枝葉と英単語帳を取りかけた……が、その手は木の赴くままに奥の携帯へと伸びる。

画面を開けた結衣は口をすぼめた。珍しく母から連絡が入っている。見ると今日は早く帰れそうだから、出来たら先にスーパーによって味噌を買って欲しいとのことだった。スーパーは駅までの道寄り少し外れたところにあり、母の通勤経路とは逆方向だ。根っからの性格で面倒くさいという思いもある一方、久しぶりに母の料理が食べられるのは高校生になった今でもちょっと嬉しかった。


結局駅に着くまで、結衣はふわふわした気分で英単語帳を開かなかった。










母に返信して改札を出ると、秋分もとうに過ぎた空は夜が落ちて来るように藍色だった。かばんは試験勉強用に資料集を持ち帰っていて、味噌の入るスペースが作れるだろうかと結衣は中身の教科書やノートを立て直す。



そんな結衣の背後でまた、ガコッと音がした。



体がカッと反応して結衣はふり返った。校舎で見えぬものとして扱うのに慣れてしまっていたから、うっかりここでも忘れていたのだ。


改札にはクララが挟まっていた。住宅地が並ぶ結衣の自宅の最寄りは、そろそろ仕事上がりのサラリーマンが帰路につく時間だ。後ろからすぐ交通ICをタッチするスーツの女性が続き、開くゲートからクララは靴底を擦って這い出し阿t。彼はまた、結衣の近くまでやって来てぴたりと止まった。


黒い制服を纏った駅員に、スーツを着たタクシー運転手、駅から吐き出される大人に紙袋頭の詰襟制服がまぎれる。誰にも気づかれない、クララは結衣にだけ見えていた。


ひるんで半歩下がった結衣に、クララはその半歩分の隙間を正確に詰めた。思えばクララと始めてあったのはこの近くになるが、あれ以来クララはここで会っていない。

日が落ちかけ、駅の逆光でクララの影はいつもより余計黒くなって見えた。


「こ………来ないで」

結衣はかばんの持ち手を強く握った。


一人膝を震わせる女子高生に、改札から出てくる中年の男がけげんな顔をして通り過ぎる。クララの四角い頭は、広い面にうっすらついた折り目をかっくりさせたまま、結衣の方を向いてまんじりともしなくなった。


ロータリー横の信号で、車のブレーキ音が連なる。車道側が赤になったのだ。間もなく歩道で待たせていた信号が青に変わり、電子音の鳥が鳴き出した。


結衣は弾かれたように顔を上げ、怖気を振るって横断歩道まで瞬発力を込めて駆けた。ようやく不動産屋のビルが曲がったところからさっき飛び出した駅前を窺うと、クララは先の恰好のまま猫背になってタクシー乗り場の方へと立ち尽くしていた。言葉が通じて追ってこないのかは定かじゃないが、ひとまずクララは結衣の逃げた方向を知ってもこちらを振り向くことはなかった。


言われていた味噌は、本当は駅前のスーパーで買う予定だったが結衣はそうも行かず、結局少し遠回りして商店街の中でいつもとは若干柄が違うパックを買った。コンクリートの階段を鳴らしてマンションの三階に上がった時、街路では色んなところで白色光が灯り、近くの家々も窓ばかりが四角く浮かび上がっていた。はす向かいにあるシーソー公園にも一つ、ベンチの近くに高い電灯がぽつりと立っている。


終礼での話が気にかかり、ふと見下ろした結衣は鍵を出す手を止めた。公園には小さな子どもが一人うろついているように見えた。


———なんだ、あの子は無事だ。


昨日今日と同じ景色に結衣はほっとした。高校でも注意喚起されるこの状況で子どもがシーソー公園にいること自体危なっかしいが、自分がその現場を以前見ていたとなるよりはマシだ、それこそ胸糞悪い。今日の子どもは、昨夜が特に冷えたのか長袖の服に替わっていた。遊びをするにも一人縦横無尽に駆けめぐっているだけなら飽きてきそうなものなのに、ご苦労なことだ。



その時、結衣は口を結んだ。もともと、開けてもいなかったが———


おかしな話だが、結衣はあの遠くから子どもと目が合った気がしたのだ。子どもは電灯のそばでつっ立って、マンション、ことに結衣を仰ぐように見上げていた。あり得ないのに、そこで今日のクララを思い出して結衣は身を縮めた。


窓には帰宅した母が貝を汁で煮込む湯気の臭いが漂っていた。結衣はソア背無い目を遮って、玄関の内側から重いドアをぴっちりと閉めきった。

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