*第三十一日目 六月十一日(水)

 六月十一日は、こよみの上では「入梅にゅうばい」だ。

 暦に関しては、あまり詳しい方ではない…と言うよりも、まったくうとい。祝・祭日にしても、「今日は何の日?」といった感じで、ほとんど知らない。そんな人間だが、「入梅」の日付だけは知っているのだ。それには、ちょっとした理由わけがある。


 あれは、高校三年の初夏の頃。「梅雨つゆ入り」前で、暑い日が続いていた季節。

「夜通し走って海まで行って、日の出を見ようよ」

 そう誘うのは、小・中学校の時の同級生。小学校に上がった時、席が前後だし、家が近かった事もあり、最初に仲良くなった彼。

 以後は同じクラスになる事もなく、特別な親交はなかったのだが…違う高校に進んだ彼だが、どこで聞きつけたのか、同じ趣味―サイクリング―を持つ事を知り、たびたび一緒に走る仲になっていた。

 今度のお誘いは「ナイト・ラン」。

「千葉県銚子ちょうし市」の突端、「犬吠埼いぬぼうさき」まで。

 丸一日走り続けて往復300キロ以上。体力を持て余し、冒険やチャレンジに飢えていた高校三年生には持って来いだ。

 そんな彼の誘いに乗って、「健全な夜遊び」をするために、夜の八時に家を出た。

 牛ガエルの「モォ~・モォ~」と鳴く声を聞きながら(所々に、車にひかれた牛ガエルの、大きなれき死体が転がっている)、ひと晩走って、目的地である岬に到着。


(最後は、「夜明け」まで残り一時間で、残り30キロ。「平均時速30キロ」で走り続けるのは、意外にシンドかった。それに、白み始めた空に、虫たちが一斉に目を覚ます。最後の区間、彼はゴーグル装着。あいにくこちらは、そのような物は持ち合わせていない。目頭をこすりながら、なんとか“ON TIME”でゴール・イン)。


 でも、あいにくの曇り空。おまけに、雨まで降りだす始末。

「だってしょうがないよ。今日は『入梅にゅうばい』だもん」

 六月十日とおかから、翌十一日にかけての事。そんな経緯から、「入梅」の日付だけは知っているわけだ。


 そしてもう一つ、今でも忘れられない事は…

 その後、岬の突端、雨の吹き込むコンクリート製休憩小屋で、寒さに合羽を着込んで仮眠を取り、帰路にく。

 途中、通りの少ない峠に差し掛かる。ここさえ越えれば、まだ距離はあるが、あとは平坦な道が続くはずだ。

 ちょうど「梅雨の晴れ間」。いったん雨が上がり、太陽が顔を出す。でも今度は、湿気でムシムシし始める。

『何か飲みたいな~』

 しかし、人気ひとけのない峠道。店はおろか、自販機すら無い。

 峠を越えた最初の集落で、喉の渇きをいやすため、小さな食料品店に入る。そこの冷蔵庫に、ひとつだけ、500ml紙パックの「コーヒー牛乳」があった。

 疲れた時は、甘い物が欲しくなるもの。彼もそれを狙っていたはずだ。しかし、すかさず手を伸ばし、一人でそれを飲み干した。

 それ以後は、無言で走り続けた。

 確かに疲れていた。でも、理由はそればかりではない。帰りの道中。ずっと心に引っ掛かっていたのは…

『怒ってるだろうか?』

 そんな思いだった。

『ほかに飲物が無かったわけじゃない。でももし、あの一本しか残っていなかったら、僕はどんな行動に出ただろう?』

「極限」というほどではないにしろ、キツイ状況におちいった時の、人間の…そして自分の行動。

『自分がイヤになるような経験、誰にだってあるだろ?』

 それ以降、今にいたるまで、あの時の光景がフトよみがえっては、後悔の念に襲われるのだ。

『思い込み過ぎだろうか?』

 あのとき彼は、普通の白牛乳を飲んでいた。案外、気にも留めていないかもしれない。

 こちらはただ、自分の邪心に気づき、ひとり勝手に思い悩んでいるだけなのだろうか?

 それに彼は、こちらと違い、とても温厚な人柄だった。

 たぶん…

『あの時、彼がいなかったら…』

 往復300キロ以上の道程みちのり。一人で走り切れていただろうか? もしかしたら、とっくに挫折して、途中で引き返していたかもしれない。

『でもそれは、向こうだって同じはずだ』

 幸い、それを境に不仲になる事もなく、お互い新天地を求めて巣立つ高校卒業まで、「走友」関係は続いた。そして…

『自分がイヤになるような経験、誰にだってあるだろ?』

 以降はそうやって自分をなぐさめ…なかなか出来るものではないが、「同じ思いをしないように」と勤めている。


今朝は、目覚ましの電子音で目を覚ますと風の音。五時にしては薄暗い。

『今日も雨か?』

 そう思い、重いサッシ窓を引き開けると…迫った隣家との間に、わずかに空が臨める。見上げれば、速い速度で流れて行く雲。その後方には、青い空ものぞいている。その感じから、天気は回復方向のようだ。

 少々薄暗く感じたのは、北向きの窓のせい。「ホッ」とひと安心。おおよその支度を整え、朝一番、「六時組」の朝食に食堂へ。


(宿泊客が多いせいか、希望により、三十分毎に食事時間が区切られている)。


 自分の名前が書かれた札を探して席に着く。同じテーブルには、向いにおじさん一人と、右隣りの前後に初老の御夫婦。

「六時から」のはずなのに、三人共、ほぼ食事を終えて、茶をすすりながら談笑中。

 最後に、右前の御主人が細君に軽く目配せ。向かいに座るおじさんに、「金のお札」を渡して先に立ち上がる。

 朝飯の内容は…かなり広い食堂だが、すでに大そうな人数。狭い席割りで気が散るし…それに、散々歩き疲れた翌朝。寝ぼけた頭で、ほとんど憶えていない。

 立ち去り際、Tさんとユキちゃんの名札が目に入る。時刻は「六時半」とある。


 その後、いったん部屋に戻り、歯を磨きながらトイレ。支払いは夕べ済ませてある。

 六時半前後。フロントに鍵を渡して靴を履く。何もしていないが、問題無い程度には乾いている。

 朝日の差す中、向かいの「浄瑠璃寺」に向かい、お参りを済ます。朝日差す雨上がりの境内は、清々すがすがしい空気でいっぱいだ。他には、先ほど向かいに座っていたおじさんのみ。

 お寺を出たすぐ先で、左に入る遍路道。

 このあたり、昨日下って来た山脈のふもと…裾野の辺縁部といった感じで、「愛媛県」の県庁所在地「松山市」に向かっている。

 また、「松山」市内への通勤圏再縁部くらいには位置しているのだろう、いかにもそれっぽい新しい住宅がチラホラ。

 続くお寺までは1キロ弱。間もなく到着。


《第四十七番札所》

熊野山くまのざん 八坂寺やさかじ


  本尊 阿弥陀如来(伝 恵心僧都えしんそうず作)

  開基 役行者えんのぎょうしゃ 小角おづね

  宗派 真言宗醍醐派


 大宝元年(701)、「文武天皇」の勅願により、伊予守「王興公」が創建。

 弘仁六年(815)、「弘法大師」により再興。

 天正年間、「長宗我部」の兵火で焼失。その後も数度火災に遭い、再建を繰り返し現在に至る。


 路肩の狭い街中の左手に、番外霊場「文珠院もんじゅいん 徳盛寺とくせいじ」。

 かつての「八坂寺八十四坊」の一院跡。

 遍路の元祖と云われる「右衛門三郎」の菩提寺で、私宅跡とも云われているらしい。チラリとのぞいて通り過ぎる。

「さて」

 そろそろ社会が動き出す時間。学校へ向かう小学生・ゴミを出す主婦達。田舎と違って自然は無いが、人々の生活の活力が感じられる。都市が近い。

 でも、都市部にける旧道の悩み…車通りが多いのに、道が細く、歩道が無かったり・路肩が狭かったり…電柱や標識をけながら、側溝や道の端スレスレを、前後からやって来る車を気にしながら歩く。

 こういった場所では、険しい山道同様、景色を楽しんでいる余裕が無い。


 裏道を抜け、いったん街並が途切れると、開けた水田地帯。

 そこの遍路道沿いに、番外霊場「青岸山せいがんざん 札始ふだはじめ大師堂」がある。

 先の「右衛門三郎」が、「弘法大師」の後を追い、ここで大師の刻んだ尊像に懺悔。現われぬお大師様の後を追う際、ここに最初に国所姓名を記した紙片を貼り納めたとの云われがあるそうだ。

 晴天の早朝。誰もいない境内けいだいは気持ちが良い。

 本堂裏に、無数の仏像が安置された部屋。そこを見てから先を目指す。


 街並はどんどん深くなる。

 そこを過ぎると広い道に突き当たり、左へ。ガイド・ブックには、この先で左に入る遍路道が記されているが…見落としたのか? そのまま進み、「久谷大橋」で「重信川」を渡る。けっこう大きな橋。風が強いので、被っている帽子が飛ばされそうだ。

 本日は都市部が大半なので、黒のNIKEナイキのキャップ。なぜって…自分にとって、白い手拭いは通行手形。特にイナカでは、家の庭先を抜けて行く事だってある。見慣れない人間が敷地をかすめていたら、誰だって警戒するだろう。それにこの季節、山道などでは蜂にも用心しなくてはならない。


(「頭が黒いものは天敵=熊」とインプットされている事は、前にも述べたはずだ)。


 大体、勘違いしている奴等が多過ぎる。働きもせずにこんな事をしているなんて、「社会のハンパ者」なのだ。

「そこのけそこのけ! お遍路様が通る」くらいに大手を振って歩いて奴なんて、迷惑至極だ。

「社会のハンパ者」は、正しい任侠道にんきょうどうのように「夏は日向を、冬には日陰を」歩くくらいの心構えが必要だ。

 人様に、いらぬ迷惑をかけてはならない。なるべく人目につかぬよう、目立たぬよう、「通らせてもらっている」くらいの気持ちが大切なのだ。

 自ら買って出たように「お接待」を受けに行くなんて、いい加減にしてほしい…という訳で、今日は普段着に近い格好。


 橋から先は、歩道が切れている場所もある。

「松山自動車道」をくぐり、少し進んで、通夜堂のある所で右の路地に入る。

 その先には、通行量の多い県道。向かい側の路地が遍路道なのだろうが…通りが多くて渡れない。

 結局、すぐ左にある、先ほどまで歩いていた道との交差点に向かい、信号で道路を横断。ここから「へんろコース」である路地まで戻るのも馬鹿らしい。そのまま少し進んでから、見当をつけて右に入る。

 目指す路地に出て先に行けば、間もなく次のお寺が見えてきた。


《第四十八番札所》

清滝山せいりゅうざん 西林寺さいりんじ


  本尊 十一面観世音菩薩

  開基 行基菩薩

  宗派 真言宗豊山派


 天平十三年(741)、「行基菩薩」が開創。

 大同二年(807)、「弘法大師」が逗留して秘法を修する。

 寛永年間の火災で焼失。元禄十三年から再建され、天保十四年にほぼ現在の姿となる。


 時刻は八時前。

 境内に入ると、お遍路さんの姿もチラホラ。歩き遍路なのか? 初めて会う、若いおにいさん。今日はこの後、何度か顔を合わせる事になる。

 お参りを済ませ、境内を出た所にある駐車場に、人れした黒猫ちゃん。呼べば誰の所にでも飛んで行く。ここに住みついているのか? 良い場所を見つけたものだ。こういった場所を訪れる人なら、動物虐待をする事もなく、かえって毎日「托鉢」の恩恵にあずかれるのだろう。おっぱいが大きいので、どこかに子猫がいるはずだ。

 石の上に腰掛けていると、膝にスリ寄って来る。撫でてやると、アスファルトに寝転がり、お腹を見せ始める始末。さっきのおにいさんも撫でていったが…『しまった』。立ち去るタイミングをいっしてしまった。

 車に戻って来たおばさん達から、「さきいか」をもらってガッついているすきに、そこを後にする。


 先ほどまでの広い道に出て、「松山」方面を目指して右方向・北向きの方角へ。

 少し行った所で、「へんろマーク」に従い左斜目に延びている道に入る。車の通る、路肩の狭い道。周りは水田で見通しは良いが、歩道の無い道に少々げんなり。先ほどの若者は、少し先を歩いている。

 まだお寺を出たばかりだが、小川を渡った川沿いの小道に腰を降ろし、買い置きの缶コーヒーで小休止。時刻は八時二十分だ。

 ここから数キロ先、次のお寺までの道程は、先ほど記したような理由で…つまり、通りの多い細い道。歩く事だけに集中していたので、良く憶えていない。

 この少し先から、どんどん家並が濃くなる。最後に『こんなトコ、電車が走っているの』といった感じの場所で「伊予鉄道」の踏切を渡る。

 その先で、狭いが通行量の多い道を渡れば、お寺は間もなく。踏切のあたりから一直線上に見えていた、木々の茂る小高い丘に登れば続くお寺。


《第四十九番札所》

西林山さいりんざん 浄土寺じょうどじ


  本尊 釈迦如来(伝 行基菩薩作)

  開基 恵明上人

  宗派 真言宗豊山派


 天平年間(729~748)、「恵明上人」により開基。

 応永四年の兵火で焼失したが、文明十三年(1481)、領主「河野家」により再興。


 お参りを済ませ、山門横のベンチで一息。

 でも次のお寺までは、わずか2キロ弱。

『さっさとそこまで、行ってしまおう』


 先ほど横断して来たふもとの道を右へ。

 その先、「生目神社」の角を右折するのだが、空腹感があったので、ちょうど近くにあったコンビニでパンを買う。


 Y字路を右に入って、「伊予鉄 健康ランド」前を通過。

 ここも、路肩がまったく無い部分があり、歩き難にくい…が、ほど無く「へんろマーク」に従い右へ。

 墓地の間を抜け、住宅地の裏山といった感じの道を少し登れば、間もなく次のお寺。


《第五十番札所》

東山ひがしやま 繁多寺はんたじ


  本尊 薬師如来(伝 行基菩薩作)

  開基 行基菩薩

  宗派 真言宗豊山派


 天平勝宝年間(749~757)、「孝謙天皇」の勅願により開創。

 弘仁年間には「弘法大師」が逗留し、修行されたと云う。

 また、「時宗」の「一遍上人」もここで修学されたと云う。

 荒廃したお寺を、「源頼義」が再興。地元では「ばんたいじ」と呼ばれる。


 ここは少し高台になっているため、見晴らし上々。敷地はそれほど広いわけでわないが、余計な物が無いせいか、広々とした感じ。

 時刻は九時四十分。

 人影まばらな境内に入ると…お参りに訪れていた年配の御夫婦。御主人の方に声を掛けられる。七十二歳だと言うが(父と同年齢だ)、ずい分と若々しく見える。


(こちらも父と同様。はっきり言って最近までやっていた仕事、みな老け込むのが早い。父や母よりも若い人達が、すっかり「おじいちゃん」だ。肉体労働者なんて、そんなものなのだろう。くわばら・くわばら)。


 自称「ゴルフキチ」。こちらを見上げるように、身長・体重をきいてくる。

「いいね~」

 177センチ・73キロの体格は、「ゴルフには、うってつけ」らしい…が、あいにくこちらは、球技のセンスはまったく無い。

「僕もそのくらいの体形だったらな~(もっといけたのに)」


(ただし、レーシング・カートには大き過ぎたが、「モトクロスには最適なサイズ」なのだ)。


「君もやったら」くらいの勢いだったが…悪いが、持っているこだわりの一つに「ゴルフは生涯、絶対にやらない」がある。「接待ゴルフ」程度の奴に薦められると、こう言ってやる事にしている…「あんなもの、男のやるもんじゃないよ」と。

 まあ、仕事にするなら良いだろう。なにしろ、「競技中の事故」で死ぬ事は絶対にない。子供たちがプロ・スポーツ選手になるなら、ゴルフあたりが安心だが…「ちょっと危ないくらいじゃないと本気になれない。ドキドキするくらいじゃないと生きてる気がしない」種族。「そんな事をやるくらいなら、家で寝ていた方がマシ」なのだ。


「いい身だね。僕もそんなだったら…(歩いて回ってみたい)」

 最後にそう言い残して去って行った、感じの良い人だった。


 お参り後は、入口近くにある溜池に面した屋根付きベンチに腰掛ける。中心部方面は見えないが、「松山市」の広がりが見渡せる。

 ここで、先ほど買ったパン。その後、山門前で「アイスクリン」。


(ここのアイスクリンは、少々硬目。各地で食べ歩いているので、違いがわかる。アイスクリンに限らず、この手の物は少し溶け始めたくらいが好み。「かき氷」なら、「シャーベット」状になり始めた頃。ここまで食べた中では、「桂浜」のおばちゃんのヤツ。あれが今のところベスト)。


 アイスクリン売りのおじさんは、「こっちに来てみろ」と「松山城」を示してくれたり、次のお寺までの道を教えてくれたり…「松山」市内に入る前に、もう一つお寺がある。そこから「松山市」を越えて先まで行くかどうか、未だ決めていない。

 しかし、次のお寺で本日六箇所目。今日は「かため打ち」の日だ。

 時刻は十時十分。お寺をあとにする。

 アイスクリン売りのおじさんは、車道で行った方が良いといっていたが…このあたり、「へんろマーク」完備。次のお寺まで2・5キロほどの道程みちのりだが、あっちを右折・こっちを左折、見通しの利かない住宅地を通過して行ったので、印象も薄く、時間も長く感じられた。

 すっかり街中の、通りの多い道に出て、しばらく進む。

「遍路橋」で「石手川」を渡れば、左右に車が行き交う交通量の多い道。そのすぐ先の正面に、次のお寺が見えている。


《第五十一番札所》

熊野山くまのざん 石出寺いしでじ


  本尊 薬師如来

  開基 行基菩薩

  宗派 真言宗豊山派


 神亀五年(728)、「聖武天皇」の勅願により、「法相宗 安養寺」として建設が始まる。

 翌天平元年(729)、「行基菩薩」により開創される。

 その後の弘仁四年(813)、「弘法大師」が入山し「真言宗」に改める。

 又、寛平四年(892)には「石手寺」に改称。

 ここには、遍路の元祖と云われる「右衛門三郎」を語る「石手寺縁起」がある。


 時刻は十一時。入口には、横を向いた「渡らずの橋」。

 その先、木造アーケードの両側にはみやげ物屋が並び、お寺の入口とおぼしきあたりには、たぶんお線香だろう、モヤモヤするほどの煙が立ち込めている。結構な人出だ。

 アーケードを抜け、お寺の境内に入る。ゴチャゴチャと、色々な物が建っている。

 先ず正面に本堂。

 そこから左の方へ行くと、モスク風の、丸いドームの載った建物。

 その上の山に、弁財天のような赤いお堂。


(ここには登ってみる)。


 左手一番奥にあるのは、水子地蔵だろうか?

 本堂の右横に「マントラの洞窟」。百円払って入ってみる。

 明かりが見える反対側へ。

 出てみると、「閻魔えんま様」の像。

 その先にドーム状の建物。中には木造の羅漢像。

 庭師のおじさんがいるだけで、こちら側は先ほどまでの喧騒がウソのよう。『何でここにこんなものが?』といった感じ。

 別世界に来たようで、自分のような人間には、こちらの方が心地好い。

 再び洞窟に戻り、入って来た入口近くを左へ。大師堂の裏に出る。

 にぎわう境内に戻ると、ここで「東洋町」「東洋大師」・「室戸岬」の二十四番「最御先寺」・「安岡町」の二十七番「神峯寺」と、幾度か顔を合わせた女性にバッタリ。

「大師堂はどこなんですか?」と尋ねられる。


 その後トイレに寄ったり、あたりをブラついていると、アーケードの外に空いている食堂。時間も時間だし、腹も空いた。

 ここで「温うどん」と「いなり」のお昼。


 食後、お寺を出て、前の通りを右に行けば…すでに「道後○○」「○○道後」などといった、ホテルやマンションが林立する一帯。「道後温泉本館」の標識を頼りに、ゴミゴミとした「道後」を歩く。

 そしてついに、「あった・あった」ありました。雑誌やテレビでは見慣れた「道後温泉」の建物。旅とレースと今回で、「松山」を訪れるのは三回目だが、初めて「生」で見る事ができた。軽く建物のみ記念撮影。ここは明治二十七年の建造だそうだ。

 その前のアーケードに入り、少々ウロウロ。

 アーケード終点に出ると、市電の「どうごおんせん駅」。ここは始発であり、終点の駅。

 古めかしい造りの「ぼっちゃん列車」は、『ただの飾り物か』と思っていたら…ちょうどここで出くわした幼稚園生の団体さんを乗せて、走り去る。


 時刻は十二時。駅前には、パラソルの立てられた丸テーブルが並んだカフェ。

 ここでアイス・コーヒーを飲みながら、『さて、どうしよう?』。『松山で一泊』という考えもあったのだが、まだこんな時間だ。

 それに、「遍路」以外の目的、「各県庁所在地の駅前を訪れる」も果たさなくてはならない。

 その途上には、ちょうど「松山城」。ついでに登城とじょうしてみるのも悪くはない。

 どちらにしろすでに、「遍路道」からははずれているのだ。その後の事は「松山駅」に着いてから考えよう…というわけで、「松山城」へのルートを確認し、歩き出す。市電のレールに沿った方角に行けば良いようだ。


(「走る中央分離帯」=「市電」の軌道敷がバイクに大敵なのは、「高知市」の項で書いたはず)。


 途中からは、山の上にある「松山城」への「ロープウェイ」の案内板を頼りに、「松山」市内を行く。

 やがて、お城の建つ山のふもと、「ロープウェイ乗り場」下に辿たどり着く。掲げられた地図を見ると、いま通り過ぎて来た神社から登って行けば、お城への登山道に出られる模様。

 ここは、リフトも動いているくらいの山だ。「登山道」と呼べない事もないが、いつもの登りと比べれば、どうと言う事もない。

 上のロープウェイ駅を過ぎ、さらに登れば天守閣下の広場。けっこう広いし、眺めも良い。人出はそれほどでもないが、茶店もある。

 時刻は午後一時。先ずはサイダーを飲んで小休止。

 その後、入館料を払い、靴を脱いで「土禁」の天守閣へ上がる。

 ここの展示品は、うつわや書状等が少なく、その代わりよろいかぶと・刀剣類が多いので、男心をくすぐる内容。天守閣てっぺんからの眺めもGООD。

 ここには、腕に腕章を巻いた無料の専属ガイドのおじさんがいるが、みな女性の相手ばかりして、男には見向きもしない。「愛媛・松山」の男どもは、かなりの女好きと見た。


(ちなみに「愛媛」とは、「可愛い女」という意味だそうだ。かつて昔は、旅仲間の風説を信じ、『四国に美人はいない』と思っていたが…その後の自分の経験からも、「愛媛」だけは特別。他の三県とは違うようだ)。


 しかし帰り際、荷物を置かせてもらった靴脱ぎ場の係りのおじさんとは、少々立ち話。「なまりが無いね」と言われるが、『外行き言葉ですから』。お礼を述べて立ち去る。


 天守閣を出て、下に回ってみると、ちょうどうまい具合に、登った側とは反対方向へ下る登山道。次に目指す「JR松山駅」に向かうには、ちょうど良い。

 下に降りたあたりは、遍路コースからははずれているし、大雑把な道路地図では、細かい所まではわからない。ガイド・ブックのマップと照らし合わせながら、見当を付けて歩く。

 先ずは、「国道56号」を南下。


(左手に見える、お堀のある大きな公園は、お城の敷地の一部?)。


 道路標識に従い右折すれば、正面数百メーター先に「松山駅」が見える。

 規模は、「高知」の駅と同程度。それほど大きくはない。小さな駅ビルだが多少テナントも入っているし、近くに「伊予鉄」の駅もある。繁華街としては「道後」があるせいか、特に栄えている感じはないが、ビジネス・ホテルは多数あり。

『さて、どうしよう?』

「松山城」に登った頃から、面倒臭くなっていたのだが…時刻は、まだ二時半。時間としては、とても中途半端だ。

 とりあえず、駅前の日の当たるベンチに腰を降ろし、ぬるくなったペットのコーヒーを飲んでいると…『行こう!』。フト突然目が覚めたような気分になり、いきなりそう決心する。

 この決断の後はハイ・ペース。ここを出たら、二つ先のお寺近くまで宿は無い。概算でも10キロ前後。行くとなったら、もう残された時間はあまりない。

 スタスタと、駅前の広い道を北へ・北へ。

「伊予鉄」を越えた先で、「国道437号」に左折。

「ここでも行ける」広い道を、一本やり過ごす。その先の「県道184」へ右折。次のお寺を目指すなら、こちらの方が良い角度。

 景色は徐々に、「郊外」といった街並へと移っていく。地名は「志津川」「安城寺」と変わっていき、『そろそろのはずだ』。

「へんろマーク」を探して、キョロキョロしながら歩く。そのせいか、すごく長く感じる。


(確か以前、「車やバイクで目標物を探している時は長く感じるものだが、帰りはアッと言う間だったりする」と書いたはずだが…歩き旅での違いが一つ。「戻り打ち」の時は、往路より復路の方がはるかに長く感じる。だから、「打ち戻り」の場合よりはマシなのだ)。


『もうとっくに通り過ぎてしまったんじゃないか』と思っていたが…『ホッ』。

 商店の角に「へんろマーク」発見。そこを左折。景色は、見通しの利く田園風景へと移っていく。

 しかし、『コースに戻った』と安心していたのも束の間、ガイド・ブックに「ミカン畑の山」とある小山のふもとの道は、工事中で「全面通行止め」とある。平地から突き当たったその山を、右に回って行くのだが…前方では、工事を行っている。

『歩きなら通れるんじゃないか?』

 でも、行ってダメだったら無駄足となる。少し戻って、田んぼや民家の点在する、右の細い道に入る。

 行く手には、次のお寺への道が左右に走っている。県道なのか? とにかく、車も通る道。そこを、こちらがこれから向かう左方向へと歩く、お遍路さんが一人。でもまだそこに出るまで、かなり距離がある。

 その道まで辿たどり着き左折。そこで、自転車のおじいちゃんに声を掛けられる。道を確認。あと十分くらいとの事。

 出た道は、所々で拡張途中。広くなった場所もあるが、古い橋の上などは(だいたいが、橋は後回しにされるものだ)、普通車同士がギリギリすれ違える幅しかない。


(つまり、そんな状態になったら、人一人分の余地も残っていない…と言う事だ)。


 それほどの通行量はないが、そういった場所では前後の車の流れに気をつかい、時には立ち止まって車をやり過ごしてから通過。

 少し上り始めた左直角カーブの手前。お寺の標識があり、カーブの右頂点から直進方向へと、「一ノ門」が見える小道が延びている。

 そのずっと先には、「二ノ門」も見える。

 ここが、緩い上りの表参道…と言っても、両脇には民家が続いている。

 だが人気ひとけは…作業服のおにいさんが、向こうから歩いて来るだけ。「二ノ門」の石段下に停めた、小さな「ユンボ」(パワーシャベルの俗称だ)を積んだ普通トラックの運転手だろう。

「二ノ門」をくぐり、ここからは結構きつい坂。「松山駅」前からハイ・ペースを続けてきた後だし、息が切れる。

 しかし、看板によれば残り250メートル。汗がしたたり落ちる前に境内へ。


《第五十二番札所》

瀧雲山りゅううんざん 太山寺たいさんじ


  本尊 十二面観世音菩薩(伝 行基菩薩作)

  開基 真野長者

  宗派 真言宗智山派


「用命天皇」の御代に、「真野長者」が創建。

 後に「聖武天皇」の勅願を奉じ、「行基菩薩」が本尊を安置。

 その後、「弘法大師」も入山し、「胡摩ケ森」で護摩供を修せられた。


 時刻は午後四時。

 サッサとお参りを済ませ、自販機前で炭酸飲料を飲んでいると…お遍路さんが一人。九番「法輪寺」で出会い・雨降る早朝の四十四番「太山寺」で再会した野宿遍路さんだ。先ほど遠くに見えたのは、この人なのだろう。人の都合も知らないで、「まだこんな所にいるのか」といった感じ。この人も、「急ぎ遍路さん」のようだ。

 歩き遍路同士でも、速い・遅いは、よく話題に上る事。

「速い」イコール「頑張っている」「優れている」といった感じで…まるで、「速く回った方が功徳が高まる」とでもいわんばかりだ。

 という事は、「ウサギとカメ」の教訓は、あまり浸透していないという事か?

もっとも前にも書いた通り、カメは決してノロマではないし、最後にはカメが勝たなくては、勤勉・実直型を推奨する日本の学校教育の理念に反する事になる。

「ウサギとカメ」の寓話は、日本人なら誰でもが教え込まれてきたはずだ。ゆえに「日本人の心の中には、コツコツ努力型を奨励する意識が埋め込まれている」といった論を展開する人もいるが…お遍路さん達ですらこうなのだ。それが、「人間の本能」というものなのだろう。

 どちらにしろ昔から、そんな事はなかったのだと思う。「ウサギとカメ」の話は、むしろそういった「人間の本性」に対する「いましめ」なのだ。

 それに、人それぞれ、おのおのの持ち味というものがある。たとえば歩き方。淡々と・延々と歩き続ける、いわゆる「カメさんタイプ」の人もいるが…でもこちらは、どうもそういう歩き方は性に合わない。ガンガン歩いて、休むとなったらトコトン休む「ウサギさんタイプ」。

 それにそれに、昔は先頭を競ってレースを走っていたが…今となっては、勝ち・負けなんてどうでもいい。

 どちらかが正しいわけでもない。「最後はふたり仲良くゴール・イン」が、教育上、「ウサギとカメ」の正しい終わり方ではないだろうか?


「さて」

 その「急ぎ遍路さん」、今夜はここの通夜堂に泊まると言う。こちらは急いでいるので、早々に立ち去る。

 お寺を降りた所で、次のお寺の先にある宿に予約を取る。まだかなり先だが、六時前には着けるだろう。

 とっとと降りて、さっさと歩く。

 ここのお寺に向かう頃から、少し風が吹き、雲も出てきた。天候急変という事はなさそうだが、明日の天気はどうだろう?


 やって来た車道との合流地点までは戻り道。そこから先も、そのまま歩く。続くお寺は、この道沿い、2キロほど先だ。

「ふう」

 昨日もキツイ行程だったのに、本日も、この時間・こんな所で、セッセと歩いている。

 傾いてきた西日に、少々心細くなり、いっそうのアセリが入る。

『やはり、松山あたりでやめておくべきだったか』

 しかし道は、先ほどの合流地点を過ぎたあたりから、幅の広い新しい道。

 このあたりで、今朝の朝食時、向かいに座っていたおじさんとスレ違う。

 やがて、「松山」市内からこちらに向かう県道との交差点。そこを越えれば、間もなく左側に、本日最後のお寺。


《第五十三番札所》

須賀山すがさん 円明寺えんみょうじ


  本尊 阿弥陀如来(伝 行基菩薩作)

  開基 行基菩薩

  宗派 真言宗智山派


「聖武天皇」の勅願寺。

 天平勝宝年間に、現在の地より北、「和気」の海浜「西山」に創建される。

 開基は「行基菩薩」。

 たびたびの兵火で滅びかけたが、寛永十年(1633)、「和気」の豪族「須賀重久」が当地に移転し再興。

 寛永十三年、現在の「正智院 円明寺」と称されるようになる。


 午後四時四十分。雲の切れ間から差し込んだ、初夏の強烈な西日を浴びた境内へ。

 時間が時間だけに閑散としているが、お遍路さんが一人。細くて結構背が高いので、笠を被っていると、遠目にはナヨッとした男性のようにも見えたが…二十一番「太龍寺」で宿を尋ねられ・三十九番「延光寺」に向かう途中でスレ違った女の子。長々とお経をあげている。

 こちらは宿まで、まだ3キロ弱。『急がなくては…』と、顔を合わせる事もなく、その場を立ち去る。


 先を目指してお寺の駐車場を過ぎる時、本日宿泊予定の宿の広告看板が…

「車で五分」と書いてあったと思うのだが…

『いくら車でも、五分じゃ無理だろう』と、途中まで歩いていて、思う事しきり。おそらく見間違いだったのだろう。


 お寺から「国道196号」まで、家々が建ち並ぶ所は旧態然とした道幅。車がスレ違えないほど細くなったり…踏切で「JR予讃本線」を越えた先で、道路工事をしていたり…川(ここが「久万川」か?)を渡って、左の旧道に「へんろマーク」。

 街並が続き、その先に、国道の雰囲気が感じられる。建物は古いが、意外ににぎわった場所。

『もう、そんなにないだろう』と、通り掛かった商店前の自販機で飲物を仕入れるが…そこから国道に上がり、宿まではかなりあった。


(でも、3キロ弱と思っていたところを三十分だから、妥当なセン? いつもと同様、長く感じただけだろう)。


 宿の所在地は、「広島」へのフェリーも出る「松山市堀江町」。そこそこ大きな街のようだ。

 電話で予約した時、「フェリー乗り場のほう」と聞いてあったので、場所はすぐにわかった。

 フェリー乗り場の標識に従い、国道を左折すると…間もなくの右手に、宿の看板が見える。大そうな名前だったので、どちらに出るかと思っていたが…昔ながらの、小さなフツーの旅館。少々古い木造建屋。

 到着は五時二十分。二階への階段を上がったばかりの、和室へ通される。

 先客がいたので、少し待ってから風呂へ。

 六時を過ぎた頃、下の食堂に呼ばれてみると…本日、五十一番「石手寺」で少し会話をした、あの女性。他にもお客さんがいるようだが、お遍路同士という事でなのだろうか? 二人同室で夕食。

 少し細身で、わりと背が高い。ショートカットで、歩き遍路にしては色が白い。「北海道の苫小牧とまこまいから来た」せい? これまで何度も顔を合わせているので、知らない仲ではないが…オットリしているように見えたが、意外とよくしゃべる。まあ、独りでこんな事をやっているくらいだから、芯は強いのだろう。こうしてジックリ話してみると、「自我」はかなり強そうです。


 一方、食事の内容の方は…「ケータイしながら運転していた」といった感じ。電話をしながら運転していると、途中の道程みちのり・運転操作が空白になっているように…さかんにおしゃべりしていたせいか、食事の内容はほとんど憶えていない。


(「運転中のケータイ禁止」の理由は、「片手運転になるから」ではない。好例を目撃した事があるので紹介しよう。携帯電話をしながら、通りを歩く営業マン風の男性。目の前の信号が「赤」になったのに気づかず、電話に向かい「ワッハッハ」と笑いながら横断歩道を渡り出す。ケータイが危険なのは、「注意力が散漫になる」からであり、マイク付イヤーホンをして済むものではない。使用を禁止すべきであり、歩行者や自転車でも禁止すべきなのだ。ゆえに本当は、話に熱中し過ぎるのも良くないのだ)。


 確かに、この世に生を受けて四十数年。一番目覚しい発展を遂げたものは「携帯電話」かもしれない。子供のころ夢に見た、特撮怪獣モノに登場する「腕時計型テレビ付き通信機」が、ほぼ実現したのだから。


(もっとも、中継局あってのモノなので、まだまだ「完璧」とは言えないが)。


 しかし、「その他、空飛ぶ自動車=エアーカーや高速ロケット、意思を持ったロボットなどは、この先も、永遠に実現しそうにないのでは」と、『「手塚治」先生あたりにはすっかりダマされた』との思いが強いが…でも、「できれば、こんな物を持たなくていい身分になりたいものだ」。


(注∶この頃はまだ、「アーティフィシュアルインテリジェント=人工知能」なる言葉が登場する以前。また、「無人機ドローン」なる単語を知っているのは、超常現象専門誌『厶ー』の読者くらいの時代です)。


 かつての「三種の神器」のひとつだった「テレビ」は、時代が豊かになるにつれ、「貧乏人の必需品」と呼ばれるようになった。一番安上がりな娯楽品だからだ。今のケータイは、それと似たような感じがして…確かにこの旅でも、宿への予約で多大な恩恵をこうむっているが…肌身離さずケータイを持ち歩いている若者を見ると、「自分で自分の行動を限定している」。そんな気がしてならない。

「便利すぎて、かえって不便になっている」

「現代」について、そう語っていたのは誰だったろう?


 食後、部屋に戻って本日の記録。

 エアコンは、排水ドレーンパイプが詰まっているのだろう…送風口から水がボタボタ垂れている。面倒臭いので、スイッチを切る。海の近くだが、部屋は風が抜けないので結構暑い。

「苫小牧」の女性は、明日の朝、食事抜きで出発するそうだ。こちらはガンバって、「今治いまばり」まで行こうと思う。


 暦のうえでは「入梅」の今日、とても天気の良い一日でした。



本日の歩行 40・62キロ

      52760歩


累   計 1093・90キロ

      1421201歩

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