第6話 館の主人

 どれほど馬で駆けたか、不気味なほど静まり返った夜の山道を抜け漸く辿り着いたのは噂通り崩れかけた廃墟だった。ディランは馬から降りると錆びた鉄格子の門を開き、先に入れと促すのでおっかなびっくりで門を潜る。彼は二頭が庭に入ると門を閉め、手早く栗毛の馬だけ馬具を外した。

「バレット、そいつを案内してやれ」

 返事をする様に、どこからか犬の声が……いや、馬が犬の声で鳴いた?

 そうとしか聞こえなかった自分の認識に戸惑っていると、青鹿毛の馬の姿が蜃気楼の様に溶け、瞬く間に人間の膝ぐらいの体高をした黒と白の毛玉……犬種で言うと恐らくボーダーコリーの姿に変わる。しかし、上半身はしっかりと犬の姿をしているが、下半身に向かうにつれて段々と幽鬼の様に色と輪郭が靄に包まれ、狐みたいな二色に分かれた太い尾の先端に至っては銀色に揺らぎ霞の様に宙へ溶けている。

「な、なんだ? 馬から犬の様な、何かに……?」

 何だか、妙だ。その生き物に視線というか、焦点を合わせようとするとますます輪郭が不明瞭にぼやけていく気がする。長時間見つめていると酔いそうだ。

「バレットはシェイプシフターという魔物だ。そいつは——まあ色々あって特殊な個体なんだが、正体を失っているせいで視覚情報の処理に過剰な負荷をかける。要するに、耐性の無い者が長時間目を合わせると倒れるぞ」

 恐ろしい言葉に慌てて目を逸らした。目が合っただけで被害を及ぼす危険な魔物とは——いや待て、そもそもディランがそのような魔物を平然と使役しているのは問題にならないのだろうのか。ギルドの何らかの規約に違反しないのか等と考えていると、彼の足元に座っていた魔物がこちらに向かって歩み寄り、足元を嗅ぎ始めた。

しばらく鼻を鳴らした後、じっと見つめては片耳を上げ、首を傾げている。逡巡はしたがどうしても見た目の愛らしさが勝ち、つい撫でてみたくなって思わず手を伸ばせば、丸い額とふわふわで肌触りのいい毛と柔らかな耳の感触がした。うん。間違いなく犬だ。感触は。

「ちゃんと実体がある……という事は、幻影だけでなく変化もしているのか?」

「両方使える。例えば火を吹く竜に化けるなら体は竜に変化しているから実体があるが、口から出す火は幻影で補完するといった感じだ。こいつらは何にでも化けるから足に使える。一匹使い魔にしておくと便利だぞ。言葉を話せないから人の姿は不得手だが」

 主人の元へ駆け出して行ったバレットは干し肉を一欠片貰い、霞の尾を千切れんばかりに振っている。ディランが魔法で馬具を宙に浮かべると使い魔はもう一度、今度は鞍が無い状態で先程の青鹿毛の馬の姿に変身した。そのまま鞍をバレットの背に乗せると、警戒して耳を立てている栗毛の馬を促し、二頭はそのまま離れた馬小屋へと連れ立って行く。

 文字通り化かされたような光景に思考停止していると、お前はこっち、と手招きされ荒れ果てた庭を超えると荘厳な玄関扉が姿を現す。どうするのかとディランを見ると彼はノックもせずにいきなり両扉を開け放ち、何年も人が立ち入らなかったためか雪の様に積もった埃が舞うのも気にせず声を張り上げた。

「ブラム! 客人だ。間違っても手を出すなよ」

「失礼だね。まるで我輩が見境なく人間を襲うかのように……」

「人の事を見境なく襲ったのは忘れたか」

「はて、そうだったかな」

 渋い声だけが怪しく館の広間に響いた、と思ったら燭台の蝋燭がひとりでに炎を灯す。いったいどういう事だと目を見張ると、埃が積もっていたはずの広間が一瞬で真新しく綺麗になり、あれよあれよと調度品が輝きを取り戻した。壁に掛けられた大きな肖像画の中でドレスを着て上品に微笑んでいるのは館の夫人だろうか。

 広間の奥、吹き抜けに繋がる二方向階段で、月明りを背にして佇む、先程までは確実にそこにいなかったはずの、長身の人影が見えた。

「——な、これは、いったい……私は夢を見ているのか」

「ふむ、正確には夢から覚めたかな。なぜなら、つい先程まで人避けの幻覚を見ていたんだからね」

 足音も立てず、優雅に階段を下りてきたのは白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、片眼鏡の奥から赤い瞳が覗く老齢の男性だ。ディランは息を吹き返したかの様な館の見違える光景に驚く素振りも見せず、三つ揃えの燕尾服を纏う紳士を睨み付けている。

「ごきげんよう、今夜も素晴らしい夜だ。こんな日は夜露を濡らす薔薇の世話に勤しんでは——」

「ブラム、正直に白状しろ。攫った街の住人の所在を吐け」

「何? ちょっと待ちたまえ。身に覚えがない」

 登場時の厳かな雰囲気とは打って変わって、ぱちくりと瞬きをする紳士にディランは尋問の様に言葉を募らせる。

「我慢できずに血を吸ったんじゃないのか」

「まさか。私が吸血しないのは君が一番よく知っているだろう」

 突如繰り広げられる会話に、一拍遅れて素っ頓狂な声を上げた。

「はっ⁉ ディラン、この紳士は本当に吸血鬼なのか⁉」

「いかにも。我輩こそ静寂で幻想なる夜の眷属、ブラム・フランク・クリストファー卿だ。よろしくね」

 ブラム卿は髭を撫でつけつつ鷹揚に頷いた。

「言ったろ? 会わせてやるって」

「では、行方不明事件の犯人は——」

「先ほど否定しただろう。心外だな。吸血以外にも食事方法はあるのだよ」

「よし、本当に違うようだな」

「本気で疑っていたのかね⁉」

 心外だなと嘆く紳士を置いて、じゃあ問題ないとディランは息を吐いた。

「各証言によると、被害者が消えた痕跡は全て濡れていたらしい。どうせ水棲魔物の仕業だろう」

「なら最初から君達の管轄じゃないか。私を疑う必要ないだろう。巫女君は何をしているんだね」

「連日会議に呼び出されてここしばらく連絡が取れないんだ。だから俺も気づかなかった」

「番犬も、鎖に繋がれると世知辛いものだね」

 ちょっと待て、巫女⁉ 我が国の僧侶を束ねる水の巫女の事か⁉ なぜ民間人が——

「混乱してるところ悪いが、——あ、こいつはレオンと言う。事情があるんだ。この問題は一刻も早く解決しなきゃならない」

「ついでで紹介するな」

「レオンくんだね、ついでによろしく。吸血鬼伝説が広まるとちょっと面倒な事になるからね。我輩のため、懸命に働いてくれたまえ」

「だからついでによろしくではない、巫女の事をなぜ——」

「お前のためじゃないし、俺達がここを拠点にしてる以上人が来るとまずいだろうが」

「もてなしは得意なんだがね」

 冗談めかした声にそういう問題じゃないと彼は吐き捨て、広間の奥にある大人が両手で抱える程の大きさの水盆に向かっていく。台や足には豪華な装飾が施され、様々な種類の鮮やかな花が水面に浮かび、蝋燭の薄明かりに照らされていた。その水面を掌でバシャバシャと無遠慮に叩き、ディランは水盆に向かって何やら呼びかけている。

「——ウンディーネ、いるか?」

「何ですかこんな夜中に」

 水底の奥から淡い光を発し、広前に聞き覚えのある女性の声が響いた。

「ウンディーネ様⁉ まさか、巫女の側近では——」

「恐らく水棲魔物が悪さしてる。そっちで居場所の検討つけられないか?」

「まぁ——ふふ、ディラン、本当に王子のお世話を? 巫女様の予言通りね」

「大方そう仕向けられたんだろう。そうに決まってる。いいから場所を教えてくれ。一掃しないとまずい」

「そうですねぇ……ではわかったら連絡します。近日中にでも……」

 欠伸交じりの笑い声を残し、水面の光は静かに消えた。ディランはこいつ絶対眠いだけだろと悪態を吐く。一体どういう事だと私の訴える視線を見て、そろそろ説明してあげなよとブラム卿が進言した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る