第6話
真夏はもう、瞼を持ち上げていられないようだった。僕は黙ってテレビを消して、彼女をベッドに横たえた。僕も随分疲れていた。照明を落として、隣のベッドに身を横たえる。その時だった。「よく晴れた最高の日曜日に、最高のサンドイッチを携えて熱川バナナワニ園に行きたい」と、眠ったはずの彼女は流ちょうに言った。僕は「いいね」と応える。「サンドイッチはあなたが作るのよ?」「構わないよ」僕は夢だと思っているから、なんだかよくわからないまま肯定する。「バナナワニって、どんなだと思う?」彼女の方からその問いはやってくる。寝言にしては鮮明すぎて、何者かが彼女の口を借りて語りかけてくるかのようだった。
熱川では、その温泉熱を利用して、本来は熱帯に生きるバナナやワニを育てている。バナナとワニはそれぞれ独立した単語であって、バナナワニなるものは存在しない。頭ではその現実をわかっているのに、僕の口からは虚構があふれる。「見た目は普通のワニだ。しかし魂の部分ではどうしようもなくバナナワニなんだ。彼らはバナナのたっぷり入っているバナナ穴を見つけると、入らずにいられない」「なるほど。それで、穴の中でバナナを食らいつくすわけね」「もちろん。バナナは食べられるためにあるのだから」「そして、バナナ穴の中ででっぷり太って、穴から出られなくなる」「そういうことになるだろうね」そこで会話は終わって、返ってくるのは健やかな寝息だけになった。
翌朝、眠気覚ましの朝風呂を浴びる。そして旅館の朝食のお手本のような和定食をいただき、仲居さんに勧められるまま白米をお代わりする。ホテルの看板前で記念写真を撮ってもらって、再び白いレンタカーに乗り込む。今朝は真夏が運転してくれるらしい。サングラスなんてかけてしまって、随分やる気のように見える。
さて今日はどこへ行こうか、という段になっても、彼女が熱川バナナワニ園の名前を出すことは無かった。だから僕は昨晩の会話を夢だと思ったのだった。夢だと思ったし、実際に熱川バナナワニ園へ行ってしまうと、僕の吐いた嘘が明るみに出てしまうのではないかという後ろめたさもあった。あるいは単純に、その日が最高の日曜日ではなかったということなのかもしれない。
僕らは再び国道135号線を南下していた。目指すはペリー来航の地・下田である。途中、河津桜で有名な河津川を横断する。あたたかな陽気ではあるがなにぶん十一月なので、当然桜は咲いていない。「また春にも来たいね」と言った僕の言葉はあまり心がこもっていなかったのか、窓の隙間からカラッとした秋風に飛ばされていった。その後、山道をクネクネと登って尾ヶ崎ウイング駐車場なる展望所で小休止。ヤシの木の向こう、眼下に美しい海岸線。「あそこに行きたい」と彼女が指さす先は白浜である。「どうぞ気の向くままに」どうせそういう旅である。ノープランというプラン。
再び車に乗り込み坂道を下っていくと、白浜が目前に拡がる。コンビニエンスストアの大きな駐車場に車を止め、申し訳程度に飲み物を買って、ビーチへ繰り出す。白い砂漠に透明な波が静かに打ち寄せる。シーズンオフだから人影はまばらである。真夏はどこかで拾った木の枝を振りかざし、波打ち際へ走る。子どものようなはしゃぎぶりを、僕は少し後方から父親のように見守る。彼女は木の枝でもって砂浜に大きな文字を書く。「撮って撮って」と急かすので、僕はスマートフォンを慌てて取り出してシャッターを切る。砂浜に刻まれた真夏と僕の名前が、写真に記録される。「やめなよ恥ずかしい」と言うか言わないかの内に波が文字を消し去った。
お姫様が満足したところで、再び南へ走る。下田はすぐそこだ。道の駅・下田開国みなとで停車。「あれが食べたかったの」と彼女が僕の手を引いて向かったのは、ご当地ハンバーガーショップである。腹の底にホテルの朝食をいまだ感じつつ、しかし僕は異論を唱えずについていく。真夏が注文したのは金目鯛バーガーである。レタスの上に大きな金目鯛のフライ、二種類のチーズ。甘辛いソースがからむ。彼女はアワビを蒸したものは食べられないようだったが、アジや金目鯛のフライは好んで食すようである。揚げてしまえば肉の仲間として分類されるのかもしれない。今後本当にサンドイッチを僕が作るのならば、彼女の好き嫌いは完璧に把握しておく必要がある。
食後は腹ごなしに下田の街を散策する。まずは駅前へ。川を渡り、ロープウェイを尻目にペリーロードを目指す。柳の葉が垂れる川沿いの道。石畳を歩いていく。駅前は閑散としていたが、観光客たちはこちらに吸い寄せられているようだった。ペリーロードの終わりには、特に説明もなく30ポンドカロネード砲なる大砲が鎮座している。大砲を操るフリを写真に収めた後、川に沿って海へ向かうと、そこに錨とペリーの胸像がある。ペリー来航の碑をしげしげと読み、しばし日本史の勉強。
このあたりで僕は時間を気にしはじめていた。というのも、非日常から日常へ帰還する必要があるのだ。簡単に言うとレンタカーを熱海の店舗に返すタイムリミットがあるのだった。ここは伊豆半島のほとんど南端。我々は十九時までに半島の付け根まで戻る必要がある。
そして僕にはもう一か所行きたい場所があった。「運転変わるよ」と言って僕が向かったのは竜宮窟である。到着したのは午後二時ごろ。警備員さんの案内で近くの駐車スペースに白いレンタカーを停める。案内板に従って階段を下りていくと、そこは円形の海食洞である。洞窟の屋根部分には大きな天窓。見上げれば青い空。火山礫が美しく層をなした壁に囲まれている。向かい側には横穴がぽっかり口を開けていて、そこから静かに海水が流れ込んでいる。波音が壁に反響する。浦島太郎の訪れた竜宮城と何か関係があるのか定かではないが、竜宮窟というネーミングはセンスがいい。音に耳を澄ませていると、まるで海の底にいるかのような心持になる。
他の観光客が増えてきたので、僕らは記念写真を存分に撮ってから、一度洞窟の外に出る。今度は洞窟上部の遊歩道へ向かう。ほのかに汗をにじませながら階段を登り、今度は上から竜宮窟を見下ろす。穴は上から見るとハートの形をしている。というのを僕はあらかじめ下調べをして知っていて、ひとまずの旅の締めくくりとして良い場所だろうと思ったのだった。
来た道を戻るのはつまらないから、ということで帰路は伊豆半島の背骨部分、山の中を走る国道414号を選ぶ。運転手は継続して僕。往路で出会った河津川を越えてしばらく進むと、高度を稼ぐための螺旋状の道路に出る。河津七滝ループ橋である。運転している方はなかなか楽しいが、真夏は「目が回っちゃいそう」と困り顔である。ぐるぐる回って、西を向くたびに夕日がまぶしい。その後しばらく山道を駆けあがり、道の駅・天城越えでトイレ休憩と相成る。日は随分傾いていて、山の空気が我々を冷やす。
熱海へ戻る前に、夕食をとる時間はありそうだった。「ハンバーグが食べたい」と彼女は言う。昼にハンバーガーを食べはしたが、あれは魚のフライだった。調べてみると、静岡で有名なハンバーグ屋がこの先の函南にあった。再び車を走らせる。お互いに少し疲れが見え始め、口数が少なくなる。それは気まずい沈黙ではない。少なくとも僕はそう思っていた。しかし元気があるに越したことは無いから、できるだけ速やかにハンバーグの肉汁を摂取する必要がある。
山道から街中に入るのと時を同じくして、日は沈んでしまう。街を夜が覆い、次々と家屋に灯がともる。計算されたかのように、ちょうど十七時に目的地へたどり着く。世間一般の夕食時にはやや早いが、我々は腹ペコである。金目鯛バーガーを食したのがはるか昔のことのように感ぜられる。
車から降りてうんと体を伸ばし、意気揚々店内へ。注文からしばらくして、牛肉百パーセントのげんこつハンバーグが厨房の炭に焼かれ、熱々の鉄板に乗って登場する。紙エプロンで衣服をガードするよう指示を受け、僕らは素直に従う。まぁ果敢に抗う者はいないであろう。スタッフが目の前で肉の塊を半分にカットし、断面を鉄板に押し付けて仕上げの焼き入れを行う。濛々と立ち込める香ばしい煙。ジューという音が、我々のグーと鳴る腹の音をかき消す。
高鳴る鼓動を抑え、あくまで行儀のよいカップルを装って、スタッフが厨房へ去るのを待つ。満を持してナイフとフォークを装備し、ハンバーグへ向き合う。あふれる肉汁に口内を焼かれようと、食べることをやめない。やめられない。我々はほとんど会話を交わすことなくそのげんこつを平らげた。
ここから熱海へ戻るには、もう一山越えなければならない。「疲れたなら寝てていいよ」ハンドルを握って僕は言う。「お言葉に甘えて」彼女はそう言って、宣言通り目を閉じた。再び街から離れて山道へ。天城越えで買った缶コーヒーの残りに口をつける。
上りが終わって、九十九折の山道を下っていく。標識を見るとあたみ梅ラインというらしい。熱海が近づいているせいか、交通量が多くなる。運転手に注意を促す振動がタイヤから我々に伝わる。車内のBGMは真夏のスマートフォンから選曲されていた。白いレンタカーの中で、日本のロックバンドが青い車について歌う。曲に合わせて、不意に隣から口笛の音がする。「起きたんだ。もうすぐだよ」という僕の声は彼女に届かない。「この曲ね」彼女は言う。「小学生の頃、友達と田舎道を自転車で走りながら、口笛の練習をしたんだ」彼女は東北地方の出身だ。米どころだから、きっと一面に田んぼが広がっていて、その向こうには山が見えるのだ。自転車をこぎながら、懸命に口笛の練習をする小学生の彼女とその友達を想像する。しきりに『海へ行こう』という歌詞は、今の状況にぴったりな気がした。「青春の曲なんだね」「そうかも」僕は彼女の口笛の音に耳を澄ませる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます