3-4.
「たとえばもし、『殿下』がいなくなったら、誰が廃墟団地の人たちの生活をフォローできる?」
神妙な顔になったみちるの質問を、アニエロは鼻で笑った。
「知らないね。俺たちヴェントーラ一味が世話する義理はない。廃墟団地の連中も、俺も、この国じゃよそ者なんだ。よそ者同士で傷を舐め合っても、金にならない」
アニエロの言葉はきついが、それに対して反論できる言葉をみちるは持っていない。
アニエロも、廃墟団地の住民も、この国からすればよそ者扱いなのは間違いない。
「『殿下』が廃墟団地の住民を支配しているのは、支援と搾取の双方を成り立たせたからだ。だからヴェントーラ一味は、この街の実権を握れない」
言葉に詰まったみちるへ助け舟を出したのは、梟だ。
「俺たちと、お前、そしてお前のボスが向き合う敵は、同じだ」
敵が同じだ、と言われたアニエロは、呆れたように笑い、またチョコレートを頬張る。甘い匂いがその場に広がるが、空気は重い。
「俺は、廃墟団地の連中を仲間にしたいなんて一ミリも思ってない」
アニエロの青い眼は、虚空を睨んでいる。
怒りや苛立ちの混じったその眼が見つめているのは、思うようにならない現実に対してだろうか。
「廃墟団地の連中の数も、だいぶ減ってきた。『殿下』が搾取し続けた結果だよ。今じゃ、移民やホームレスどもは、廃墟団地に近寄らない。廃墟団地の住民を使ったビジネスは、そのうち限界が来る」
アニエロはそう言ってから、口元を笑う形に歪めた。
「俺はそれを待ってる」
アニエロがテーブルの上のチョコレートを二、三個まとめて掴み取る。そしてジャグリングを始めた。チョコレートは器用に、順繰りにアニエロの掌で転がされて宙を舞う。
「今は種まきの時期だ、ってボスは言った。種をまいて、しっかり育ったら、刈り取りをするんだって」
アニエロの眼は、宙を舞うチョコレート越しにみちると梟を見つめていた。
意志の強い黒い眼と、ずっとこちらを観察している灰色の眼。二人の性格の差が出ている。
くすくすと笑い声を漏らしたのは、みちるの方だった。
黒い眼を細め、笑っている。――こちらも器用な、作り笑いで。
「良かった。ちゃんと種まきはしてたんだ」
まるでわかっていました、と言わんばかりの話しぶりに、アニエロの顔が曇る。
「何もしないで、ただ歓楽街の片隅で生きているわけじゃなくて良かった。さすがは、アニエロ・シアーノ」
嬉しそうな顔でそう言うと、みちるはテーブルの上のチョコレートに手を伸ばし、食べ始める。
感情的になったと思えば、突然冷静になる。この女は、どこまでもマイペースだ。
「……何を考えてる」
悟り澄ましたかのような、みちるの態度を見たアニエロの声は、少し震えていた。
そして、この問いに答えたのは、梟だった。
「この街は『殿下』がいなくなった後、混乱する。厄介なことに『殿下』は、表裏の両方の世界で、重鎮。不在となった時、事態を丸く収める存在が必要になる」
アニエロが指摘した、難しい言い回し。
この男のこの喋り方は、もうどうやっても直らないのだろうな、とアニエロは頭の片隅で面白がっていた。
「だから、ヨーロッパで名の知れたヴェントーラ一味の一員で、この街で根を張って生きているアニエロ・シアーノという存在が、『殿下』の後釜に相応しいと思われてほしい」
みちるの口から出たその言葉は、アニエロを悪い気分にさせなかった。
ジャグリングする手を止め、掌にチョコレートを収める。
「だから、俺にどうしろって?」
今日何度目かの大きい溜め息をつき、疲れた顔でアニエロはみちるに尋ねる。
「廃墟団地出身の女の子たちをもっと助けて、恩を売る。そうすれば、あなたが頼りになる存在だって、名前が広がる。その口コミが、あなたの武器になる」
みちるの提案は、アニエロが予想していたより気軽なものだった。
「これなら別に、嫌じゃないでしょ?」
「……ま、悪い気はしない」
ダメ押しするように、みちるに言われて、アニエロは腕を組んで頷いてしまう。
「ただ、あなたの存在感が増すごとに、『殿下』が何かしてくる可能性が高くなる。だから、対策はしておいた方がいい」
たとえ相手が予想できていても、丸腰でドアを開けるような真似はするな、とみちるは暗に伝えてきている。
「嫌だなぁ。俺、荒っぽいことは好きじゃないんだよな」
アニエロは頭を掻いて、壁際の本棚にちらりと視線を遣り、その視線をテーブルに向けた。
「そうか? 部屋の中にいろいろ隠してあるのに」
梟はとても不思議そうな顔で、アニエロを見た。
「……は?」
「そうなの?」
アニエロが一瞬反応に困ってから声を上げるのと同時に、みちるがびっくりした様子で隣にいる梟を見る。
「床を歩いた時、音が違う場所があるだろ。特に玄関近く。そこに何か隠している」
無表情に戻った梟が、煙草を燻らせながら指摘すると、アニエロの顔色はみるみる変わる。
「それと、本棚。奥行きと本のサイズが合っていない。もちろん、本を二段にぎっちり詰め込んだ可能性もあるが、お前の
梟の指は、壁際の本棚を指差す。
「なーんでそれに気づいたのかな、それ」
アニエロは頭を抱え、肩を震わせてから、苦笑いを浮かべた。
「俺が武器を隠すなら、そうする」
梟はテーブルの上の灰皿に灰を振り落としながら答えた。
「こいつ、殺し屋か何か?」
確信を持って、武器の隠し場所を言い当てた梟から目を逸らしたアニエロは、軽口のつもりでみちるに尋ねる。
「いいえ、元軍人。狙撃がとても得意な」
みちるはにっこりと笑って返してきた。
それは殺し屋と同義ではないか、とアニエロは思うが、もはや突っ込めなかった。
「最初にこの部屋へ入った時から、床の異音と本棚の不自然さは、気になっていた」
梟がぼそりと言うのを聞き、アニエロはぼんやりと思い出す。
一昨日、初めてこの部屋に踏み込んできたこの男が、煙草をふかしながら部屋をじっくり見回していたことを。
ぞわっと鳥肌が立ったが、それに気づかれぬよう、なんとか薄笑いで誤魔化した。
「それはさ、俺がこの国に行くって決まった時に、ボスが渡してくれたものなんだけど、使い方なんてわからない代物だから」
アニエロは申し訳なさそうな顔で言うと、テーブルの上のチョコレートを手に取り、頬張る。
「おかしいな。お前が本国にいた頃は、ヴェントーラ一味の若手の中では一番の『狂犬』だったと聞いたが」
アニエロの一挙手一投足をつぶさに見つめていた梟は、灰皿に煙草をゆっくりと押し付けて消す。
「……それ、誰から聞いた?」
アニエロはチョコレートを頬張っていた口の動きを止め、固まる。それから、強張った顔で尋ねた。
「ボス・ヴェントーラ。金塊を渡された時に、お前の話が出た」
梟の灰色の眼は、アニエロの動揺を見透かしている。
「ま、まぁ、昔の話だよ。今は飼い慣らされて大人しくなったから」
アニエロの声は裏返っている。まったく取り繕えていなかった。
「狂犬だったことは否定しないんだ」
みちるは、アニエロが『狂犬』と呼ばれていたことを聞いていなかったらしく、目を丸くしている。
「そりゃ、誰にだって、やんちゃしてた頃ってあるだろ?」
「うーん、私は反抗期なかったから」
みちるは「誰にでもやんちゃする頃がある」と同意を求めてきたアニエロに、首を傾げている。
「戦争で前線にいたから、俺にそんな余裕はなかった」
梟は煙草をふかしながら、さらりと重い事情をぶつけてくる。
「本当に極端だね、あんたら」
アニエロの目の前にいる二人は、一体どこに接点があったのかと、不思議に思うほどだ。
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