三 かりんとう区域

 定時上がりの予定が、だいぶ過ぎてしまった。

 足早に駅前の商店街をゆく。この時間になると灯りがついているのはチェーンの牛丼屋とさいきんフランチャイズに加盟した元酒屋のコンビニ、それから中の様子は見えないがたまにカラオケの音が漏れているスナックくらいで、とうぜん人の通りもまばら。昔はもっと栄えてた気がするが、寂れたものだ。

 ……そういえば酒屋のところから裏路地を抜けると近道だったか。

 二世帯住宅に建て替えこそしたものの、俺は結婚後もそのまま実家に住んでいる。栄えていた当時――少しでも早く夕飯にありつきたくて急ぎまくっていた学生時代――を思い出しながら、撤去するのを忘れてるらしい古い酒屋の看板をコーナーにして曲がった。

 あとはやけにカーブの多い、昔ながらの住宅地を抜ければ、我が家に着く、はずだった。

「はあ……?」

 地面にチンアナゴが生えている。

 自分でもどうかとは思うが、咄嗟に出てきた感想はそれだった。反射的に振り向いて、曲がってきた角がないことに頭が真っ白になる。家も店も、どこにも建物はなく、まっさらなコンクリートの中からあちこち、チンアナゴがニョキリと顔を出しているのだ。

 いや、そんなわけ、ないだろう。

 落ち着け、落ち着け。


 身をかがめてよく見てみると、それはチンアナゴなどではなかった。そも、生物ですらない。

 ムラ気のある茶色い表面。緩やかな凹凸。きらきら光るのはザラメだ。これは……

「かりんとう、なのか?」

「さよう、さよう――」

「うわあッ!」

 前から突然聞こえてきた声に、尻もちをついてしまう。そうして初めて、地面がコンクリートではなくきめ細やかな砂であることに気づく。いや、今はそれより。

「ようこそ、かりんとう区域へ」

 座った俺の肩ほどの背丈がある、ひょろ長い手足を生やしたかりんとうが、こちらへ向けて紳士的なお辞儀をしていた。

 顔はない。しかしたしかに微笑んだとわかる仕草で、俺に周囲を見てみるよう促す。

「かりんとう……区域」

「さよう。この通りですからね。なに、あなたもお気に入りの物件があるのでしたら、お買い上げいただいてもけっこう。とくにここらの塔のザラメ奴隷なんかは働き者でたいへんオススメですよ――ほれ、お客さまがいらしてるんだ、もっと朗らかにせんか」

 淀みなく喋り続けるかりんとうの紳士につられてテキパキと働くザラメを見ていると、いきなり叱責が飛んだ。

 こちらの背筋までピンと伸びる。

 その持ち上げた俺自身の頭より、かりんとうの塔のてっぺんはずっと高い位置にあった。いつのまに伸びた? それとも、俺が縮んだのか?

 もはや言葉も出ない。

「あちらのほうに見えるのは野菜の同居人つきですね。最近は高騰しているもので、少し値が張りますし、ザラメ奴隷ほど言うことは聞きませんが、うまく慣らせばよく繁殖しますよ。それから調味料シリーズは――」

 かりんとうの紳士はこちらを見下ろし、次から次へとかりんとうの物件を勧めてくる。それはもう、にこやかに。

「買う、買います! ザラメのでいいですってば!」

 急に恐ろしいような気持ちになって、財布からお札を適当に数枚掴み、かりんとうに押しつける。

 返事も待たず、ただ勢いにまかせて踵を返す。

 わん、と寂れた商店街を抜ける駅前の喧騒が遠く聞こえてきて、いつのまにか俺は、先ほどたしかに曲がった酒屋の角に立ち尽くしていた。

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