2 女の話

 ずっと一緒だったから応えられないと、彼は言った。


「妹のようにしか思えないんだ」

 ごめん、と言って私の頭を優しく撫でる。

 その手が好きだから、口を塞がれたわけでもないのにもう何も言えなかった。


 私の十余年積み募らせた愛の告白は、今まさに彼の手で手折られた。


 彼の名前はロイヴ・グレンストール。

 甘い垂れ目に、上品にまっすぐ伸びた高い鼻。少し長い金髪に灰色の目。世界で一番美しい顔。

 父同士の仲が良く、交流することが多かった二つ年上の幼馴染。


 父はより高い地位の相手との結婚を望んでいたから、ロイの家と仲が良くとも婚約などは結ばれなかった。メリットがない。


 姉が侯爵家との婚約が決まると、お前は自由にするといいと父は言った。姉の縁談のおかげで、妹の私はメリットではなく愛で相手を選んでいいと言ったのだ。──共に生きる相手を。


 だから私は迷わずロイに伝えた。

 幼い頃より、ずっと好きだったと。


 イース・グローア。グローア子爵家の第二息女。

 いつも彼が褒めてくれる長い金髪を、今日はいっそう綺麗に整えてきた。若葉の色と彼が褒めてくれた目で、まっすぐに見つめた。


 十八歳。ほとんどの人生を、彼だけを見て過ごしてきた。太陽に焦がれる花のように。

 そうして伝えた告白は、花を手折るより容易く断られた。


 出会ってからずっと、同じ場所に咲いていた。

 この街にいる限り、彼の面影を見てしまう。

 そして私は、別宅がある離れた町へ住まいを移すことに決めた。父が頭が痛そうに正気かと聞いてきたので頷いた。


 使用人も誰もいらない。

 彼を知る人を連れて行きたくなかった。きっと思い出話をしてしまう。


 自然豊かな場所にある別宅は、さほど大きくはないとはいえ一人には十二分に広い。そのまま山に繋がる広い庭は、手入れをしていなくても常に四季折々の花が咲いていた。

 しばらくは不慣れな生活の基盤を整えることに必死で彼のことを考えずに済んだ。


 幼い頃に知り合って、十年以上傍らで過ごした。

 本を共に勧め合い、ダンスの練習だって共にした。控えめで目立つことを嫌う彼と踊ることは一、二度だったけれど。

 端麗な容姿を派手に着飾ることを好まず、酒も好まず。

 今後や事業や領地のことを真剣に考えてきる、生真面目で紳士的な彼が好きだった。

 触れ合いなど、儀礼的なエスコートと頭を撫でるその手だけだった。


 自分を美しく保つ努力はすべて彼のためだった。

 なのに、妹のようにしか思えないなんて言われたら、引き下がるしかなかった。

 彼の灰色の瞳に、愛に浮ついた目で映りたかった。


 夜空に浮かぶ黄金の月を見るたび、彼の髪を思い出した。


 そうして幾晩いくばんも一人で眠り、新しい屋敷で朝を迎えてしばらく経った。

 庭に出ていた時にその音は聞こえた。


 太陽の眩しさに目を細めながら見上げる。


 いつにない木々のざわめき。屋敷のすぐ裏の山から激しい音を立てて、鳥の群れが飛び立っていった。


 何かあったのだろう。


 一人で過ごすようになって、身軽なドレスを選ぶばかりだったおかげで、山の中へ進むのを躊躇ためらわなかった。

 山は我が家のものであったから、確認したほうがいいだろうと判断した。半分は好奇心。


 さほど森の奥まで進むことなく出会った。


 いきなり鼻の奥についた、土と葉より重たいその匂いが、なんなのか分からなかった。


 そこで倒れる男の姿を見て、鼻腔に感じたその匂いが血の匂いだったと知る。


「だ……な……」

 誰なの。なんなの。


 初めて見る人間の姿に、喉の奥で声が詰まる。

 空を仰いで倒れる姿は天の迎えを待っているようでさえあった。


 その体から流れただろう血の中に横たわり、裂けた服からは目を背けたくなるような体躯の損傷が見えた。

 倒れている男は赤毛だった。癖のある赤毛は、血と同じ重い色をしている。

 ……こんな血の量、きっと死んでる。

 そう思って、近づいた。

 地面に広がる血を踏まないようにその顔を覗いて──息を飲んだ。 

 

 似てる。

 覗いたその男の顔立ちは、あまりにも彼に似ていた。


 目を閉じているといっそうわかる甘い垂れ目。顔に影を落とす品のいい高い鼻。

 傷だらけで汚れている。それでも、幼いうたた寝の時に覗き見た彼の寝顔そのものだ。


 どうして彼が。

 いや、彼じゃない。

 地面に広がるその色に正気を取り戻す。

 髪の色が違う。


「……生きてる?」

 咄嗟に聞いてしまった私の声に反応するように、倒れるその顔の眉間に皺が寄せられた。



 目の前に倒れるその体の心臓は止まっていなかったようで、誰かは知らないが思わず安堵に息を吐いた。

 治療すれば助かるかもしれない。

 けれど私は思い至る。


 こんなにも傷ついた人間は、生きていけるのだろうか。そもそも、こんな傷を負うような出来事があって尚、生きたいだろうか?


 そう思わせるほどに、その腹の傷は深そうで、何より血溜まりは大きかった。

 怪我をした人物をそうそう見たことがなかったから、その思いが声になった。

「…………生きたい?」

 こんなに傷ついていても。

 叫べないほどの痛みの中でも。

 ──それでもあなたは生きたいか。


「あ?」

 血溜まりが重低音に震えた。

「いきた、く」

 掠れてその声は聞きづらいが、見知った声に十分似ていた。久しぶりに聞いたその声に胸を掻きむしりたくなるが、こらえた。


 生きたいかなんて──馬鹿なことを聞いた。

「わかったわ」


 返事をしてくれたことが証拠だ。生きたいに決まってるだろう。


 しゃがみ込んで近付いた。

 愛しい声にそっくりなその人物に、恐れなど感じなかった。

「あ、目が開いた」

 血溜まりの中のその男の目が、ゆっくりと開いく。

「やっぱり」

 目を開けたその顔は、思ったとおり……思った以上に彼によく似ていた。


「ねえ貴方、助けてあげる」

 だから、悪魔みたいなことを思いついてしまった。

 

生きたいのでしょう?

 命を対価に要求をするなんて、ひどいことだという自覚はあった。


「その代わり、助かったら」

 それでも叶えたい望みがあった。──愛した男に抱きしめられたい。

 例えそれが、愛した男と違う魂の器でも。

 見目が同じなら、私の魂は救われると思った。


「私の言うことを聞いてね」

 男は汚れていたし血まみれだったけれど。

 愛しい男と同じ声と顔をしたその姿に、抱き締めることを躊躇わなかった。

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