ほろ酔いの酔いざまし
清瀬 六朗
第1話 酔いざまし
蒲沢には大企業蒲沢総工の大きい工場があるので、ふだんはそこで働く人たちが往来している。
しかし新年の今日はその工場の大部分が休みだ。蒲沢の動物園も元日は休みで、初詣客が押し寄せる神社仏閣もない。
だから、元日はかえって人が少なくなるのだ。
その蒲沢駅前のマルガリタコーヒー店の二階、駅前広場が見渡せる窓際の席に、
内村修は大きいアメリカンコーヒーを、蟹江登一はカフェオレを飲んでいる。
二人とも蒲沢に住む作家
空は晴れている。日は暮れてしまったが、まだ空の高いところは青空のまま残っている。
「いや、疲れたね」
若い蟹江登一は、恥ずかしそうに、あいまいに笑った。
グレーややベージュのチェックのツイードのジャケットに、茶色の細身のネクタイをしている。
蟹江登一は、年齢のわりには年を経た経験豊かな男という顔立ちだが、こうやって笑うと本来の若さがにじみ出る。
「疲れたね」に答えないのは、疲れていないからではなく、木庭晴恵という有名作家の家に招かれて、日本文学研究の
内村修がきく。
「蟹江君は、今日は、どういう関係で呼ばれたの?」
「あ」
と短く反応してから、
「ぼく、
「ああ」
さっきまで作家木庭晴恵の家でこの二人といっしょだった寺中
ここから二駅のところにある
蟹江登一もその大学で非常勤講師として教えているのだろう。
「木庭晴恵さんが、寺中先生に、有望な新人を連れて来てほしい、っておっしゃったそうで、寺中先生が、定職のないぼくに声をかけてくださって」
内村修がふんと軽く笑う。
「木庭晴恵、今日集まる人数、増やしたかったもんだから」
軽くアメリカンコーヒーを飲んでから、続ける。
「でも、それで蟹江君が来てくれて、助かったよ」
「人数増やしたい、って?」
「人数合わせ」のために呼ばれた、と言われて、蟹江登一はプライドを傷つけられた?
そうでもなさそうだ、と、内村修は判断する。
「だから、あの
「ああ」
と蟹江登一はうなずく。
「原稿を催促されるからですね」
若いのに、よくわかっている。
「そう」
内村修もうなずいた。
「木庭晴恵初の歴史小説、って、前々から宣伝してますもんね」
「七年前かな。大正の米騒動の話を書く、って言い始めたのは」
と内村修は微笑を浮かべる。
「おそらく、永遠に書けまいよ。木庭晴恵には」
蟹江登一は、カップに手をかけるのをやめて、うつむいて、黙った。
受け流すかどうか、考えていたのだろう。
けっきょく、困惑したように
「どういうことです?」
と問い返す。
「困惑したように」問い返したけれど。
ほんとうは、そう困惑もしていないだろう、と内村修は思う。
だから、正直に言うことにした。
「木庭晴恵には、歴史小説を書くだけの構成力、もうないから」
言って、アメリカンコーヒーで唇を湿らせる。
「もともと構成力のない作家だった。ご都合主義、伏線を回収しない、てきとうに投げ出す。それは最初に書いた『
内村修は、ふん、と鼻を鳴らす。
「まあ」
と蟹江登一が言った。
「ぼくはあの人の熱心な読者じゃありませんけど、その『双輪』とか、二作めの『テイク・イット・イージー』とかは、大学生のころに読んで、読んだあとに性欲が一段も二段も上がるような興奮がありましたよね、文章に」
その表現に、内村修が苦笑する。
苦笑でも笑ったには違いない。
「ま、ベストセラーになった『あなたの
そう言って、内村修は顔を上げた。
「でも、それで勢いに任せて書く、っていうのができなくなって、気がついてみると、それを補うものが何もなかった。だから、そのあともたくさん書いてるけど、ぜんぶ抜け殻みたいなもの」
と、内村修は、唇を閉じ、息をついた。
「いやぁ」
と、若手作家の蟹江登一が、困ったような顔で言う。
「まあ、たしかに、『あなたの頬』のあと、続篇も書いたし、それも三本ほど? それと、これまで扱ったことのないような、傾向の違う作品も書いたし、最初のころに書いてたような犯罪小説、っていうか、犯罪がらみの小説にも戻ろうとしたりもしたけど、鳴かず飛ばずでしたね」
「熱心な読者ではない」というわりには、よく読んでいる。
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