三枝沼 三輪は怖い
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第1話 少女 前編
世の中には、怖いものがたくさんある。
小さい頃に怖かったものは、大人になるにつれて怖くなくなることがある。けれど、大人になって初めて怖くなるものもある。
俺の場合、幽霊と人間だった。
子供の頃、暗闇で感じた幽霊の気配は、大人になると薄れていった。
けれど、人間の嘘や裏切り、理不尽さに気づくたびに、幽霊よりずっと人間のほうが怖いと思うようになった。
もし具体的に誰が怖いのか?
そんなふうに聞かれたら真っ先に俺は
「
と答える。
何故かって聞かれたら、困る
彼女が微笑むとき、それが何を意味するのか、俺は知っている、あんな体験したら誰だってそう思うはずだから
入学式――日本に住む誰もが一度は経験する節目の行事だ。小学校、中学校と続き、今日が人生で三度目の入学式となる。
春の暖かい日差しの中、俺は新しい制服を身にまとい、自転車を走らせていた。この制服を着るのもまだ慣れないが、今日からここが俺の新しい生活の始まりだと思うと、少しだけ緊張する。
俺が選んだのは、
自宅から自転車で45分。特に目立った特徴がある学校ではないが、そこがいいと思った。
進学校でもなく、かといって荒れた学校でもない。田舎でも都会でもない、絶妙に中途半端な立地。それが妙に自分に合っているような気がしたのだ。
「まぁ、自転車で通える距離ってだけで十分だろ。」
そう自分に言い聞かせながら、ペダルをこぐ足を少し早めた。
学校の門をくぐると、広い校庭と白い校舎が目に入る。目の前には、同じように新しい制服を着た生徒たちが続々と集まっている。
その中に自然と自分も溶け込むように歩き出す。
まだ見知らぬ人たち、これから出会う新しい生活――期待と不安が入り混じるこの瞬間が、少しだけくすぐったい。
入学前に渡された自分のクラス番号を確認して真っ直ぐ「1-3」に向かい教室の扉を開けた瞬間、視線が一斉にこちらに集まる。
まだ全員が席につく前の雑然とした教室。
数人が立ち話をし、何人かはスマホをいじり、他の誰かは窓の外を眺めている。けれど、俺が入ってきた瞬間、全員が「新しいクラスメイト」の存在を確認するようにこちらを見た。
少しだけ息苦しさを感じながらも、俺はできるだけ自然に振る舞おうとした。「ここが自分の新しい居場所だ」と自分に言い聞かせながら。
黒板に貼られている用紙から自分の名前を探し、真ん中の一番後ろ側に名前をみつけた俺は視線から逃げるよう迷わずその席に向かい、カバンを下ろして座った。
席に着くと、視線が少しずつ俺から離れていき、また教室のざわめきが戻る。俺は周りの様子を伺いながら、こっそりとクラスメイトたちを観察した。
前の席には、早速隣の女子と親しげに話している男子。どうやら社交的なタイプらしい。隣では、分厚い本を静かに読んでいる男子がいる。
そして、窓際の隣席で静かに外を見ている女子が目に留まった。
窓際の席で外を見ている女子は、どこか周囲と距離を置いているように見えた。長い黒髪がさらりと肩にかかり、制服の襟元をきっちりと整えている。彼女の横顔は落ち着いていて、まるで教室のざわめきとは別の世界にいるかのようだった。
俺は自然と彼女に目を向けたが、その瞬間、彼女がふとこちらを振り返った。視線が合う。ほんの一瞬だったが、彼女の瞳は冷静で、どこか測り知れない印象を受けた。
「……何か用?」
そう聞かれた気がして、思わず視線を逸らした。
けれど、彼女の口元が少しだけ笑みを浮かべたのが視界の端に映った。気まずさを振り払うように、俺は窓の外を見るふりをして深呼吸する。
いつしかクラス全ての席が埋まると、チャイムと共に担任が教室に入ってきた。短髪でスーツをきっちり着こなした男性教師だった。
「おはようございます!」と元気よく挨拶をすると、クラス全体が一瞬静まり返り、そして軽くざわつく。
どうやら体育会系の熱血教師らしい。
「俺はこのクラスの担任を務めることになった田中だ。科目は体育だが、生活全般、困ったことがあれば何でも相談してほしい!」
そう言うと彼はにこりと笑い、手に持った名簿を教卓に置いた。
「さて、早速だが、うちの学校は最初に軽い自己紹介をやってから式になる。あんまり早いと皆さんの親御さんも準備が大変だからな」
田中先生の言葉に、クラス全体が少しざわついた。親しみやすい口調と笑顔が場を和ませるが、体育会系のエネルギッシュさが隠せない。
自己紹介と言われ、ちらほらと周囲の生徒たちが緊張しているのがわかる。
「じゃあ、席順に前からいこうか。まずは一番前の君から!」
田中先生がそう促すと、前の席の男子が勢いよく立ち上がり自己紹介を始めた。明るい声と大きなジェスチャーにクラスメイトたちから軽い笑いが漏れる。
一人目が終わると、次々と生徒たちが立ち上がり、それぞれの自己紹介が始まった。順番が近づくにつれて、俺の心臓の鼓動が少しずつ速くなる。
なんて言おうか、名前と趣味だけでいいのか、それとももう少し踏み込んだ話をすべきか。悩んでいるうちに、とうとう俺の番が来た。
「えっと⋯名前は
立ち上がり、教室を軽く見渡しながら続ける。
「趣味はランニングで走ることが好きで、休日は色々な場所を巡ってます。部活は元々陸上をしてました、ただ怪我をして⋯今は趣味でしかできないので、この学校では別の何かを探してます」
一言一言が自分でも堅苦しく感じたが、なんとか言い切った。
「よろしくお願いします。」と締めくくると、周囲から軽い拍手が起こり、ホッとしながら席に戻った。
そして、次は窓際の彼女の番だった。
静かに立ち上がった彼女は、少しだけ教卓に視線を向け、冷静な声で言った。
「…
それだけで席に戻る彼女。
その短い一言にも関わらず、教室全体が微妙に静まり返る。
自己紹介としては極端に少ない内容だったが、彼女の落ち着いた態度に誰も異論を挟まない。
むしろ、彼女の存在感がより一層際立ったように思えた。田中先生は気にした様子をなく、満足そうに頷き
「みんなありがとう!これから同じクラスで生活していくわけだが、楽しい高校生活を作るのは君たち自身だ。困ったことがあればいつでも頼ってくれ!」
明らかに人への感受性が鈍そうな田中先生の熱い言葉に、クラス全体から小さな拍手が起こる。
こうして短い自己紹介の時間は終わり、入学式の準備が進む中で、俺の中には彼女――三枝沼三輪の存在が妙に引っかかり続けていた。
入学式の準備が進むにつれ、教室内の緊張感が少しずつ緩んでいった。
クラスの男子が声をかけてきたり、近くの生徒たちが軽く雑談を始めたりして、徐々に打ち解けた雰囲気が広がっていく。
だが、俺は気がつけば再び窓際の彼女――三枝沼三輪の姿に目を向けていた。彼女は一人、窓の外をじっと見つめたまま微動だにしない。周囲のざわめきがまるで彼女に届いていないような、不思議な隔絶感があった。
「なあ、さっきの自己紹介、上手だったな。」
ふいに前の席の男子が話しかけてきた。
名前はたしか
「怪我して陸上辞めたって言ってたけど、それでも走るのが好きっての、なんかすげえよな。俺、サッカーやってるんだけど、怪我したら多分やめちまうと思うし。」
翔太の人当たりが良い話し方に俺も自然と顔が綻び
「ああ、ありがとう。でも、趣味で走るって言っても大したことじゃないよ。」
俺は軽く笑って答えたが、どうしても会話に集中できなかった。翔太の話を聞き流しながらも、三枝沼三輪の存在が気になって仕方がない。
何でここまで気になるのか。
さっきの自己紹介もそうだが、彼女の一言一言、一挙一動には、何か普通の高校生とは違う重みのようなものを感じる。
だが、それだけではなかった。なのにそれが何なのかはわからない。ただ、彼女を見ていると、妙に胸がざわつくのだ。
「おい、聞いてる?」
翔太が不満そうに声を上げる。
「あ、悪い。ちょっとぼーっとしてた。」
俺は慌てて返事をしたが、翔太は何か言いたげな顔をして俺の視線を追った。そして、三枝沼を見つけると、少し声を低くして言った。
「……あの子、なんか雰囲気違うよな。冷たいっていうか、近寄りがたいっていうか。でも可愛いよなぁ、もしかしてさっそく青春相手をみつけた?」
「ち、違うって!」
俺は慌てて否定したが、翔太はからかうような笑顔を崩さない。
「おお、焦ってる焦ってる!図星か?」
翔太の声が妙に大きくて、周りの生徒たちがこちらをチラチラと見ているのがわかる。
余計に気まずくなり、俺は声を潜めた。
「本当に違うんだよ。ただ、なんか……ちょっと気になるっていうか。」
「気になる時点で怪しいだろ。」
翔太はニヤニヤと笑いながら机に肘をつき、俺をじっと見ている。
「いや、そういうんじゃなくてさ。なんて言うか、雰囲気が他の子と違うっていうか、なんか……重い感じがするんだよ。」
自分でも何を言っているのかよくわからないが、そうとしか表現できなかった。
翔太は少し真剣な顔になり、三枝沼三輪の方をちらりと見た。彼女は依然として窓の外を見つめている。その横顔には、どこか近づきがたい冷たさと儚さが同居しているように見えた。
「うーん……まあ、確かに普通じゃない感じはあるよな。」
翔太は頷きながら小声で続けた。
「でも、可愛いのは確かだし、もし話すチャンスがあればラッキーだな。あの子と仲良くなったら、一躍クラスのヒーローだぜ。」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
「そんなことないって。そもそも、ああいうタイプの子と俺みたいなのが話す機会なんてあるわけないだろ。」
「わかんねえぞ。何がきっかけになるかわからないからな、高校生活なんて。」
翔太は意味深に笑いながら背もたれに寄りかかる。
再び三枝沼三輪に目を向けた。
彼女の横顔に浮かぶのは、ただの無表情ではなかった。むしろ、何か深い考え事をしているように見える。まるで、この教室にいながら別の場所に心があるかのようだった。
そのとき、三枝沼がこちらに視線を向け彼女の目と目が合った。
彼女は暫く俺の顔をみて、笑みを浮かべた。
その笑みは、普通のものではなかった。
親しみや好意を示すものでもなく、ただ、こちらを観察しているかのような視線の延長線上にある笑み――冷静で、どこか冷ややかですらあった。
心臓が早鐘のように高鳴る。
だが、それは緊張や照れとは違う、もっと本能的な警戒心から来るものだった。
彼女の瞳は俺を通り越し、さらに奥深くを見透かしているような感覚を抱かせる。
「おい、大丈夫か?」
翔太が心配そうに俺の肩を叩く。
「あ、ああ、大丈夫。」
俺は咄嗟に返事をしたが、視線は彼女から外せなかった。
「なあ、やっぱりお前、あの子のこと気になってるだろ?」
翔太は興味津々といった様子で俺の顔を覗き込む。
「いや、違うんだって。ただ……なんていうか、あの子、普通じゃない気がするんだよ。」
「普通じゃない?」
翔太は首を傾げた。
「うん、なんか……雰囲気がさ。他の生徒とは全然違う。なんて言えばいいんだろう……怖い、って感じじゃないんだけど、近寄りがたいっていうか……」
俺の曖昧な説明に、翔太は「よくわかんねえな」と首を振りながら笑った。
その後も教室は次第ににぎやかさを増していったが、俺の心の中には彼女への警戒と得体の知れない興味が渦巻いていた。
そんな考えも、田中先生の声にかき消された
「よし、皆だいぶ打ち解けてる中ですまないが、そろそろ式に向かうぞ!」
田中先生の声が教室中に響き渡り、賑やかだったクラスが一瞬静まり返る。
その後、椅子が引かれる音や鞄を手に取る音が次々と教室に広がり、生徒たちはぞろぞろと立ち上がった。
俺も鞄を手に取り、前の席の翔太と軽く目を合わせた。
「さっきの話、また後でな。」とウィンクをしながら言う翔太に、俺は苦笑して肩をすくめる。
廊下に出て、クラスごとに並んで体育館へ向かう。
列の中で、三枝沼三輪は自然と少し後ろの方に位置していたが彼女は相変わらず誰とも話さず、一人で静かに歩いている中
ふと俺の隣にきて囁いた
「ねぇ⋯その小さい女の子は誰?」
その声は小さく、それでいてはっきりと耳に届いた。驚いて顔を向けると、三枝沼三輪は笑顔のままこちらを見上げていた。
俺は一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。
「え……小さい女の子?」
自分の隣や周囲を見回すが、当然そんな人物はいない。列には制服を着た同級生たちが並んでいるだけだ。
「……ほら、君のすぐ後ろに立ってるじゃない。」
三枝沼三輪は静かに微笑んだまま、俺の肩越しを指し示すように目を向けた。
背筋に冷たいものが走る。振り返るべきか、振り返らないほうがいいのか――頭が混乱する中、俺の体は反射的に後ろを見た。
だが、そこには何もいなかった。ただ、同級生たちがいつも通り話しながら歩いているだけだ。
「……冗談?」
声が少し震えたのが自分でもわかった。
三枝沼三輪は俺の反応を見て少しだけ首を傾げる。
「…?貴方も見える人じゃないんだ⋯まぁいいわ。」
その言葉が何を意味するのか、まったく理解できなかった。
けれど、その瞬間、彼女がただの普通のクラスメイトではないことを確信した。
「幽霊なんているわけないだろう⋯?」
思わずそう言葉が口から漏れた。
三枝沼三輪はその言葉にくすっと笑い、
「幽霊なんて言ってないのに⋯やっぱり同じね」
前を向いて歩き始めた。まるで何事もなかったかのように。
彼女の最後の一言に、胸が強くざわついた
彼女の静かな横顔は、何事もなかったかのように穏やかだったが、その背後に隠された何かが確かに存在しているように感じた。
幽霊なんて言ってないのに――
その言葉が頭の中で何度も反響する。
この場にいないはずの、小さい女の子なんて言われたら誰でも幽霊だと思うだろと
列が体育館の前に到着し、クラスごとに整列していく。ざわざわとした空気の中、俺はどうしても彼女の言葉の真意が頭から離れなかった。
式が始まり、校長先生の話や新入生代表の挨拶が続く間も、三枝沼三輪の横顔が脳裏にちらつく。
俺は彼女の後ろ姿を見つめながら、胸の中に得体の知れない不安がじわじわと広がるのを感じていた。
式が終わり、クラスごとに教室へ戻る途中、俺はどうしても彼女に近づきたい衝動を抑えられなかった。
その後ろ姿を追いかけながら、ふと気づくと、俺は彼女のすぐ後ろに立っていた。
思い切って声をかけると、三枝沼三輪はゆっくりと振り返った。
相変わらずその瞳は、何もかもを見透かすような冷静さを湛えている。
「さっきの話……あれ、どういう意味?」
自分でも声が震えているのがわかった。それでも、どうしても聞きたかった。
彼女は少しだけ首を傾げたあと、静かに口を開いた。
「意味⋯?小さい女の子の話しならそのままだけど」
「そのままって…」
三枝沼三輪は一瞬だけ目を伏せた後、静かに口元を緩める。
「そのままの意味よ。あなたの後ろに小さい女の子が立っていた。それだけ。」
「でも、俺の後ろには誰もいなかった。周りの奴らも、そんなの気づいてなかったはずだ。」
俺の言葉には、自分でも気づかないほどの必死さがにじんでいた。
彼女は肩をすくめるような仕草をしながら、再び視線を合わせてきた。
その瞳は相変わらず静かで冷静で、それなのに妙な圧力を持っている。
「見えないのは、あなたが見ようとしてないからよ。」
「……」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。
見ようとしていない――それがどういう意味なのか、正確には理解できなかった。
けれど、その言葉には何かを突きつけられたような重さがあった。
三枝沼三輪は、俺の反応をじっと観察するように見つめていたが、ふと視線をそらすと、静かに続けた。
「気づいてないのなら、無理に知る必要はないわ。見えないものは、見えないままでいいこともある。」
「……それってどういうことだよ?」
喉の奥がひりつくような感覚がした。彼女の言葉が、俺の中に眠る何かを揺さぶっている気がした。
三枝沼三輪は微かに笑みを浮かべたが、その笑みはどこか寂しげだった。
「知りたいなら、いずれわかるわ。」
「いずれ⋯?」
俺は眉をひそめた。
彼女は短く頷くと、最後にこう言った。
「あなたの周りにいる"彼女"は、ずっとあなたを見ている。けれど、その存在を認めた瞬間、後戻りはできなくなるの。」
「何の話だよ……」
胸の奥で、得体の知れない恐怖が広がっていく。
「無理に追わないほうがいい。」
彼女のその言葉は静かだったが、断固とした響きを持っていた。
そして、三枝沼三輪は踵を返し、再び列に戻っていった。
俺はその場に立ち尽くし、彼女の言葉の意味を反芻する。
"ずっと見ている彼女"。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。思い当たることなど何もないはずだったが、なぜか胸の奥で何かがざわめいている気がした。
その日一日、俺は彼女の言葉が頭から離れなかった。
そして、その晩、悪夢を見ることになる――暗闇の中、小さな女の子がこちらをじっと見つめている夢を。
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