02 九条忠栄(くじょうただひで)

 場と時は、宴のあと、秀頼が大坂城内の城主一族の私的な空間を歩いている場面に戻る。

 ちりんちりんと鳴る鈴の音は、完子さだこの猫の鈴だった。


「猫も、宴に入れてやればよかったか」


 秀頼はひとりごちた。

 完子が茶々に引き取られた時、知り合いは乳母めのとひとりきりだった。

 哀れに思った茶々は、一匹の猫を与えた。


「まあ、可愛い」


 完子は猫を可愛がった。


「やはり、女人にょにん女人にょにん数寄すきをわきまえている」


 秀頼は感心した。


「猫め、完子の義姉上あねうえに置いて行かれると思うてか。それではこの秀頼が、連れて行って進ぜよう」


 秀頼はそっと猫の鈴の音の聞こえる部屋の前に来た。

 抜き足、差し足。

 秀頼はほくそ笑んだ。

 大切にと育てられたが、生来、悪戯好きである。その悪戯の相手は、主に完子の乳母だ。

 乳母を「わっ」と驚かせ、あとで茶々に「そなたはほんに父によう似て」とか「豊臣の子としての自覚を」と言われる流れが、秀頼は好きであった。


「どれどれ、猫どのをこの秀頼が連れて行って」


 また、わっと驚かせてやろうか。

 そうやってほくそ笑んだ、当時、まだ十一歳の秀頼はその部屋の障子戸を開けた。


「わっ」


 これは驚かせようとしたのではない。

 驚いたのだ。

 秀頼が。


「め、乳母どの!」


 開けた戸の、その先に。


何故なにゆえそんな苦しそうに、いや」


 死んでいる。

 乳母が、苦悶の表情をして、死んでいる。

 思わず触れたその頬の冷たさに慄然ぞっとする秀頼。

 その耳に。

 ちりんちりんと、猫が首輪の鈴を鳴らす。

 猫は、死んだ乳母の手をなめていた。



 それから、十の年が流れた。


「さようなことがあったのか」


 完子の嫁入りの十年後――慶長十九年、完子の夫、九条忠栄くじょうただひでは眉間にしわを寄せていた。

 忠栄は幼き頃より俊秀で知られ、祖父の稙通たねみちから大いに期待をかけられ、源氏三ヶ秘決を伝授されることになったほどである。

 そして慶長十三年から十七年にかけて関白を務め、押しも押されぬ堂上公家である。


「さて」


 忠栄が眉間にしわを寄せているのは、何も十年前に起こった、妻の乳母の怪死について(原因不明とされた)だけではない。

 方広寺鍾銘事件という事件が出来しゅったいしたからである。

 これは、豊臣家が建て直した方広寺の鐘の鍾銘「国家安康君臣豊楽」に対し、徳川家が「を分け、として楽しむつもりか」と、異を唱えてきた事件である。


「だけではない」


 秀頼の乱行が相次いでいるという。

 いわく、正室の千姫を差し置いて側室を抱き、子をなしている。

 いわく、その成長した巨躯を用いてさまざまな乱暴ごとを働いている。

 いわく、一胴七度という刀を手に入れた時、この刀にて四辻与津子なる不行状の女官を成敗し、関白になると。


「まあ、四辻与津子については、わからなくもない」


 四辻与津子は美しい女官であったが、何と帝と密通していた。懐妊しているという噂もある。

 ところが帝は、徳川秀忠の娘、和子を入内させると宣旨したばかりである。和子は完子、そして千姫の妹である。

 これを知った秀頼は激怒した……。


「おのれの義姉と妻の、末の妹にかかわることだから、秀頼どのがただしてくれようとしても無理はない。が、それを江戸はどう受け取るだろうな」


「…………」


 完子の母・江の夫である徳川秀忠は、二代将軍として江戸幕府を取り仕切っていた。

 それだけに、完子の気持ちは複雑である。


「話は戻るが」


 忠栄は妻の心情をおもんぱかり、それまでの話題を断ち切るように、話を戻した。


「その乳母の怪死が、何で秀頼どのの乱行に結びつくのだ」


 そもそも、忠栄が最近の秀頼について悩んでいたところへ、完子が言い出したのが、乳母の怪死事件である。


「それが秀頼どのの心に影を落としたというのはわかるが、なぜ今なのだ? もう、十年もけみしているではないか」


 それを受けて、完子は少し思い悩んだが、やがて口を開いた。


「猫が、死んだのです」


「猫?」


「はい。あの時、乳母が死んだその時、その場所にいた猫が、つい先日、死んだのです」


 完子の無聊を慰めるために、茶々がくれた猫。

 完子の乳母が怪死した時に、ちりんちりんと鈴を鳴らしていた猫。

 完子は、それを連れて九条家に嫁いできた。


「それが」


「死んだというのか」


「それを秀頼に書き送ったのです」


 秀頼は猫を可愛がっていた。

 だから、知らせるのが良かろうと、便りを書いた。

 秀頼からは、わかったという旨の返事が来た。


「それから乱行が始まったと」


 忠栄は訝しむ。

 可愛がっていたとはいえ、十年も前に豊臣家からいなくなった猫である。

 悲しみはあるだろうが、乱行のもととなるとは、考えがたい。

 ならばなぜ。


「それが、乳母の死です」


 秀頼は、死んだ乳母の手をなめていた猫の姿を思い出してしまったのではないか。


「そうだな、秀頼どのの義姉のそなたがそう言うのなら、猫──そして乳母の死が、秀頼どのの乱行に結びついている」


「これは千姫どのから内密にと教えられたのですが」


 例の一胴七度を抜いて、秀頼は──


「これで四辻与津子なる女官の腹をさばき、彼奴きゃつの腹に子がるかどうか、判じてくれよう」


 と、うそぶいたという。


「それは──」


 忠栄は頭を抱えた。

 豊臣家の当主が、そのような不行状をして、どうするか。

 それこそ、徳川秀忠なり徳川家康なりの耳に入ったらどうなるか。


「豊臣家は滅びるぞ」


 そうでなくとも、秀頼の切腹は免れないのではないか。

 あたかも、それではまるで──

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