三題噺「忘れた約束」「温泉宿」「スマートフォン」

Zen傅太郎

三題噺「忘れた約束」「温泉宿」「スマートフォン」

「どうなってるんですか?」

 電話をとるなり、怒声が響いた。しまった。原稿の約束をひとつ、完全に忘れていた。更に困ったことに、今、自分は温泉宿にいる。大きな仕事を終わらせた勢いで、思わず旅に出てしまったのだ。いっそとことん俗世から離れるつもりで、スマートフォンの電源も落としてしまっていれば悩まされることもなかったのに(あとが怖いが)。

「ああ、うん。どうにかする」

「どうにかって、どうやってですか!」

 とにかく、どうにかだよ……と、捨て台詞を吐いて通話を切り、布団にスマートフォンを投げ捨てた。しかし、すっかり仕事モードではなくなっている頭からは妙案が湧いてこない。湧いているといえば、温泉だ。もういい、まずはお湯に入って、リラックスするしかない。

 室内にある大風呂と、こじんまりとした露天風呂の合わさった、宿の大浴場へと向かう。オフシーズンの平日ということもあって、今の時間には自分だけしか入浴客はいないようだ。サッと掛け湯をして、まずは大風呂から味わうとする。

 ……沁みる。何もかもがどうでもよくなる心地よさだ。

 ほどよい頃合いで露天風呂に向かうことにする。そこから見える風景は絶景なのだと女将が言っていた。……はて、そういえば、その折に女将から、合わせて何かを言われた気がする。なんだったかな……。

 全裸では、まとまるものもまとまらない。さほど大したことではないだろう。散漫な思考のまま、露天風呂にざぶんと飛び込む。外気の影響もあってか、ややぬるく感じはするが、それもまたいい。見える景色も、たしかに美しい。眼下に見えるきらめきは、ふもとの街の明かりだろうか。

 いや、何かがおかしいな。

 小さな光が密集し、蛇行している。最初、車の渋滞かと思ったが、そんなはずはない。車道がそこまで混み合うような土地ではないはずだ。身を乗り出し、目を凝らす。幸い視力はいいほうだ。

 目が慣れてくると、次第に詳細がわかってきた。

 スマートフォンだ。随分懐かしいタイプの、型落ちしたスマートフォンの群れが、ライトを光らせながら、夜の道を泳いでいく。巨大な魚群のように。

「ここは昔から、付喪神の通り道ですから」

 女将の言葉が不意に脳裏に蘇った。思わず、脱衣所まで自分のスマホを取りに戻った。ぜひとも撮影したい。異様な光景を。忘れていた原稿のネタにもできる。滑らないように気をつけながら、露天風呂へと駆け戻り、急ぎカメラを向けた。

 静けさの中に、シャッター音が鳴った。さほど大きな音ではないはずなのに、妙に響いた。撮られた気配を察したのか、一瞬、動きを止めた光の帯が空へと伸び上がる。人工の天の川のような、幻想的な存在を見つめているうち、女将の言葉の続きを不意に思い出した。

「見かけても、撮影はご遠慮ください。危ないこともありえますので……お約束してくださいね」

 忘れていた。そして、遅かった。

 光り輝く大蛇のような、スマートフォンの群れ。その顎に、呑み込まれていく……。

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三題噺「忘れた約束」「温泉宿」「スマートフォン」 Zen傅太郎 @zendentarou

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