第8話
「いや、それもう日焼けっていうか、ほぼ腫れてんじゃん!? うち分かるんだろ!? 来ればいいじゃん!?」
「だって――」
たん、たん、と雫が落ちて、その音の数だけ、郷の立つアスファルトに小さな濃い色が点々と散った。
「だって、どんな顔していいか分からない……! 私のお母さんが、赤坂さんに……!」
「別に普通の顔してればいいだろ。お前があたしになにしたわけでもないんだから」
夕立が降り注いできた。
郷の涙の跡があっという間に大粒の染みに埋もれていく。
「とりあえず、こっち来いよ。あたしんち汚いけどさ」
家に入れてやろうと思って、あたしは棒立ちの郷に歩み寄った。
郷の隣じゃなくて、真ん前に立った時、少しだけめまいがした。
あの女の人からこんなやつが生まれるのかと思うくらい、頼りなくて、ほっそりして、青白くて、卵の殻でできたような皮膚をしてる。
ほんの触れるくらいの力で押したら崩れて、壊れてしまうんじゃないか。
短い袖から出た、郷の腕に触れる。雨に濡れた肌は冷たくて柔らかい。その奥は温かいのに薄くて硬い。
その感触に驚いて、あたしの動きが止まった。
目の前に、あたしを見上げる郷の顔。涙と雨が混じっていく。
「悪いと思ってるなら――」
どうしてそんなことを言ったのかは自分でも分からない。
そういえば熱があったんだ。あたしはちょっとおかしくなってた。
「――慰めてよ」
その言葉があたしの気持ちを正しく表していたかと言われれば、自信はない。
もうちょっとちゃんと伝えないとな、と思った時、
キスされた。
「……なんで?」
「……赤坂さん、今、凄い目してるよ。けだものみたい」
もう一度キスされた。今度は郷は唇を開いてた。
口と口が触れ合って、さらにお互いの中にほんのちょっとずつだけ滑り込んだ粘膜が絡み合った時、ばきんと頭の裏側で音がした。
次の瞬間には、あたしは郷の腕をつかんで、アパートの階段を速足で上がってた。
郷は無言でついてくる。
その時、口の中の残り香に気づいた。
タバコのにおいだ。こいつ、優等生だと思ってたのに。あたしは中学で卒業したのにな。
しかし、あたしは人生最初のキスも二度目のキスもタバコの味だ。まあ、いいんだけどさ、別に。
あれ。
タバコだけじゃない。血が混じったにおいだ。ファーストキスの時と、同じにおい。
あの時よりずっとかすかだけど、確かにそっくりだ。血とタバコ。口の中でも切ってるのか、こいつ。
いや、ていうか、タバコのフレーバーが、まったく同じだ。独特のクセのあるひねたにおい。ユズ先輩がかっこつけて吸ってる、外国のやつ。
あたしの足が止まった。
「お前……?」
「……なに?」
「ユズさんの、六、……七股の一人かよ」
あたしが顔を知らない何人かのうちの一人か。いや、新顔ってのがこいつか。
道理で今日、屋上に来たわけだ。勘じゃない。ただユズ先輩に心当たりを聞いて、あたしがカギをもらったと知って屋上に来ただけだ。
郷が目を見開いた。
あたしの手を振り切って、階段を一段飛ばしで降り始める。
「待て、おい!」
夕立は、さっきより激しくなってた。その中に郷が飛び出していく。
「別に逃げなくてもいいだろ、あたしは別に、おいって!」
はっきり言って郷は足が遅い。あたしはすぐに追いついた。
もう一度手を引っ張っても、今度は郷が動こうとしない。
これは、家には連れて行けなさそうだ。
「分かった、分かったよ。いやなんにも分かってないけど、とりあえず分かった。あ、あそこ」
うちの近くには、板一枚ずつで薄っぺらい壁と屋根が作られてる、小屋みたいなバス停がある。
中にはベンチがあるので、座ってる人を見たことないそこに、郷を引きずって行って座らせた。
「別に、逃げることないだろ。……確かに、ちょっとびっくりしたけど」
「だって」
「だって?」
「ばかだってことがばれたくない」
「あん?」
「宇都宮先輩が、あなたと仲がいいっていうから……先輩と親しくなれば、あなたとの接点が増えるって言われて、それで」
「……あたしとの接点? のため?」
「そう」
「それでユズさんの彼女Aになってキスされてりゃ、世話ないな。あ、Aじゃなくて、えーと、Gか」
「だって」
「だって?」
「そうしたら赤坂さんの居場所を教えてくれるって言うから。なのに、いないんだもん……!」
屋根のおかげで乾いている停留所の地面に、さっきと同じように郷の目から雫が落ちる。
「……それは、悪かった」 ……のか?
「すぐ口をゆすいだし、何度もうがいしたのに」
「ああ、タバコって髪や服ににおいが染みつくんだよ。舌や歯にもな。……で、改めて言うんだけど」
「……なに?」
あたしは首を傾けて言う。
「ばかじゃねえの、お前。勉強ができるあほって始末に負えねえな」
「分かってる、自分で」
さらに泣き出すかと思ったけど、郷は唇を嚙んでこらえたみたいだった。
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