第2話

 二人の出会いは、新学期が始まって間もなくの頃。

 学校への登校中の電車内でのことだった。



 東京都内の未だ自然豊かな場所に、とある名門女子校が存在した。

 幼稚園から大学までの一貫校であるこの学校は、私立 聖蹟せいせき百合ヶ里女学園。

 元華族の家柄や、財閥や実業家、政治家の御令嬢が入学される名門校である。

 ここに通う二年生の笠小路かさのこうじ綾音あやねは生粋のお嬢様。

 父方は大財閥の流れをくむグループ会社の社長。母方は元華族の家系。

 学園内には様々な生い立ちの生徒がいたが、綾音は正真正銘のお嬢様だったのだ。

 自称社長令嬢や、良家の娘などとは違い、気品や振る舞い、容姿、美貌などどれを取ってみても完璧なまでのお嬢様。

 この学園の生徒の模範と憧れとなる人物だった。


 そんな彼女は毎日登下校は自宅の送迎車によって行うのだが、ある日のこと、車が点検修理のために使用できない日があった。

 代車の手配を断り、気分転換を兼ねて珍しく綾音は電車で登校することにした。


 その車内で事件は起こった。

 同じ制服を着た生徒が、中年男性に痴漢を受けていたのだった。

 その生徒こそ、本杉もとすぎ文代ふみよだったのだ。

 全く抵抗する様子も恥じらう姿も見せずに、無言で文庫本を読み続けていた文代。


 それを綾音は助け出し、おとなしく犯行を認めた男は駅員に連れていかれた。

 二人も事情聴取のため、駅舎控室へと同行していった。

 これで問題は解決……


 したかに思えた。


 その後も無反応の文代。

 綾音がいくら話しかけても、まったく話そうとしない。

 まるで意識だけ小説の中へと飛び込んでいるかのように、魂が抜けた人形状態なのだ。


 そこで綾音は、文代の意識を取り戻そうと、いろいろと試した。


 揺さぶったり、頬を叩いたり、耳元で声をかけたり……

 文代の持つ本を取り上げようともした。

 しかし、見た目以上の力で文庫本を握り締め、放さないのだ。


 恐ろしい程の没入感。


 試行錯誤の末、まったく現状から進展せず、ついに諦め疲れ果てた綾音は、文代の隣に腰かけた。


 控室に残された二人。


 小説に没頭する、まだあどけない表情の文代。

 こうして落ち着いて、近くでまじまじと見つめると、確かに可愛らしい顔をしていた。

 ほんの数ヶ月前までは中学生だった子だ。


 呼吸をしているのだろうか?

 不安になる綾音は文代の口と胸元とを観察する。


 身長も胸の膨らみも控えめな、まったくの純粋無垢な少女。

 開きかけの薔薇の蕾の様な、血色の良い唇は、微かに呼吸の度に波打っていた。


 それを見た綾音。

 一時の気の迷い。

 ほんの僅かな好奇心。


 この幼気いたいけな少女の唇がどのような感触をするのか?


 という破廉恥な妄想が走る。


 まるで痴漢をしてしまった男のような言い訳をしながら。

 

 その誘惑に勝てずに、


 顔を傾けると、


 磁石の磁力に導かれるように、


 軽く唇同士を重ねてしまった……


 パンケーキの様に、

 しっとりとした、

 柔らかく、

 甘い唇。


 すると、


 その一瞬の呼吸の遮断と、

 文庫本への視線の遮りが、


 少女を現実の世界へと引き戻したのだった。


 文代の瞳には生気が戻り、何度も瞬きをする。

 急に意識を取り戻した少女に、困惑する綾音は後退りする。


「ごめんなさい。あまりにも夢中になっていたものだから……」


 と、綾音の言い訳を遮るようにして、文代は叫んだ。


「い、今! 何時でしょうか!!」

「え?」


「あ、あの! ここはどこですか!?

 あぁ……どうしょぅ……

 また遅刻したら……退学に……」

「ちょっと、あなた。覚えていないの?」


「…………え?」




 あの日以来、綾音は文代を家まで迎えに行き、叩き起こしてから車で一緒に登校するのだった。

 こんな子、放っておけない。

 これが綾音の最初の心境。

 もともと車通学の綾音が、多少寄り道しながら文代を回収するだけのこと。

 こうすれば文代が痴漢にあったり、遅刻する心配もない。 

 そして自分の手の届くところに置いておける。

 何よりも文代にとっては、車内ではゆっくりと大好きな小説を読むことができるのだ。


 後部座席に座る文代はいつものように、鞄から読みかけの文庫本を取りだし開く。

 二人が会話をすることもあるが、たいていは文代が一人小説の世界へと入り込む。


 その様子を肩を並べながら眺める綾音。

 文代の小さな頭を優しく撫でる。


 時には髪をとかしたり、

 本を覗き込み一緒に読んだり、

 制服のホコリを払ったり、

 手を握ったり、つねったり、弄ぶ……


 文代は意に介さず、微動だにしない。


 文代はとても賢い子だった。

 地頭がよく、勉強もでき、運動もそこそこ。

 成績は悪くない。性格も良い。


 一つ問題があるとすれば、起床時、通学中にうっかり小説を読み始めたら、読み終わるまで意識が戻らず、遅刻してしまうこと。

 その間は、小説の世界に入り込み過ぎて、現実世界でなにが起きていたのかを把握できない。


 本人は自覚していないこの特殊な体質は、文代曰く、最近から起こり始めたようだった。

 昔から文学好きではあったが、中学の頃は普通に生活していたのだという。


 そしてこの小説の世界へと吸い込まれた魂を現実世界へと呼び戻す手段は、現在のところ何故か“綾音の接吻”しかなかったのだ。


 あと一回でも遅刻をしたならば退学。

 文代は、そこまで差し迫っていたのだった。

 それを救ったのが、まさに綾音の口づけだったわけである。


 車は間もなく、学園前に到着する。


 綾音は身だしなみを整えると、文代の読む文庫本を遮り……


 そして優しく唇を塞いだ。


 数秒間の唇同士の密着の後、名残惜しそうに離れていく綾音の口からは、甘い吐息が漏れる。


 まもなくして我に返る文代。


「…………ぁあっ!」


「フミ、もうすぐ着くわよ。準備なさい」

「は、はい!」

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