これはあたしのいとしいこ

きなこ

空が透明に晴れた日曜日、あたしはナナと電車に乗っていた。


普段あたしは殆ど外出しない。


それは生活のすべてが家の中で完結するからで、外の世界があんまり好きじゃないからだ。


同居人のナナがあたしを外出に誘っても、「イヤ」とひとことあたしが言えば、ナナは大体ちょっと不満そうな顔をしてから「こんないいお天気やのになァ」なんて言いながら一人で出かけていく。あたしはこの「あんたがひとりで行けばええやん」の表情と仕草で、鶴見緑地へのピクニックも、北梅田の新しい公園への散策も、すべてを回避してきた。ナナは公園が好きなのだ、曰く「公園はタダだから」。

でも、この日のナナはいやに強硬だった。まるでひと晩泣いた後のようなカサついた頬で、腫れぼったい瞼で、あたしがナナの言葉をどんなに「しらんわ」って顔で聞き流しても「ハッチ、行くよ」と言うだけ、にこりともしない、どうやら機嫌が悪いらしい。


―がたんごとんがたんごとん。


普段乗ることのない電車があたしとナナの体を同じリズムで揺らす。淀川に掛かる巨大な鉄橋の上を滑るように進む電車の中で、ナナは「うちがハッチに会ったのって、長堀橋のビルの屋上やったな」とぽつりと言った。ナナは向かいの窓の外を見ていた、瞳に空と雲が映る。


あたしとナナが出会ったのは、ナナが高校生だった頃だ。あたしが幾つだったのかは記憶にない。でもナナが言うように、長堀橋にある小さな雑居ビルの屋上であたしたちは初めて出会った。あの日のナナは紺色の制服を着て、錆びて腐食した屋上の柵から身を乗り出していた。


 ―死にたい子か。


 あたしはそう思った、路上に人のまばらな冬の真夜中のことだ。そのビルは管理がすこぶる雑で、各階の防火扉の前にはビールケースや段ボール箱が詰まれ、屋上への出入り口には施錠という概念が存在せず、ゴミは適当にそれぞれの入居店舗が店のドアの外や裏口に出す。故にゴキブリとドブネズミと野良猫の王国で、ちょっと前までは自殺の名所だった。


―あんた、ここ、最近真下に椿の植え込みがでけたんよ、せやから確実に死ねるか分からへんで。


あたしは青い顔をしたナナにそう言った、それから、親切のつもりでこうも言った。


―死ぬなら隣のビルは九階建てやし、そっちの方が確実やわ。


それなのにナナはあたしを抱きしめて、「ありがと、やさしいなァ」と言ってわあわあ泣いたのだ。あたし別になんもしてへんのやけど。


それからナナはよくあたしを訪ねて来るようになった。当時居酒屋でアルバイトをしていたナナは、週末の夜十時頃に店の残りの唐揚げやだし巻きを手に提げてやってきて、あたしの名前を呼んだ。


「ハッチー!ああいた、元気?」


その日ナナは、いつかの情けない顔で泣いていたナナとは打って変わって、「うち、進学できそうなんよ」と、嬉しそうに笑って言った。


ナナが産まれた時、ナナの家は母子家庭だった。母親はタイ人でナナが十二歳の時ナナを置いて帰国し、その後はミナミで飲食店をやっていた父親がナナを引き取った。あたし達が出会ったあの晩は、その父親が出奔した日だったらしい。


「パパってな、優しいしカシコやねんけど、脳みそ半分チンコやねん。うちのママと別れて即フィリピン人と結婚して、その人と結婚中にメキシコ人と付き合うてフィリピンの人と別れて、そんでメキシコ人の…ああマリアって人やねんけど、その人と一緒にミナミでテキーラバーとかやってて、ついこの前それ潰してブラジル人の女と逃げたんよ」


ナナが言うには、ナナの父親はちょっと俳優のような見た目の男で、女に酷くだらしないが頭は良く、語学に堪能で英語とスペイン語とタイ語と日本語の四ヶ国語ができた。それで若い頃は北浜の商社に勤めていたのだけれど、三十歳半ばに退職して飲食店を始めた。一時は客入りも良く繫盛していた店は、ある時期を境にぱたりと客足が途絶えて最後は夜逃げ同然、その脳が半分下半身でできている父親は、店と家族を捨てて女と逃げた。


「でもパパの元カノで、うちとも一緒に暮らしてたマリアがな、うちが学生の間は月にこんだけ仕送りしてあげるって」


ナナは手をパーにしてあたしに出して見せた、「五万円」。ナナの進学先の看護専門学校からは奨学金が出る、あとはアルバイトをしてマリアの仕送りをそこに足せば、なんとか部屋を借りて暮らしていける。


「だからハッチ、うちと一緒に暮らさへん?」


ナナが天満の駅裏に借りたアパートは古くて狭くて風呂の追い炊きができず、洗濯機は外廊下に直置き。十八歳の女の子が新生活を送るには、ちょっとあんまりな感じではあったけれど、日当たりが良く、なによりも家賃が安かった。


あたしはナナと暮らすことにした。ナナは毎朝専門学校に行き、夜は高校時代からバイトをしていた居酒屋で働いていた。それが一年生の冬頃からマリアからの仕送りが途絶えはじめ、次いで連絡がつかなくなると、居酒屋を辞め、曽根崎のガールズバーで働くようになった。


「客のオッサンが全員キモいけど、時給がいいし」


ナナはそう言って笑ったけれど、日に日に表情が暗くなり、突然なんの脈絡もなく泣き出し、大量の食べ物を胃に詰め込んではトイレでげえげえ吐くようになった。


「ハッチ、うち実の母親に捨てられて、父親に捨てられて、今度はマリアにも捨てられたんや、捨てられすぎちゃう、猫か」


あたしは、出会った頃に比べて随分と細くなってしまったナナの肩や腕や足を、そっとさすってやることしかできなかった。


―生き物はみんな、最期はひとりやから。


あたしはナナを慰めたつもりだったけれど、まだ若いナナにそんな理屈はわからない。ナナはそれから酷く痩せては、時折ほんのちょっと体重を戻しつつ、それでも専門学校を卒業して国家試験にパスした、あたしはずっとナナの傍にいた。


やや太めで童顔だったナナは、食べては吐く生活をしている間に手足が細くなり、肉に埋もれていた瞳が大きく目立つようになり、年頃のせいもあってすっきりとした顔立ちの綺麗な娘になった、するとたちまち男が寄って来るようになる。


「整形外科の先生が、うちのこと可愛いなァって」


痩せて綺麗なったナナは病院で働き始め、時折頬を桜色に上気させて、どこそこの誰が自分のことを可愛いと言ったとか、好きだと言ったとかを、あたしに話すようになった。でもあたしはその手の話に一切耳を貸さなかった。毎度不機嫌な顔をして「あのね…」とナナが言い出した途端にぷいと席を立ち、次いで至極つまらなそうにあくびをした。そして相手を紹介するからと家に連れてきた時は、玄関先で威嚇した。


―帰れクソ雄!


大抵の男はあたしの剣幕に慄いて踵を返し、暫くすると大体その男が妻帯者だということが発覚し、別れる。その繰り返し。


「…奥さんが病棟に乗り込んできて、うちのことこの泥棒猫って、昼ドラか」


男と破局した晩、ナナはいつもあたしに抱き着いてぐずぐず泣いた。ナナが好きになる男は大抵ナナよりうんと年上で、皆ナナの父親にどこか似ていた。ナナは、寂しかったのだと思う。


あたしは、ナナが男に去られて自分は独りぼっちだと泣くたびに、自分の頬をナナの体に擦り付け、それから鼻や頬にちゅうと、キスをした。


―あんたは強い子、大丈夫。


あたしの言葉通り、ナナは年を重ねるごとに男に騙されなくなり、代わりに気の合う女友達が何人かできた。あたしはいい匂いのする柔らかな女の子が大好きだったから、彼女達が家に遊びにくるといつも歓迎した。きちんと挨拶をして愛想を振りまいて、皆と仲良くなった。


 そうやってナナは年々強くなり、代わりにあたしは年々弱っていった。一日の大半を寝て過ごし、食が細くなって、水もあまり飲まなくなった。ナナはそんなあたしを心配して、嫌がるあたしを、無理やり病院に連行した。


「腎臓が弱っています、そう長くないかと」


 男嫌いのあたしのために、女医さんのいる病院を探して受診させたそこで、あたしは腎臓が弱っていると診断され、ナナはとぼとぼとあたしを連れて帰った。


 ―仕方ないねん、誰でもいつかは死ぬのやし。


 あたしはもう死ぬのがいいとナナに伝えたけれど、ナナはあたしにやれ薬を飲め、これは体にいいから食べろと煩く言い続けた。でもそれも最近はあまり言わなくなり、休みの日にはベッドに一緒に横になって、あたしとの思い出話ばかりするようになっていた。


「うち、ハッチと初めて会った時は高校生やったのに、もう三十歳やで」


 ―あんたも大人になったんやね、なら、あたしが死ぬのもしゃあないわ。


 そして今日、あたしはナナと緑の眩しい外の世界に出た、部屋の外に出るのは本当に久しぶりだ。ナナとあたしが電車を降りると、駅前のロ―タリ―に白いミニバンがあたし達を迎えに来ていた。


「それではその箱をこちらに、どうぞ」


 車に揺られて辿り着いた白い建物の中で、ナナは両手に抱えていたAmazonのダンボール箱を銀色のワゴンにそっと置いた。中には白いタオルが敷かれ、ナナが近所のスーパーで買ってきた花が隙間なく敷き詰められている。ガーベラ、バラ、トルコ桔梗、カスミ草。ナナが朝一番でスーパーに行って買い占めた花花花。


 箱の中央には、痩せた白黒のハチワレ猫。


 箱を乗せたワゴンは小さなガスチャンバーに入れられ、その中であたしは白い骨になった。でも不思議なことに、あたしは体を焼かれてもまだ存在していて、こうして考えたり話したりできている。


 ナナはあたしの骨を白い箱に詰め、それを抱えて家に帰った。あたしは透明な猫になってナナの横をてちてち歩いた。もしかしたら話したり考えたりできるのは今だけで、じきにすべて消えてしまうのかもしれない。


―ナナ、あんたを世界で一番愛していたのはあたし。忘れないで、あたしのいとしい子。


ナナはアパートの扉を開けると、いつものように「ハッチただいま」と言って、それから玄関で大声をあげて泣いた。


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