【短編版】豊臣の子

四谷軒

01 豊臣完子(とよとみさだこ)

 ちりん、ちりん。

 どこかで鈴が鳴っている。

 豊臣秀頼とよとみひでよりは、その鈴の音を聞きながら、大坂城の城主とその家族の私的な空間の中、ゆっくりと歩いていく。

 時は、慶長九年六月。

 秀頼の義姉、完子さだこが婚儀を上げる、その直前である。

 完子、正確には、のちにその名で称される女性だが、彼女の母はごうといって、秀頼の母・茶々の妹である。

 江は、今は徳川秀忠の正室であるが、その前は豊臣秀勝という人物に嫁いでいた。秀勝というのは、豊臣秀吉の姉・ともの子である。換言すると、かつての関白・豊臣秀次の弟が秀勝であり、その秀勝と江の間に生まれたのが完子──つまり完子は秀頼の従姉である。

 ところが秀勝が陣没し、その後、江は秀忠に嫁ぐよう命じられたが、完子は大坂に残された。


わらわの娘としよう」


 秀吉の側室であり、当時秀頼を生んでいて、正室以上の権力を持っていた茶々が、完子を引き取った。

 以後、蝶よ花よと大切に育てられ、嫁ぎ先にも気を遣われ、藤原摂関家九条家当主九条忠栄くじょうただひでという公家に嫁すことになっていた。



「まことにめでたきことにございます」


 その夜、完子の乳母めのとは、そっと目じりをぬぐった。

 大坂城の一室にて、乳母は完子のうしろに座り、泣き笑いの表情を浮かべていた。

 この夜、完子は嫁入り前に、親しき者たちだけで過ごしたいとの意向を示し、この部屋には、乳母のほかに、秀頼、茶々、秀頼の正室の千姫がいる。

 乳母は幼き日から完子の世話をしてきており、家族同然ということで、同席を望まれ、今ここにいる。


「この子のであったそなたがそういうのも、むべなるかな」


 茶々は微笑む。完子の養母である彼女が言うのなら、納得のいく発言である。

 表のが茶々ならば。

 身の回りの世話をしてきた乳母こそ、裏のである。

 茶々はそういうことを言いたいのだ。


「長年の労苦が報われた気持ちでございます」


 乳母は深々と頭を下げた。



 ――まるで、羽のようなあつかいだった。


 完子はそう思う。

 完子は実母である江から

 徳川家の世嗣に嫁ぐよう命じられたため、連れ子はいない方が良いという判断である。

 その時、奉公人のほとんどが辞していったが、この乳母だけは完子から離れなかった。

 さらに詳しく言うと。

 完子の父たる羽柴秀勝は、完子の生まれた年に、文禄の役の最中に、巨済島で病没した。


「哀れな」


 これを聞いた秀勝の兄、秀次は、自身の侍女の中から特にとこの乳母を選んで、完子の世話を命じたという。

 当時、乳母は赤子を失ったばかりで、その傷心を癒やすという、秀次の心遣いもあった。

 その秀次も切腹させられ、江が秀忠の正室となり、完子が孤児となったところを、この乳母が尽力し、茶々が養子として迎え、乳母共々、豊臣家に迎え入れられたという次第である。


「何にせよ、めでたきこと……完子さまが嫁がれ、そして秀頼さまも、今改めて見ますと、何と見事な男ぶり。まさに豊臣の子。お父上の関白さまを見ているようでございます」


「それはそれは」


 乳母のその言葉に、千姫が相好そうごうを崩した。

 豊臣秀吉と徳川家康という、互いの父と祖父が決めた婚姻ではあったが、千姫は秀頼という夫に満足していた。

 その千姫が、秀頼を褒められて、嬉しくないはずがない。

 この機会に、茶々との融和に努めようと、「義母上ははうえもそう思いませんか」と言ってみた。

 言ってみたが。


「…………」


 茶々は無表情だった。

 千姫は、やってしまったと思った。

 やはり、出過ぎた真似か。


「母上」


 ここで秀頼が口を開いた。

 彼は、妻の千姫の努力を認めた。だから、茶々の反応が無いことに不満を覚えた。

 だがここで秀頼自分が怒れば、千姫の、茶々との融和をという気持ちを無下にする。

 ならば自分が、場の雰囲気を良いものにしよう。

 そう思っての声かけだったが、なおも茶々は無表情だった。


養母上ははうえ?」


 さすがにおかしいと思ったか、完子も声をかけた。

 茶々はようやく気がついたように「え、ええ。そうですね。まさに秀頼は豊臣の子。お父君に、太閤殿下に」と言ってから、誤魔化すように宴の支度をと手を叩いた。

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