第九話 述懐
俺は、昨日よりも少し早い時間に『スナック翠』へと向かった。
「いらっしゃいませ」
扉を開くと、奥からママの声が聞こえた。
カウンターの中に立っていたママは、俺の姿を見て、少し顔がほころんだ。
「あら、昨日のお兄さん。今日も来てくれたの。うれしいわ。」
昨日の今日でお店にやってきた客を見て、新たな常連客が獲得できたと勘違いしているのかもしれない。
俺は店の奥へと視線を向けたが、今日は馬淵の姿はまだなかった。
馬淵だけではなく、ほかにも客の姿はなく、どうやら俺が最初の客のようだった。
「ジンをロックでもらえますか。」
俺は昨日と同じカウンターの一番手前の席に座りながら、昨日と同じものを注文した。
「お兄さん、私のお店のこと、気に入ってくれたの?」
しばらくして、ママがグラスを持ってくる。
「いや、昨日と同じで、中野さんの情報を聴きに来たんだが・・・」
そういうと、ママは少しすねたような顔をして見せた。
「もう、気が利かないわねぇ。そこは嘘でも、ママに会いに来たと言ってくれれば、私も喜んだのに。」
相変わらず客のあしらいが上手いものだと関心した。
「今日はマーさんはまだ来てないようですね。」
もう一度確認のために、昨日馬淵が座っていた席に視線を向けた。
テーブルには、グラスも出ていないので、トイレに行っているというわけではなさそうだ。
「そうね。いつもなら開店とほぼ同時に来てくれるんだけど、今日はまだみたい。」
ママも俺の視線につられて、カウンターの奥の席を見ながら答えた。
「今日はお仕事でも入って、少し忙しいんじゃないかしら。」
「仕事が入ると、来るのは遅くなったりするんですか?」
「ええ、仕事のある日は、来る時間が少し遅くなるわね。」
おそらく、今日の仕事は俺たちの尾行だろう。
すると、尾行で失敗したことを、指示した人物に報告して遅くなっているのかもしれない。
「とりあえず、マーさんが来るまで、待たせてもらうよ。」
そう伝えて、俺はカウンターで飲みながら馬淵の到着を待った。
ママさんは客が俺一人しかいないからか、やたらと絡んできた。
俺が到着してから30分ほど経ったころ、店の扉が開く音がした。
「いらっしゃい・・・って、どうしたのその顔」
来客を見て、ママの顔が一瞬驚きに変わった。
何があったのかと俺もそちらの方を見ると、昨日と同じ服装をした馬淵の姿があった。
昨日と違っていた点といえば、右目の周囲に大きなあざができていたこと。
誰かに殴られたことがはっきりと見て取れるものだった。
「ちょっと仕事がらみでいろいろとあってさ・・・」
そういいつつ、馬淵はいつもの席へと進んでいった。
その時に足元を確認してみるが、店内が暗くて靴の土までは確認できなかった。
あのあざは、もしかしたら俺たちの尾行に失敗した結果、指示した人間に殴られてついたものかもしれない。
そう思うと、心の中で少し申し訳ない気持ちになった。
「おや、あんたは・・・」
いつもの席についた馬淵は、俺の存在に気づいて話しかけてきた。
「昨日はどうも。」
「いやいや、俺の方こそ、昨日は途中で寝ちまって、悪かったなぁ。」
馬淵は少しバツが悪そうな表情を浮かべた。
「で、俺の話は少しは役に立ったのかい。」
昨日とは打って変わって、今日はかなり気さくな感じで話しかけてくる。
「ええ、まぁ・・・」
俺は少し歯切れの悪い答え方をした。
「なんだい。あまり役に立てなかったのかい?」
「いえ、そんなことはないんですけど・・・もう少し伺いたいことがありまして・・・」
「おう、いいぜ。答えられることなら、何でも教えてやるよ。」
その言葉を聞いて、俺は馬淵の横の席へ移動した。
ママに言って、昨日と同じように馬淵のドリンクを用意してもらう。
「いやぁ、悪いなぁ」
といいつつ、馬淵の顔はタダ酒が飲めるからか、少し嬉しそうだ。
俺は早速本題に入った。
「昨日、馬淵さんが眠る少し前に、中野さんに迷惑をかけたかもしれないという話をされていたかと思うんですが、その話をもう少し詳しく聞かせてもらえませんか。」
俺の言葉を聞いて、馬淵が一瞬険しい顔をした。
「俺がそんな話をしたのか?」
どうやら、あまり触れてほしくない過去のようだ。
「ママさんから、20年前のダム工事の時に、馬淵さんが人をあやまって轢いてしまったと・・・」
馬淵がママの方を少しきつい視線で見る。
ママは黙って、顔の前で両手を合わせて、謝罪のジェスチャーをしている。
「チッ、ママからも話を聞いているなら、ごまかせないな。」
馬淵は観念したように、20年前の話をし始めた。
馬淵の話は、おおむね俊弥から聞いている話通りだった。
現在のダムがある場所の村のこと。
ダム工事の際に反対派住民といざこざがあったこと。
そして、村長の娘の佐々木綾乃を誤って、自分が轢き殺してしまったこと。
その結果、10年ほど刑務所に入っていたこと。
などを話してくれた。
「あの時は、つらかったなぁ。人生で一番のどん底だったよ。」
馬淵は昔のことを思い出しながら遠い目をした。
「何よりつらかったのは、その村に住む住人の一人が、俺に言った言葉だったなぁ。」
「どんなことを言われたんですか?」
「『この人殺し』とか、『お前のことを許さない』とか、『綾乃の敵は絶対に取る』とか。人からあそこまで敵意を向けられたのは人生初だったから、つらかったし、怖かったなぁ。」
そこまで敵意を向けてくるということは、被害者の親族か誰かだったのかもしれない。
「今でもあの時のことは、たまに夢に出てくるんだ。」
「その言葉は、村長さんの言葉ではなかったんですか?」
「いや、若い男だったなぁ。村の住人の一人だったと思う。それに村長はあの時すでに、旦那に懐柔されていたから、何も言えなかったみたいだし。」
「旦那に懐柔されていた?」
俺はその言葉が引っかかって、聞き直してみた。
馬淵はまずいことを言ったというような顔をした。
「いや、何でもない。気にしないでくれ。」
それ以降は、馬淵は口を閉ざしてしまった。
「それで、中野さんに迷惑をかけたというのは、そのダム工事の事故のことなんですね。」
俺は少し話題を変えることにした。
「ああそうだ。中野さんは工事の現場指揮をしていたから、俺が人を轢いたせいで、いろいろと工事に影響が出たと思うから、かなり迷惑をかけたんじゃないかなぁと。」
「もし中野さんと話をすることがあったら、馬淵が謝っていたって、伝えてくれないか。」
「そうですね。わかりました。」
これ以上は特に目新しい話が聴けそうになかったので、俺は撤退することにした。
財布を取り出して、酔った演技をして小銭を床面に落とした。
「おっと、今日はちょっと酔ったみたいだ。」
そんなことを言いながら、俺は小銭を拾いながら、馬淵の靴を観察するが、暗くて確認できなかった。
「ん、どこに落ちたかなぁ。暗くて見えない。」
と言って、スマートフォンのライトをつけた。
床を照らすふりをして、馬淵の靴を照らしてみる。
すると、靴底の深いところに、灰色の砂が付着しているのが見て取れた。
プレハブ小屋の近くの泥は灰色だったが、ちょうどそれが乾燥すれば、こういう感じになるように思える。
「小銭、あったかい?」
馬淵の声が上から聞こえ、俺は小銭を拾って、立ち上がった。
「ええ、ありました。」
「お金は大事だから、気を付けなよ。」
「そうですね。」
俺はそういいながら、ママに飲み代を支払って、店を後にした。
馬淵の靴底の灰色の砂は、やはりあのプレハブ小屋のそばのもので間違いないだろう。
そして、馬淵が言っていた『旦那』とは一体何者なのか。
『懐柔』とは、どういうことなのか。
俺の頭では残念ながら答えを推理することはできそうにない。
いつものように情報を俊弥に投げて、推理してもらうのがやはり正しいのだろう。
そう結論付けると、俺は俊弥に歩きながら電話をかけた。
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