はじめての【メル友】
@higekenhige
はじめての【メル友】
199X年。当時の日本では、まだインターネットが今ほど普及しておらず、携帯電話を持つことが少し特別なことだった。
高校三年生のケンは、日々受験勉強に追われながらも、携帯電話が気になって仕方がなかった。
「お母さん、お願いだから携帯買ってよ」
ある日の夕飯の後、ケンは勇気を出して頼み込んだ。しかし、母親は新聞を読みながら顔も上げずに答えた。
「あなたは彼女もいないし、まだ携帯なんて早いわよ」
そう言いながら、最近聞いた話を続ける。
友達の母親が言っていたという、「今の子どもたちは早めに携帯を持たせたほうがいい」という意見だ。
しかし、ケンの母親は慎重だった。息子が携帯を持つことで無駄な時間を費やすのではないかと心配していたのだ。
ケン自身も、携帯がどうしても必要だとは思っていなかった。
けれど、周りの友達が次々と携帯を持ち始めるのを見て、自分も欲しいと思うようになった。
特に、最近NTTドコモが「iモード」を発表したことで、携帯電話がただの通話機器ではなく、何か新しい世界を開く鍵のように見えた。
クラスの中では、携帯を持つことが許された生徒たちが番号を交換し合い、
無意味にメッセージを送り合うのが流行っていた。
まだメールアドレスという概念は一般的ではなく、
電話番号を使った同じ会社同士のショートメッセージしか送れなかった。
それでも、彼らにとっては十分に楽しい遊びだった。
「いいなぁ、俺も携帯持ってたらなぁ」
放課後、そんな風にぼやくケンに友達が笑いながら言う。
「お前、買ってもらえばいいじゃん。彼女作ってさ、ラブラブなメッセージ送れるかもよ?」
冗談めかしたその一言に、ケンは少しムッとしながらも、心のどこかで携帯を持つことへの期待を膨らませていた。
そんなある日、友達の母親が家を訪れて話をしていた。
その際に「うちもとうとう携帯を買ったわよ」と話をしていたので割って入る。
「どうせその内持つんだから練習させといた方が良い」というまさかの援軍によりとうとう母親が折れ、
その週末に携帯ショップに行き買って貰う事になった。
特に連絡する相手もいないのに、最高のゲーム本体を買ってもらったような気持ちになっていた。
夏休み、高校三年生のケンは受験勉強に集中するため、学校の図書館に足繁く通っていた。
いつも同じような顔ぶれの友達と集まり、教科書や参考書を広げては、黙々と勉強していたが、時折雑談を交えながら息抜きをすることもあった。
ある日の帰り道、友達の一人がふと思い出したように話しかけてきた。
「なあ、ケン。『メル友』って知ってるか?」
「メル友?」ケンは聞いたことのない言葉に首をかしげた。
友達は楽しそうに続ける。
「携帯で適当な番号に『メル友になりませんか?』ってメッセージ送るんだよ。
そうすると、知らない人とメッセージやり取りができるんだ。俺、福岡の女子高生と今やり取りしてるんだぜ!」
その言葉にケンは驚き、そして少し羨ましくなった。
ケンは女友達が少なく、そんな風に女子と気軽にやり取りをする経験がなかったのだ。
帰宅すると、興味本位で自分も試してみることにした。
ケンは携帯を握りしめながら、適当な番号にメッセージを送った。
「メル友になってもらえませんか?」と。
数分後、返信がきた。
しかし、返ってきたメッセージは意外にも固い文面だった。
「メル友とは何でしょうか?」
それだけで相手が年上だと感じたケンは、気後れしてそれ以上やり取りをしなかった。
それでも、「数を増やせば誰かしら面白い人に当たるだろう」
と軽い気持ちでまた別の番号にメッセージを送り始めた。
当時はメッセージの文字数に制限があり、簡潔な文でやり取りするしかなかった。
今のような出会い系やマッチングアプリもなく、詐欺メールに対する免疫もない時代だった。
そのため、ケンも相手から悪意を持たれる可能性などまるで考えずにいた。
そんな中、鹿児島県の女子高生を名乗る相手から返事が来た。
「こんにちは、私、鹿児島に住んでるよ!」
ケンはその返信にテンションが上がり、友達に報告した。
「鹿児島の女子高生と繋がったぞ!」と。
それを聞いた友達は、羨ましがりながらも興味津々でケンに色々と質問をしてきた。
何気ないやり取りが続き、ケンはその女子高生とメッセージを交換するのが日課のようになっていった。
そんなある夜、その女子高生から突然こんなメッセージが届いた。
「授業中にペンでエッチなことしてたの」
たった一文の短いメッセージだったが、ケンの想像力を刺激し、彼を妙に興奮させた。
後日、友達にもその話を伝えると、友達は「羨ましいな」と言って興味を示した。
だが、そのやり取りも長くは続かなかった。
ある日、その女子高生から意外なメッセージが送られてきた。
「ごめん、実は俺、男なんだ。」
ケンは一瞬、画面を見つめて固まった。
「マジかよ」と落ち込んだが、すぐに平静を装い、こう返信した。
「やっぱりそうか。おかしいと思ってたんだよ。」
相手からはさらに謝罪のメッセージが届いた。
「友達と盛り上がっちゃってさ。ごめんね。バイバイ。」
ケンはそのメッセージを見て思った。
「なんだかんだでいいやつだな。」
翌日学校でその話を友達に伝えると、友達は驚きつつも面白がり、
「じゃあ俺たちも女になりすましてメッセージを送ってみようぜ!」と言い出した。
みんなで適当な番号に「女子高生」になりきってメッセージを送り、誰が返事をもらえるか競い合ったりもした。
そんな遊びは受験勉強の息抜きにはなったものの、やがて飽きてしまい、次第に誰もメル友遊びをしなくなっていった。
夏休みが終わり、少し涼しさを感じる季節になった頃。ケンの携帯に突然メッセージが届いた。
「メル友って何ですか?」
以前だれかれ構わず送っていた時に相手から時間が空いて返信がきた。
どこかで聞いたようなやり取りの始まりに、ケンは思わず笑いながら返信を打った。
「メル友って、こうやって知らない人同士でメッセージをやり取りすることですよ」
すると、すぐに返事が返ってきた。
「そうなんですね。私はH県に住む海香(ミカ)といいます。」
「僕はO県に住む高校生のケンです。よろしくお願いします!」
やり取りを続ける中で、ケンは彼女について少しずつ知ることになった。
彼女は高校を卒業してすでに20歳を超えており、H県の海の近くに住んでいるということ。
機械音痴で、携帯を持ったのも最近のことだという。
H県については、地図帳で見た場所や歴史の教科書に出てくる建造物のイメージしかなかったが、
遠いどこかで暮らす彼女の話を聞くのは、ケンにとって新鮮で楽しい時間だった。
しばらくは何気ない日常や自己紹介のメッセージをやり取りするだけだったが、
受験生としての不安やプレッシャーに押しつぶされそうな時期、
海香との会話はケンにとって何よりの癒しだった。
そんなある日のこと。
翌日に控えたテスト勉強に集中したいのに、疲れからかどうにも眠気が襲ってくる。
ケンは思わず海香にメッセージを送った。
「眠いけど、勉強しなきゃならなくて……」
すると、すぐに返事が来た。
「時間になったら起こしてあげようか?」
「起こす?どうやって?」
と聞き返すと、海香からはこんな提案があった。
「電話番号があるでしょ?モーニングコールしてあげる。」
電話、そして女子と直接話をする――そんな発想がケンには全くなかった。
途端にドキドキし始めたケンは、緊張を抑えながら震える手で返信を送った。
「じ、じゃあ……1時間寝るから、22時に電話をお願いします。」
布団に横になり目を閉じたものの、電話がかかってくることを想像すると、
鼓動が早くなり、眠気どころではなかった。
何度も時計を確認し、時間が近づくにつれてさらに緊張が高まる。
そして、22時ちょうどにケンの携帯が鳴った。
「は、はい……」
と少し寝ぼけたふりをしながら電話に出ると、優しく穏やかな声が聞こえてきた。
「海香です。初めまして。時間だよ。」
「あ、は、初めまして……ありがとうございます。起きれました。」
ケンは嘘をついてそう言った。
電話の向こうから、海香の特徴的な笑い声が聞こえた。
「ふふふ。勉強、頑張ってね。」
「ありがとう。頑張ります。」
短い会話だったが、耳に残るその笑い声と落ち着いた口調にケンの胸は高鳴り、
電話を切った後もドキドキが止まらなかった。
勉強を再開しようとしたものの、頭の中は海香の声でいっぱいで、全く集中できなかった。
その夜、ケンは思い切って海香にメッセージを送った。
「緊張して話ができなかったけど、落ち着いていて素敵な声だと思いました。」
数分後、海香から返信が届いた。
「ふふふ。またお話しようね。」
その短いメッセージに、ケンは再び胸の鼓動が速くなるのを感じた。
海香とのやり取りはどんどん楽しくなり、心の支えになっていった。
しかし、会話の中で、彼女がどうやら身体が弱く、病気がちであることも徐々にわかってきた。
私生活では部活の練習が終わった後、後輩の咲良(さくら)が嬉しそうにケンに声をかけてきた。
「先輩、私も携帯、ついに買ったんですよ!」
「おお、本当か!どこの?」
「ドコモのやつです!友達とiモードの話してたら、お母さんがそろそろ持たせてもいいかもって。」
咲良の目は輝いていた。その表情を見て、ケンは少し昔を思い出した。自分も初めて携帯を手にした時、あんな風に嬉しかったなと。
「じゃあ、番号交換しようか。」
「はい!」
そんなやり取りから、咲良とは携帯で連絡を取り合うようになった。
学校のこと、部活のこと、何気ない話題ばかりだったが、それが意外と楽しかった。
中でも音楽の話は特に盛り上がった。
「先輩、ゆず好きって本当ですか?」
「おう、好きだよ。あの二人の歌声、なんか元気出るよな。」
「ですよね!私も大好きなんです!最近出たアルバム聴きました?」
「まだ。いいの?」
「めっちゃいいですよ。今度貸しますね。」
音楽の話題は次第に、二人のやり取りの中心になっていった。
そうしている内に、いつの間にか非現実の存在に近い海香とは連絡を取らなくなっていた。
咲良はどこか無邪気で、心地よい距離感を保ってくれていた。
ケンはそのやり取りに癒されていたが、同時に心のどこかでは「好き」という感情には至らない自分を感じていた。
実際、ケンには同じクラスに気になる子がいた。直接話をしたりアプローチをする勇気はなかったが、何となく目で追ってしまう、そんな存在だった。
そんなある日のこと。夜、ケンの携帯に咲良からのメッセージが届いた。
『先輩、ずっと言えなかったことがあります。私、先輩のことが好きです。』
画面を見つめるケンの胸は、ズキリと痛んだ。咲良の素直な気持ちが、文字越しでもまっすぐ伝わってくる。それが嬉しい反面、ケンの中には別の思いがあった。
『ありがとう。でも、俺、他に気になってる子がいるんだ。ごめん。』
震える手で送ったその返事は、ケン自身にも重くのしかかった。
それ以来、咲良とのやり取りは少しずつ減っていった。
話そうと思えば話せたはずなのに、罪悪感が邪魔をして、いつの間にか疎遠になってしまった。
携帯の画面を見つめながら、ケンはふと思った。
(海香さん、元気にしてるかな。)
でも、今さら自分から連絡をするのも気が引けた。
どこかで、また繋がれる気がしていた。
けれど、その「どこか」がいつ来るのかは分からないまま、日々は過ぎていった。
受験生としてのプレッシャーが徐々に重くのしかかる中、
ケンは以前ほど携帯を手に取ることが少なくなっていた。
あんなに楽しかったメル友遊びも、今ではどこか飽きてしまった。
メッセージを送っても、最初は何となく会話が続いても、結局途絶えてしまう。
その繰り返しに少し疲れを感じていたのかもしれない。
そんな中、ある日の夕方。
久しぶりに携帯が鳴った。
「メル友になりませんか?」というシンプルなメッセージが表示された。
昔の自分ならすぐに飛びついていただろうが、今はどこか冷めた気持ちでその文字を見つめた。
それでも、無視するのも気が引けたケンは、軽い気持ちで返事を送った。
「ケンです。高校生です。あなたは?」
しばらくして返事が返ってきた。
「風華(ふうか)といいます。Y県に住んでいます。よろしくね。」
風華――どこか古風で落ち着いた名前だな、とケンは思った。
さらに、メッセージの雰囲気からも、年上で大人びた印象を受けた。
何か特別な話題があったわけではないが、自己紹介を交わした後も、風華とはぽつぽつとメッセージのやり取りを続けるようになった。
風華の返信はいつも簡潔で、どこか穏やかだった。
「今日は天気が良かったよ」「最近寒くなってきたね」
そんな何気ないやり取りだったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
ケンにとってそれは、受験勉強の合間にほっとするような、ちょっとした癒しの時間だったのかもしれない。
ただ、ケン自身も忙しくなっていたこともあり、メッセージを送る頻度は高くなかった。
そして、風華も多くを語るタイプではなかったため、二人のやり取りは緩やかに続いていった。
特別な感情が芽生えるわけでもなく、
ただ「そこに存在する」やり取り。
それはケンにとって、何とも言えない心地よさを感じさせていた。
センター試験――その緊張感は、これまでに経験したことのないほどのものだった。
周りの受験生たちも皆同じ表情をしていた。
ケンは鉛筆をぎゅっと握りしめ、静かな試験会場で自分の力を出し切った。
だが、試験が終わった直後の自己採点では、思った以上に手応えがなく、失意の中で家に帰った。
それでも気を取り直し、大学受験に挑む日がやってきた。
朝早く、スーツケースを引きながら、母に見送られて駅へ向かった。
新幹線に乗るのはこれが初めてだった。
発車のアナウンスが流れると、心臓の鼓動が少し速くなる。
広い窓の外を眺めながら、ふと携帯を手に取った。
「今から新幹線に乗るよ。風華さんのいる県も通るみたいだ」
とメッセージを送ると、数分後に返事がきた。
「頑張ってね。きっと大丈夫だよ。」
短い言葉だったが、どこか安心感を与えてくれるそのメッセージに、ケンはほっとした。
受験会場に到着し、初めて訪れる街の空気を感じながら大学の門をくぐった。
試験は決して簡単ではなかったが、なんとかやり切ったという感覚が残った。
そして数週間後――合格通知が届いた。ケンは声にならない歓声を上げ、母と一緒にその喜びを分かち合った。
春が来ると、ケンは大学進学のために一人暮らしを始めた。
新しい街、新しい部屋、新しい生活。最初は慣れないことばかりだったが、自由な時間と自分だけの空間に少しずつ喜びを感じるようになった。
大学では部活にも入ったが、どうも肌に合わず、数ヶ月で辞めてしまった。
同級生とはそこそこの付き合いがあったものの、
親しくなる友達は少なく、女友達に至っては一人もいなかった。
勉強にも身が入らず、ケンはアルバイトに多くの時間を費やすようになった。
一人暮らしには慣れてきたが、どこか満たされない日々が続いていた。
そんな生活の中で、いつの間にかメル友という遊びも自然とやらなくなっていた。
携帯を開いても、懐かしいメッセージのやり取りはほとんど消えていた。
風華のことも次第に思い出さなくなり、日常の中で埋もれていった。
そんなある日、携帯に一通のメッセージが届いた。
送信者の名前は、以前登録していた「海香」のものだった。
しかし、内容は奇妙だった。
『ごめんなさい 風華』
突然の言葉にケンは戸惑い、
「どういう事?なんで?」と返信を送った。
だまされたのではないか、そんな疑念が頭をよぎる。
思い切って電話をかけてみると、受話口から聞こえてきたのは、全く知らない声だった。
以前電話で話したことがある海香の声とは異なるトーンにケンは驚き、
「あなたは誰?」と問いただすと、相手は静かにこう名乗った。
「風華です。でも……海香は私の親戚です。」
風華の話によると、海香は彼女の大好きな従姉で、長い間病気がちでベッドに伏していた。
そして、数ヶ月前に病気で亡くなってしまったという。
「海香お姉ちゃんは、よく絵を描いてたの。油絵が趣味で、特に夕日の海を描くのが好きだった。」
「ある日、海香お姉ちゃんが描いていた海の絵のタイトルが『ケンへ』ってなってたの。
それで私、『ケンって誰?』って聞いたの。
そしたら、お姉ちゃん、すごく嬉しそうに『メル友でね、いろいろやり取りした大事な人なの』って言ってたの。」
風華は、その話を聞いてからケンという存在に興味を持つようになったという。
海香が亡くなった後、風華は海香の携帯を引き継ぎ、
そこに残されていたメッセージ履歴からケンの連絡先を探し出した。
そして、メッセージを送ってみたのだと打ち明けた。
風華は言葉を続けた。
「最初は、ただどんな人なのか知りたかっただけ。
でも、やり取りをしていくうちに……あなたのことが気になって、
もっと知りたいって思うようになったの。
でも最近、あなたが素っ気なくなってきたから……正直に話さなきゃいけないと思って。」
ケンは沈黙しながらも、風華の話に耳を傾けた。
かつて海香とやり取りした思い出が、胸の中でよみがえる。
その後、ケンと風華は少しずつ連絡を取り合うようになった。
ケンは、風華から海香の話を聞くたびに、どこか心が温かくなるのを感じていた。
そしてある日、「直接会って話をしないか」と提案した。
風華は少し迷いながらも、嬉しそうに「うん」と答えた。
待ち合わせは駅だった。
ケンは指定された場所で緊張しながら待っていると、「ケンさんですか?」と声をかけられた。
「初めまして」とぎこちなく笑い、お互いに確認しあう。
「風華です。」
「ケンです。」
名前を交わし合うと、二人は並んで歩き始めた。
春の風が穏やかに吹き、二人の新しい関係の始まりを祝福しているかのようだった。
【終わり】
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