空飛ぶペンギン、月光に輝く

@tetsu400

第1話 氷の上の夢想家

深い藍色の闇が南極大陸を包み込む季節。他のペンギンたちが眠りにつく頃、ルナは今夜も密かに巣を抜け出していた。


「また、あの子ね」


見張り役のペンギンたちが、あきれたような、しかし優しい目で彼女を見送る。若いコウテイペンギンの夜な夜なの散歩は、もはやコロニーの中では公然の秘密となっていた。


ルナは慣れた足取りで氷の上をトコトコ歩く。月明かりに照らされた氷原は、まるで巨大な鏡のように空を映していた。時折、氷の表面に刻まれた細かな亀裂が、夜空の星座のように輝いて見える。


「きっと、あの向こうに……」


ルナは首を持ち上げ、オーロラの揺らめく空を見上げた。祖父から聞いた古い伝説は、彼女の心の中で生き続けていた。かつてペンギンたちは空を飛んでいた——その物語は、彼女にとって枕元のおとぎ話以上の意味を持っていた。


「ルナ」


突然、背後から声がかかる。そこには親友のアズレウスが心配そうな表情で立っていた。


「また一人で来てたの? 明日は狩りの儀式に参加するんでしょう」


「大丈夫よ。すぐに戻るわ」


ルナは軽く返事をしたが、視線は依然として空から離れない。アズレウスは諦めたように溜息をつき、親友の隣に並んで座った。


「ねぇ、アズレウス。あなたは思わない? 私たちの翼って、本当は……」


「ルナ」アズレウスは優しくも厳しい口調で遮った。「その話はもう何度も……」


「でも、祖父様から聞いた話は本当よ。この氷の下に、ブルーオーロラストーンが眠っているの。かつてのペンギンたちは、その力で空を飛んでいた。きっと、私たちにもその可能性が——」


アズレウスは黙ってルナの言葉を聞いていた。幼い頃から何度となく聞かされたおとぎ話だ。多くのペンギンたちは、そんなルナの「妄想」を冷ややかな目で見ていた。だが、アズレウスだけは違った。


「ねぇ、ルナ。私はあなたの夢を否定したくない。でも、今のコロニーには別の問題があるでしょう?」


アズレウスの言葉に、ルナは初めて空から目を離した。確かに、最近のコロニーには暗い影が忍び寄っていた。年々、氷の張り方が変わってきている。狩場までの距離も以前より遠くなった。産卵期も、少しづつずれてきているような気がする。


「分かっているわ」ルナは静かに答えた。「でも、だからこそ私は信じたいの。この翼には、もっと大きな可能性があるって」


月光が二羽の姿を優しく照らす。アズレウスは友を見つめ、その瞳の奥に確固たる意志を感じていた。


「もし、あなたの言う通りだとして…」アズレウスは慎重に言葉を選んだ。「ブルーオーロラストーンを見つけたところで、どうするつもり? 長老会議では、氷の下を掘り返すことさえ禁じている」


コロニーには古くからの掟がある。氷の下を必要以上に探ることは固く禁じられていた。その理由を詳しく知るペンギンは、もう誰もいない。ただ、祖父から聞いた話の中には、かつて人間たちが石を求めて押し寄せてきていた、という物語があった。


「でも、このまま何もしないわけにはいかないわ」


ルナは氷の上に腰を下ろし、足元をそっと見つめた。そこには、薄く青みがかった色が透けて見える。彼女は小さな声で続けた。


「最近、氷の様子が変わってきているの。お祖父様も気づいているはず。このまま温かくなり続けたら…」


言葉を濁すルナの横顔を、アズレウスは心配そうに見つめた。確かに、今年は例年より氷解の時期が早まっている。普段は見えないはずの深い青が、所々で透けて見えるようになっていた。


「明日の漁の後、キュリさんに会いに行くつもり」


突然の告白に、アズレウスは目を丸くした。キュリは、コロニーでも変わり者として知られる研究熱心なペンギンだ。氷や海流の変化を熱心に観察し、時には長老会議の決定さえも公然と批判することがある。


「キュリさんなら、きっと私の話を聞いてくれるはず。氷の下の秘密についても、何か知っているかもしれない」


「ルナ…」アズレウスは言いかけて、口をつぐんだ。友の決意に満ちた表情を見れば、もう止めることはできないと悟っていた。


その時、二羽の頭上でオーロラが強く明滅した。普段は淡い緑色の光が、突如として鮮やかな青色に変化する。ルナは息を呑んで立ち上がった。


「見て、アズレウス! この光、まるで……」


氷の表面に映るオーロラの光が、不思議な模様を描き出している。まるで、何かの合図のように。ルナの胸の中で、小さな予感が芽生え始めていた。

明日。漁の後で会うキュリは、きっと何か重要なことを教えてくれるはずだ。そう信じて疑わなかった。

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