第2話 少女 後編

 夢の中、暗闇の中で立ち尽くす俺。どこかから聞こえる声が耳元をかすめる。


「……どうして、忘れたの?」


 その声は小さく、子供のようなものだった。しかし、確かに耳の奥深くまで響いてくる。


 目の前には、小さな女の子だ。


 彼女はゆっくりとこちらに歩み寄り、その顔が徐々に明らかになっていく。


 動けない。声を出そうとしても喉が締め付けられるようで、何も発することができない。


 再び耳元で声が響く。どこか悲しげな響きと共に、彼女が手を差し伸べてくる。その手が俺に触れた瞬間、背筋に鋭い冷気が走った。


 その瞬間、目が覚めた。


 ベッドの上で跳ね起きた俺の体は、汗でぐっしょりと濡れていた。夢だとわかっていながら、心臓の鼓動が収まらない。呼吸を整えようとするが、胸が妙にざわついている。


「あれは……何だ……?」


 夢で見た女の子。その存在が頭から離れない。そして、彼女が発した「忘れた」という言葉。


 そのとき、不意に三枝沼三輪の言葉が頭をよぎる。

「ずっとあなたを見ている。けれど、その存在を認めた瞬間、後戻りはできなくなるの。」


 彼女が言っていたのは、このことだったのか……?


 時計を見ると、夜中の2時を過ぎていた。寝直そうとするが、さっきの夢の残像が瞼の裏に焼き付いていて、どうしても眠ることができなかった。


 翌朝、寝不足で重い頭を抱えながら学校へ向かった俺は、妙な倦怠感と不安感を引きずったまま、教室の扉を開けた。


 教室内はいつも通りのざわつきが広がっている。


 翔太が手を振りながら「おはよう!」と明るく声をかけてきたが、俺はから元気で軽く挨拶をして席に着いた。


 背後に感じる奇妙な視線のようなものが気になって仕方がない。


 周囲を見回すが、何も変わった様子はない。だが、昨日の夢の影響か、何かが背中にまとわりついているような感覚が消えない。


 そのとき、不意に目が合った。


 窓際の席に座る三枝沼三輪。彼女はじっとこちらを見つめていた。無表情なその顔に、言葉にならない何かを感じる。


 耐え切れず、俺は席を立ち、彼女の元へ歩み寄った。


「三枝沼……昨日のこと、話してくれないか?」

 言葉が喉の奥で詰まりそうになりながらも、何とか問いかける。


 彼女はほんの少しだけ首を傾げ、静かに答えた。 「何を話してほしいの?」


 その冷静な声が、逆に胸を締め付けるような不安を煽る。


「夢で……小さい女の子を見た。彼女が、俺に『どうして忘れたの?』って……そう言ってきたんだ。」


 三枝沼三輪は一瞬だけ目を伏せた後、ゆっくりと視線を戻した。


「それは、あなたが忘れてはいけない何かがあるということ。彼女が教えようとしているのよ。」


「忘れちゃいけないこと……?何を……?」


 彼女は答えず、ただ静かに見つめ返してくる。その視線には、少しだけ悲しみの色が混じっているように見えた。


「でも、一つだけ言っておくわ。」

 彼女は声を落とし、俺にだけ聞こえるように囁く。


「あなたが本当にそれを思い出したとき、彼女が現実になる。それが、良いことかどうかは……あなた次第。」


 その言葉の意味を理解する前に、教室のチャイムが鳴り響いた。


「そろそろ授業が始まるわ。席に戻りましょう。」

 そう言い残して、三枝沼三輪は自分の席に戻っていった。


 胸のざわつきはますます大きくなり、俺はその日の授業に集中することができなかった。


 "彼女が現実になる"――その言葉が、頭の中で何度も反響していた。


 夢で見たあの小さな女の子―― 彼女は一体誰で、なぜ俺の夢に現れたのか。 俺は何を忘れているというのか。



 考え込むあまり、気がつけば授業が終わっていた。教室のざわつきの中、三枝沼三輪の席を見ると、彼女は既に姿を消していた。


 放課後、俺は校内を歩き回りながら、三枝沼三輪を探した。


 どうしても彼女の言葉の真意を知りたかったし、あの夢のことについて、彼女が何かを知っているような気がしてならなかった。


 すると、校舎裏の小さな庭で彼女の姿を見つけた。


 夕日に照らされたその背中は、どこか寂しげで、近寄りがたい雰囲気を放っていた。


 意を決して声をかける。


「三枝沼。」


 彼女は振り返ることなく、静かに言った。

「⋯なに?」


 その声には、少しだけ優しさが滲んでいるように感じた。


「どうしても知りたいんだ。あの女の子のこと……そして、俺が忘れちゃいけないことって、一体なんなんだ?」


 彼女は少し間を置いてから、振り返った。


 その瞳はまっすぐ俺を捉え、どこか覚悟を決めたように見えた。


「本当に知りたいの?」


 その問いに、俺は一瞬躊躇した。だが、胸の奥に渦巻く不安と疑問が、俺を突き動かした。


「知りたい。教えてくれ。」


 彼女は嬉しそうに、小さく頷き


「だったら私に聞くより本人に聞くのが一番だと思う。今も貴方にくっついてるから」


 その言葉に、背筋が凍るような感覚を覚えた。


「今……も?」

 俺は思わず声を震わせながら聞き返した。


 三枝沼三輪は無表情のまま、ゆっくりと頷く。

 

「そう、ずっとあなたのすぐそばにいるわ。昨日より近く貴方に負ぶさってるわよ。ねぇ重くない⋯?」


 その瞬間、背中にじっとりとした感触を感じた。冷たい汗のような、しかし確実に何かが触れている感覚だった。

 

 俺は身体を震わせながら首もとを見ると小さな手が後ろから俺の首に纏わりついていた。

 三枝沼三輪はただ黙ってこちらを見ている。


 俺の心臓は早鐘のように鳴っていたが、どうする事もできず、校舎の窓に映る自分をみた



 校舎の窓に映った自分の姿――その背中には、確かに何かがいた。


 小さな女の子が、俺にしがみつくようにして背中に寄り添っている。

 彼女の顔はぼんやりとしていて、目元は影に隠れているが、その輪郭は夢で見た少女と同じだった。


「うわっ!」

 思わず声を上げ、振り払おうとしたが、動けない。体が硬直し、足元が重くなる感覚に囚われた


 三枝沼三輪は静かに言った。

「見えたのね。ようやく彼女を“認めた”のね。」


「認めたって……何だよこれ!なんなんだよ!」


 声が裏返るほどに叫んだ俺を、三枝沼三輪はじっと見つめ続けた。


「彼女は、あなたの記憶の一部。あなたが忘れようとしたことが形になって現れているだけよ。」


「俺が……忘れようとした……?」

 言葉の意味が理解できないまま、背中に重くのしかかる感触がさらに強くなっていく。


「どうして忘れたの?」

 また耳元で彼女の声が響く。その声には、さっきよりもはっきりとした感情――怒りが混ざっている。


 その瞬間、頭の中にフラッシュのように記憶の断片がよみがえった。


 昔から怖い物なんてなかった。

 強いて言うなら親が怒った時ぐらいだった。


 いつも周りには人がいた。

 遊ぶ時も寝る時も風呂やトイレの時も


 自慢だった。

 ある時に先生に言われた。


「守くんはいつも誰とお喋りしてるの?」

 

 先生のその一言は、幼い俺には特に引っかかるものではなかった。


 ただ、少しだけ首をかしげた記憶がある。


「え?友達だよ。」

 当たり前のことを聞かれると、俺は笑いながら答えた。


 先生は一瞬困ったような顔をした後、優しく微笑んで頷いてくれた。


 友達はいつもそこにいた。

 朝目覚めると、すぐに「おはよう」と声をかけてくれる。


 昼間は一緒に遊び、夜は眠るまでおしゃべりした。誰もが持っている当たり前のものだと思っていた。


 ある日、先生がその友達の話を聞いてこう言った。

「守くんは、いつもその“友達”って話すけど、その子ってどんな子?」


 俺は少し考えて答えた。

 

「んー、髪が長い女の子。僕よりお姉ちゃんですっごく優しいんだ。どこに行く時も一緒にいてくれるの。」


 先生は顔を曇らせ、黙り込んだ。

 そして、その日から妙に過保護になったような気がした。


 先生は何度も何度も

「幽霊なんかいないんだよ。守くんの周りには誰もいないんだよ」


 と必死になり俺を抱きしめた。

 先生が何度も「幽霊なんかいない」と言い聞かせてきたことに、幼い俺は困惑した。


「でも、いるよ。ちゃんといるよ。いつもそばにいるんだよ。」

 俺がそう訴えても、先生は「大丈夫だよ」と笑いながら優しく抱きしめるばかりだった。


 でも、俺にとってその“友達”は大事な存在だった。彼女はいつも俺を守ってくれた。風邪をひいたときには「大丈夫」と耳元で囁いてくれたし、転んで泣きそうになった時には傍にいてくれた。


 でも友達は優しい人ばかりじゃなかった。

 先生の言いつけを守ろうとすると怒って俺に嫌がらせるようになった。

 何度も危ない目にあったが少女が助けてくれた

 

 でも、その「友達」たちは、俺をさらに苦しめ始めた。


 クレヨンで描いた絵をぐちゃぐちゃにされたり、机の中の大事な物をなくされたり。


 

 日に日にエスカレートしていくそれは、子供心に恐怖だった。


 ある日、特にひどい出来事があった。

 遊び場の近くの池で、何かに押されたように転び、水の中に落ちてしまったのだ。

 体が動かなくて、どんどん深く沈んでいく感覚。


 その時だった。

 少女が現れ、俺の手を掴んで引っ張り上げてくれた。


 水面から顔を出したとき、彼女が微笑みながらこう言ったのを覚えている。

「もう大丈夫。私が守るから。」


 俺はただその言葉に頷くしかなかった。

 そして、その日から俺は彼女を信じることにした。


 先生には少女がいなかった。

 それでも友達は先生を遠巻きに眺めるだけだった。


 それが俺にとって救いでもあった。

 先生にまで彼らが何かをしようとしたら、どうすればいいかわからなかったからだ。


 ただ、彼らが先生の近くに来ない理由は、子供心にもなんとなくわかっていた。


 先生は、俺の「友達」たちの存在を信じていなかった。その信じなさが、彼らを寄せ付けない壁のようになっていたのだ。


 俺が信じることが、彼らを引き寄せている――そんな風に思うようになったのは、その池の出来事からしばらく経った頃だった。


「守くん、もう大丈夫だよ。」

 先生のその言葉を信じたくて、ある日、俺は少女にこう告げた。


「もう守ってくれなくて大丈夫だよ。先生がいるから。」


 少女は、いつもの優しい微笑みを浮かべたまま少し寂しそうに見えた。


 けれど、何も言わずに、ただ頷いてくれた。


 それから、俺の「友達」たちは徐々に消えていった。彼らの存在を感じることはなくなり、俺は普通の子供と同じ生活を送るようになった。


 ただ、一人だけ、少女だけは最後まで俺の傍にいた。


「もし困ったら、呼んでね。」

 そう言い残して、彼女もまた消えていった。


 それ以来、彼女のことを忘れるように努めた。

 普通の生活に戻りたかったし、周りの人たちと同じように「当たり前の子供」でいたかったからだ。


 でも今、背中に彼女の小さな手の感触を感じながら、忘れたはずのその記憶が鮮明に蘇ってくる。


 窓に映る少女の姿は、あの日の彼女と何も変わっていなかった。


「守るって言ったでしょ。」


 耳元で聞こえるその声は、かつての優しさと同時に、どこか重く響くものが混じっていた。


 俺は硬直したまま窓に映る彼女を見つめていた。黒く長い髪、幼い顔立ち、そしてじっとこちらを見つめる深い瞳。確かに、あの頃いつもそばにいてくれた彼女だ。


「今まで⋯ずっと守ってくれたのか⋯?」


 口から絞り出したその声は、自分でも驚くほど震えていた。


 彼女は窓に映る自分の姿の中から、まるでそこが彼女の本体であるかのように優しく微笑んでいた


 

「どうして戻ってきたんだ?俺は……もう普通の生活をしている。何も困ってないはずなのに。」


 彼女の微笑みはそのまま変わらない。けれど、その瞳の奥には一瞬だけ哀しみの影が揺れた。


「普通だと思っているのは、あなた自身だけよ。本当に、何もないの?」


 問いかけた答えは三枝沼から返ってきた


「何もないの?」という三枝沼の問いかけは、まるで俺の胸の奥を抉るようだった。


「普通だと思っているのは、あなただけ……」

 その言葉が頭の中で反響する。


「でも、俺は本当に何もない……」

 言葉を続けようとした瞬間、三枝沼が視線を鋭くこちらに向けた。彼女の瞳には、いつもの冷静さとは異なる強い光が宿っていた。


「なら、なぜあの子がずっとあなたの後ろにいるのか、考えたことはある?」


 彼女の言葉に、背中にまとわりつく感覚が一層重くなるようだった。

 無意識に背中へ手を伸ばしたが、そこには何も触れるものはない。ただ、そこに確かに“いる”という感覚だけが、俺を包み込んでいる。


「彼女がいる理由を知らないのに、『普通』だと思い込むのはおかしいわ。」

 三枝沼の声は低く、それでいて鋭い。その言葉には、俺の心を見透かしているような冷たさがあった。


「でも、俺には本当に何も……」


「逃げてるのよ。」

 三枝沼が静かに言い放った。



「逃げてる……?」



「そう。忘れようとした何かから、目を逸らしてる。それが何かを思い出さない限り、彼女はあなたの背中から離れない。むしろ……」


 彼女は少しだけ間を置いた。


「もっと重くなるわ。」


 その言葉の意味を噛み締める間もなく、背中の感覚が一層強まるような気がした。


「でも、何を思い出せばいいのかわからない……」


 三枝沼は溜息をつくと、少しだけ顔を近づけてきた。


「自分の記憶を辿ってみて。彼女が出てきた理由を。きっかけを探るの。」


 三枝沼の言葉に、俺は再び背中に纏わりつく冷たい感覚を意識する。


 何かを思い出さなければならない――それだけは確かなのに、記憶の扉は固く閉ざされたままだった。


「貴方は何で怪我をしたの⋯?」


 三枝沼の問いかけに、俺の心が大きく揺さぶられた。


「怪我……?」


 彼女の言葉が耳に届いた瞬間、記憶の奥底に押し込められていた何かが微かに軋むような感覚がした。


「……陸上部だった頃の話か?」


 自分でも思い当たることを探りながら言葉を口にした。俺は確かに中学時代、陸上部で走ることに打ち込んでいた。そして、大会を目指していた最中に足を怪我して、その夢を諦めた。


 それが俺の中ではっきりしている「怪我」の記憶だった。


「そう。もう一度聞くけど⋯なんで怪我をしたの⋯?」


 三枝沼の視線が俺の右足に固定されている。

 いや、それは単に俺の足を見ているのではなく、何かもっと深いもの――俺自身が忘れてしまった何かを見透かしているようだった。


「怪我……それは、練習中に無理をして転んで……」


 そう言いかけた俺の言葉を、三枝沼は静かに遮った。


「本当にそれだけ?」


 彼女の声は低く、それでいて鋭く突き刺さるようだった。


 俺は言葉を飲み込み、頭の中に霧のようにぼんやりと残る記憶を探ろうとした。確かに練習中だった。でも……その前に、何かがあった気がする。


「思い出して。あなたは、ただ足を怪我しただけじゃない。それはきっかけでしかない。」


 三枝沼の言葉に促されるように、俺は記憶の中に深く潜り込んでいく。


 練習の日だった。走るコースを一人で走っていた。でも、途中で――小さな女の子をみてそして、次の瞬間――


 記憶の断片が急に鮮明になった。

 そしてそのままバランスを崩し、右足をひねって転んだ。


 三枝沼は静かに頷き、俺の言葉を引き継ぐように話し始めた


「あなたの背中にいる彼女――ずっとあなたを見守ってきた。でも貴方が集中した中、彼女を認識して怪我したのよ」



「気づかずに……?」



「彼女は、あなたに謝ろうとしていた。でも、あなたはそれを拒絶してきた。無意識に。だから彼女はあなたのそばから離れられなくなった。」



 その言葉に、俺は背中にずっと感じていた重さが、急に冷たい罪悪感へと変わっていくのを感じた。


「俺が……彼女を拒絶した……?」


 三枝沼はただ黙って頷く。そして、静かにこう続けた。


「彼女は、ずっとあなたを待っているの。あなたが気づいてくれるのを、あなたが許してくれるのを。」


 彼女の言葉が、心の奥底にずっしりと響く。


 俺は唇を噛みしめた。自分が彼女に何をしてきたのか、思い返せば返すほど、心の中で罪悪感が膨らんでいく。


「どうすれば……彼女を解放できる?」


 三枝沼は少しだけ微笑み、その目に優しさを宿らせた。


「まずは、彼女に気づいてあげて。そして、ちゃんと向き合うこと。彼女が何を伝えたいのか、あなた自身が理解すること。それが、第一歩よ。」


「俺が……ちゃんと向き合う……」


 背中に感じる冷たさと重みが、徐々に温かさを帯びていくような気がした。それはまるで、彼女が俺の覚悟を見守っているかのようだった。


「ありがとう……」俺は小さく呟き、静かに背中に声をかけた。



「君を……ずっと無視してごめん。これからは、ちゃんと向き合うよ。」



 その瞬間、背中の重みが少しだけ軽くなった気がした。そして、耳元に、小さな囁きが聞こえた。


「ありがとう……」


 それは、彼女の優しい声だった。


 その声に、胸の奥がじんと熱くなる。


 小さな「ありがとう」という言葉が、まるで鎖を解かれるように心を軽くした。

 ずっと感じていた背中の重さが、ふっと柔らかくなる。まるで、長い間押し付けられていた罪悪感や無視してきた記憶が溶け出したようだった。


 振り返ると、三枝沼は静かにこちらを見ていた。その表情には、いつもの冷静さに加えてほんの少しの優しさが宿っている。


「彼女はあなたを恨んでなんかいない。ただ、ずっとそばにいたかっただけ。」


 三枝沼の言葉が、再び胸に染み渡る。


「そばに……?」


 彼女は小さく頷いた。


「そう。あなたは霊を引きつるのよ⋯本来忘れようと思ってもできないし、認識しない何て出来ない。」


 その言葉に、胸の奥が静かに震えた。三枝沼の言う「霊を引き寄せる」という言葉が、俺の過去のいくつかの出来事と妙に結びついていく。


「霊を引きつける……俺が?」


 三枝沼は静かに頷いた。


「ええ。あなたはそういう“資質”を持っているの。だから、彼女だけじゃなく、これまでもいろんな存在に触れてきたはず。でも、気づかないふりをしてきただけ。」


「気づかないふり……」


 思い返すと、確かに奇妙な出来事はいくつもあった。何度も感じた背筋を撫でる冷たい感覚、突然消える物音、窓に映る自分の後ろの影……それらをすべて「気のせい」や「偶然」として片付けてきた。


「でも、なんで……俺なんかが?」


 三枝沼は静かに首を振ると


「わからない。生まれつきなのか⋯貴方の過去に関係しているのか」


 その言葉に、俺は一瞬息を飲んだ。


 三枝沼はその問いに答えず、少しだけ間を置いてから静かに視線を合わせた。


「あなた自身が知らない、もしくは思い出そうとしていないことが、鍵になっているのかもしれない。」


 その言葉が頭の中で反響する。背筋に微かな寒気が走りつつも、どこかそれが納得できるような感覚もあった。


「でも何でそんな事までわかるんだ⋯?」


 思わずそう尋ねると、三枝沼は微かに微笑んだ。


「私も同じだから」



「同じ……?」


 三枝沼は微かに微笑みながら頷いた。その表情には、いつもの冷静さに加えて、どこか深い哀しみが宿っていた。


「そう。私も……霊を引き寄せる“資質”を持っているの。」


 その静かな告白に、俺は言葉を失った。三枝沼の言葉が、これまでの彼女の行動や態度をすべて納得させるように感じられた。


「だから、あなたが彼女を背負っているのを見たとき、わかったの。あなたも私と同じだって。」


「でも……それなら、なんでそんなに冷静でいられるんだ?俺なんか、まだ全然……」


 そう言いかけると、三枝沼は小さく首を振った。


「冷静なんかじゃないわ。慣れただけ。」


 その言葉には、彼女がどれだけ多くの経験をしてきたのかが滲み出ていた。彼女もまた、見えない存在と向き合い続けてきたのだ。


「あなたがどうするかは自由。でも……逃げないでほしい。逃げても、彼女たちは消えない。むしろ、もっと深くあなたに絡みついてしまうだけ。」


 彼女の言葉が、胸に深く突き刺さった。


「でも、どうしたらいいんだ?これから先、どうやって……」


 三枝沼は俺の不安を見透かすように静かに答えた。



「まずは、受け入れること。自分の中の『見える』という事実を。そして、彼女たちが伝えようとしていることに耳を傾けること。」


「伝えようとしていること……?」


 彼女は小さく頷いた。


「霊は何かを訴えたくて現れる場合がほとんど。あなたの背中にいた彼女も、ずっと『ありがとう』と『ごめん』を伝えたかっただけ。」


 その言葉を聞いて、俺の胸に何かが込み上げてきた。


「……俺は、彼女の声を聞いた。でも、それだけじゃ……」


 三枝沼は微かに微笑み、続けた。


「それだけで十分よ。それが、彼女がそばにいた理由。彼女はもう、安心して離れられるはず。」


 俺は静かに頷いた。三枝沼の言葉が、これから自分が進むべき道を照らしているように感じられた。


「ありがとう……三枝沼。」


 俺の言葉に、彼女は少しだけ驚いた表情を浮かべた後、最初にみた時のよう獲物をみるように微笑んだ。


「気にしないで。これで貴方も私と同じ。また霊が見える毎日。」


 彼女の言葉に晴れやかな気持ちは一気に崩された


「……また霊が見える毎日って?」


 三枝沼の言葉に、俺の胸がざわついた。彼女の微笑みはどこか冷たく、これまでとは違う得体の知れないものを感じさせた。


「どういう意味だよ、それ……」


 問い返す俺に、三枝沼は視線を合わせたまま静かに答えた。


「だって私が教えてあげなければ、貴方はずっと彼女を認識しないまま。彼女は救われなかったかも知れないけど今まで通りの生活は送れたはずよ」


 思わず後ずさる俺に、彼女はさらに言葉を重ねた。


「あなたが霊を引き寄せる力を持っているのは変えられない。でも、気づかなければ、その力を使うこともなかったの。だから、気づかないでいた方が楽だったかもしれない。」


 三枝沼の言葉は、まるで責めるようでもあり、どこか憐れむようでもあった。



「どうして教えたんだよ……知らないままなら、俺は……」


 そう言いかけた俺の言葉を、彼女は鋭く遮った。



「あなたが彼女を無視し続けることになるからよ。それにせっかく同じような人間に会えたのに勿体ないじゃない。」


 その一言に、俺は言葉を失った。



「……でも、これからどうすればいいんだよ?また別の霊が現れたりしたら……俺にはどうしようもない。」



 三枝沼は少しだけ考え込むような表情を浮かべた後、静かに言った。



「さぁ?」



 三枝沼のその一言と共に彼女は用が済んだとばかりに帰宅にむけて歩きだした


 残された俺はただ呆然とその背中をみているしかなかった。

 三枝沼は少女の願いを叶える為だけではなく、もしかして単純に俺を同じ道に引きずり込もうとしたんじゃないかと思ったら彼女が急に恐ろしくなった。


 俺は日が落ち始めた中、小さくなる背中をみて

 心に刻みこんだ。


 三枝沼 三輪は怖い  

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