さらば

悠犬

第1話

 よし、死のう。

 私は決心した。社会に出て五年。十分頑張った。たった五年と思う者もいるだろうが、私にとっては十分に長い時間だ。縄は買ってある。

 しかし、ただ死ぬだけでは勿体無い。人生で一度きりの、私の最後の見せ場だ。さてどうしよう。少し悩んだ。

 そうだ、お世話になった皆んなに別れの挨拶をして回ろう。辻島に、中原に、父に、母に、弟に……。そうと決まれば、今すぐ準備だ。

 私は銀行でいくらかお金を下ろし、財布に仕舞った。今までに見たことのないくらいにぱんぱんに膨れ上がった財布は、かなり不恰好に見えた。さて、まずは誰と会おうか。


 その日の夜、私は辻島を新橋の飲み屋に誘った。彼は高校からの私の親友で、社会人になってからもたまに会っていた。

 金曜日の夜の街は人で溢れかえり、少しでも油断すると呑まれそうになる。あちらこちらで喧騒が聞こえる。

 待ち合わせをしていた店の前まで来ると、辻島はもうそこにいた。仕事終わりにそのまま来たのだろう。黒のスーツが決まっていた。


「よお。お前から誘ってくれるなんて随分と珍しいじゃないか。何か悩みでもあるのか?」


「悩みなんて何もないよ。嬉しいことがあったんだ。いや、あったというか、これから起こるというか……」


 取り敢えず、中に入ろうと促した。店内は随分と賑わっていた。店員が忙しなくテーブルを行ったり来たり。やはりここでも酒で浮かれた人々が馬鹿騒ぎをしている。あまり店の外の風景と変わらないな、なんて冗談を言い合っていると、私たちは二階の席に案内された。

 席に座るなり、辻島が私に尋ねた。


「何飲む?」


「取り敢えずビールかな。あと砂肝。辻島は?」


「俺は焼酎。おつまみはぁ……」


 辻島のいつもの優柔不断が出ている。私はにやにやしながら、


「今日は僕の奢りだから何でも好きなのいいよ」


 と、選択肢を増やしてわざと困らせてみる。


「お前って、いっつもそうだよな」


 そう言って苦笑したあと、唸りながら随分と考えて、結局私と同じものを頼んだ。

 いつも通りにくだらない話で盛り上がり、お酒も進み、だいぶ仕上がってきた頃、私は辻島に言った。


「いやぁ、楽しいな。こうして飲むのも。お前と親友で良かったよ。ありがとう。いい思い出ができた」


「なんだよ、急に。まるで最期の言葉みたいじゃないか。何か今日のお前ちょっと変だな。そういえば店入る前に言ってた、嬉しいことって結局何だったんだよ」


 私はその質問には答えなかった。適当に笑って見せ、ただ秘密、と一言。辻島はこれ以上聞いてこなかった。何かを察したのかもしれない。


 二時間も飲んだ。もうお互い千鳥足だ。そろそろ頃合いかなと店を出ると、飲み屋のネオンがチカチカと眩しかった。だいぶ酔っているらしい。明かりがぐるぐると、北の星空のように動いている。二人で肩を組んで、支え合いながら駅まで歩いた。

 改札に着く頃には、外の寒さもあってか少し酔いが覚めた気がした。


「じゃあな」


「おう、また今度な」


 と別れの挨拶を済ませ、それぞれ電車に乗り込む。


(また今度、か)


 もう叶うことのない約束を噛み締める。電車が私たちを遠ざけていく。

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