第3話

 居候の女が火にかけた銀色のやかんの中に閉じ込められた水たちが、沸点に達し勢いよく笛を吹き始めるまでにそれほどの時間は掛からなかった。

 が、その間、二人の間には一言の会話もなく、俺は適当にスマホを弄り、女は椅子の上であぐらを組み、テーブルの上に左手で頬杖をつきながらファッション雑誌を読んでいた。知り合ってから久しい二人ではない。初対面の二人だ。その沈黙は金でも銀でも銅でもなかった。

 ときより脱衣場の方から聞こえるおかんの化粧道具を開け閉めする音や鼻歌は微かに聞こえたが、むしろそんなのが聞こえるくらいの沈黙だった。

 その沈黙を破る笛の音に気づき、女は組んでいたあぐらを解き、椅子から立ち上がり、ゆっくりとコンロの前まで行き、火を止め、流しに置いたマグカップをスポンジで軽く洗いそれをコンロの脇に置くと、キッチンの引き出しから黄色いパックを取り出し、中の粉末をマグカップの中にササッと入れ、そこにやかんの中の熱湯を注いだ。マグカップからは白い湯気が立ち上った。

 女は頭につけていた水色のヘアバンドを外し手が熱くならないようにするミトン代わりにし、両手をマグカップの横に添え、とても大切なものであるかのようにそれをテーブルまで運ぶと、さっきと同じ体勢を整え再び雑誌を読み始めた。

 沈黙はいまだ続いたままだった。

 女が一口マグカップに口をつけ、おそらくはレモネードだと思われるものを飲み始めようとしたとき俺は決意した。その一口を飲み終えたら話しかけようと。

「あのさ…。」

「何?」

 顔を上げることもなく返されたその声は、とても乾いた冷たい音で、どことなくめんどくさそうだった。

「まずさ、お前のこと、なんて呼べばいい?しばらくここにいるんだろ。」

「玉依れいあ。みんなからはれいあとかれいちゃんとかたまちゃんとか呼ばれてる。好きなように呼んでくれていいけど・・・。」

 女はいきなり身を乗り出し俺に顔を近づけ低く小さな声で言った。

「お前って言うな。年上だから。」

 れいあの顔を間近でしっかりと見たのはそのときがはじめてだった。

 前髪がかかり眉はハッキリとは見えなかったが、丸みのある輪郭に顎のあたりまでしかない短めのストレートの黒髪、小さめの唇はまっすぐに引かれ、上目遣いの睨みを効かせた目の中にあった大きめの瞳の色は少し赤みを帯びていた。

 別に威圧感に押されたわけではなかったが、俺は

「わかった。」

とだけ言い、会話を続けようとした。

 だが、れいあにその気はないようで、身を引っ込めると再び読んでいた雑誌に視線を戻していた。

 そのタイミングで、化粧を終えたおかんが黒い柄の入った白のロングワンピース姿で脱衣場から出てきた。

「そろそろ行くから。さっきも言ったけど、ふたりとも仲良くね。あと、れいあちゃんは閑の部屋をそのまま使っていいからね。じゃあいってきまーす。」

 そう言うとおかんは手を振り、黒い小さなショルダーバッグを肩に掛け、白のヒールを履き、玄関の扉を開けて出ていった。

 閑というのは俺の4歳年上の姉貴だ。1ヶ月前に彼氏と同棲することになり家を出ていった。閑なのにうるさい、と皆にからかわれるのが定番のおしゃべりでおせっかいなやつで鬱陶しいことも多かったけど、姉貴が出ていってから気づいた。沈黙よりはましだ。今この部屋に姉貴がいてくれたらどれだけ助かったか、と心底思った。

 だが、沈黙は意外な形で破られた。

 雑誌を読む手を止め、マグカップの中の飲みものを一口だけ啜って、れいあは言った。

「お前、嫌なのか。私と一緒にいるのが。」

「いや、嫌ってわけではないけど・・・。」

 何をいきなり言い出すのかと思えば、れいあはどストレートな質問を投げてきた。正直どう答えるべきかとまどっていると

 にゃあ〜、という声と共に一匹の猫がれいあの足元にぴょんと飛び乗った。

 体毛のほとんどが白く、頭の部分だけは黒や明るい茶色の毛が混じったオス猫だ。

 1年くらい前に、おかんがうちのマンションの駐車場の背の低い木の茂みで毎日にゃあにゃあと鳴いているのに気づき、親猫もいないみたいだからと言って、ついに拾ってきて飼うことになった。そのときは、まだ生まれたばかりの仔猫だった。ミルクをくれくれとよく鳴くので、名前はクレと名付けられた。

「ごはんの時間じゃないのか?」

 クレの頭を右手で撫でながら、まるで召使に言いつけるような声だった。

「お前がやれよ、懐いてるみたいだし。」

「この猫、お前が飼ってるんだろ。じゃあ、お前がやらないと。」

 はぁあ。俺は小さくため息をついた。

 俺は炊飯器の置いてある棚にしまってあるキャットフードの袋を取り出し、小さな肉球の柄の入った陶器製のフードボウルにバラバラとフードを注いだ。にゃあ〜、にゃあ~。クレはもうれいあの足元を離れ、今度は俺の足元で鳴き、目の前の丸い小さな茶色い固形物をガツガツと食い始めた。

「さっき、また私のことをお前って言ったよね。次言ったら殺す。」

 真顔だった。

 正直、言ってる意味もわかんないが、イラッとした。

「何なの、お前、ほんとに。」

 俺はあえてまた言った。どうして、いきなりうちに転がり込んできたやつにこんなこと言われなきゃいけないのか。そして続けた。

「だいたい、私は神とか・・・頭おかしいやろ。」

「事実だから言っただけなんだが。」

「なら見せてみろよ、お前が神だってわかる証拠。」

「断る。」

「笑うわ。どうせできないだけだろ。」

「お前がそう思うのは勝手だが、私はお前の指図なんて受けない。」

「はいはい、わかりました。俺もう部屋いくわ。」

 呆れた様子で俺はそう言いい自分の部屋の電気ポットを取りに行き、水を入れるため再びキッチンに戻った。れいあの姿はなかった。俺は食器棚からカップラーメンを取り出し、電気を消し、自分の部屋に戻った。

 電気ポットの水が沸騰するまでのあいだ、なんというわけでもないが例の動画をもう1回見てみようと俺は動画のアップされていたSNSサイトにアクセスして検索してみたが見つからなかった。れいあがその存在に気づき削除されたのかもしれない。

 れいあ。自分を神とか言っちゃうヤバいやつ。いきなり居候してきたくせに偉そうなやつ。ハッキリ言って、気が全然合わない。会った初日から険悪なムード。うちにしばらくいるのは仕方ないとして、極力関わらないように距離を置こうと俺は決めた。




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街で宗教勧誘のため可愛い女の子に声を掛けたら神様だったので断られた件 ぎゃん @gyanchan

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