どうしてもと言うので僕の唾液を君にあげます

濡山

第1話 契約

今日は幸せな誕生日だった。

鷺宮瑠々子さぎのみやるるこは十七歳を迎えた今日を、多くの人に祝ってもらい、満ち足りた一日を過ごした。笑顔を絶やさない友人たち、華やかな部屋の飾り付け、素晴らしい贈り物。それらに思いを馳せながら鏡台の上にブラシを置いた。就寝前に長い黒髪を丁寧にとくのが彼女の日課だった。

いつもならそこでベットに入るのだか今日は違った。一日中感じていた異物感の原因、左目の眼帯に手をかける。

物もらいだと言えば、誰も深追いなどしなかった。誕生日に物もらいなど残念ね、など言葉を交わせばそれで終わりだった。しかし、瑠々子にとって何一つ終わりなものなどなかった。不安も疑問も恐ろしさもすべて圧し殺し、今日という日を滞りなく終わらせるため、必死に隠していたものをそっと露にした。

透き通るような紫、その美しい色がきらきらと光を反射していたのは、昨日までごく普通の焦げ茶色だった瑠々子の瞳だった。

「なんなの…これ…」

視覚に変化はない。痛みもない。ただ以前とはまったく違うモノになってしまった。何かの病だろうか。瑠々子がもっとよく見ようと鏡に身を乗り出したときだった。


「やぁ、瑠々子。」

突然背後から声を掛けられ、驚きのあまり言葉を喉に詰まらせたまま瑠々子は振り向いた。

部屋の中央に立っていたのは見知らぬ男だった。長身で長い髪、あまりにも整いすぎている顔立ちに白すぎる肌、そして紫色の瞳、すべてが人間離れしていた。

「だ、誰なの…」

「俺はヒル。悪魔みたいなものだよ。十七歳の誕生日、おめでとう瑠々子」

にっこりと微笑みを向けられるも、一つも親しみを感じられない。得体の知れない存在に恐怖を感じつつも瑠々子は動揺を必死に隠そうとした。

「…悪魔?…なんで私の名前…」

「人間達はそう呼んでいる。まあ、そう警戒するなよ。殺したりしないから」

気安いような、それともこちらに興味がないからなのか軽い態度をとる男は、不躾に瑠々子の部屋をじろじろと眺めるとベットの上に腰を下ろした。

「さすが金持ちの一人娘。広くていい部屋だ。ベットもふかふか」

「…殺さないなら、悪魔が私に何の用があるの」

「用?それだよそれ」

鏡台の前に立つ瑠々子に真っ直ぐと視線を向け、ヒルは人差し指でその左目を指した。

「俺と瑠々子が結んだ契約。十七歳になった今日、ようやくそれを行使できる。その紫の瞳は契約の証だよ」

「…私はそんな契約してない」

「いいや、したよ。ただ思い出せないだけだ。俺は君から貰わなければならないものがある」

見知らぬ侵入者が語る契約の話など身に覚えがなかった。すぐさま破棄を口にしようとした瑠々子は息を飲む。瞬きしたその瞬間、突然ヒルの顔が目前に現れたからだ。


「屈辱だ。君の“屈辱”を頂く」


距離を無視したその動きは人間には不可能だった。常軌を逸した状況に、じわじわと恐怖が足元からやってくる。


一体、私は何を相手にしているのか。


「…屈辱…?何…それ…知らないものは従えない」

それでも瑠々子は精一杯の虚勢で男を睨み付けた。

「反抗的だなあ、別にいいけど。いつまでもつかな」

「…出てって」

掠れたか細い声が出た。それでも怖気づいた自分を奮い立たすようにもう一度声を上げる。

「出てってよ!」

「…わかった、わかったよ。そんなに頑なならしょうがないな。」

ヒルはおどけたような笑顔をみせた。

「まあ、驚くのは当然だろうから。今日はもう帰ろう。…じゃあ、またね」

別れの言葉と共に悪魔は突然消えた。すでに跡形もない。悪魔と名乗る男はあっという間に言いたいことを言って忽然と姿を消した。

まさか出ていけと言ってすぐに出ていくなんて思ってもいなかった瑠々子は拍子抜けし、消失した場所を呆然と眺めていた。


屈辱を頂く?


一体どういうことだろうか。

そして契約とは一体何なのか。

通報するか…でもだれがあんな説明もできない消え方をするものを信じる?

得体の知れない存在が消え、急に安堵感が溢れる。もうこのまま眠ってしまおう。疑問は増える一方だが、考えてもわからないものはわからない。もしかしたら夢なのかも知れない。悪魔なんているわけない。瑠々子はベットに潜り込み現実逃避のように眠りについた。

台無しになった誕生日に小さくため息をついて。



「鷺宮さん、大丈夫?」

クラスの友人である鴨瀬沙弥乃かもせさやのが不安げな顔で瑠々子の顔を覗きこんだ。沙弥乃は生真面目な性格で世話やきだ。すぐに瑠々子の不調を感じ取り、声を掛けてきた。

「顔、真っ青だよ…?保健室行く?付いていこうか?」

「…昨日はしゃぎすたのかも、大丈夫、一人で行けるから」

「そう?でもほんとに昨日楽しかったもんね。素敵なおうちだったなあ、鷺宮さんもはしゃぎ過ぎたりするんだね」

「まあね。…じゃあ行ってくる。次現国だよね?悪いけど谷村先生に伝えてもらっていい?」

「うん!わかった!」

席から立ち上がると酷く目眩がした。しかし沙弥乃には悟られないようなんとか平静を保った。学校で弱っている姿など晒したくない。瑠々子は裕福な家庭で育ち、学校では生徒会長を務め、学業も成績トップ。自分が憧れや尊敬の眼差しを向けられる存在であることはわかっている。ならばその理想を壊したくなかった。それは自分が作り上げたものであり、自信を持っていたからだ。弱みなどあってはならない。完璧でありたいとさえ思うようになった。その自分を守るためにそんなものあってはいけないのだ。

しかし体調は悪いどころではない。最低だった。痩せ我慢をして登校したものの、二限目までもつ気がしない。始業ぎりぎりの時間だったため人もまばらな廊下に安堵しながら、瑠々子は壁に手をつきながら一階の保健室に向かった。


「具合が悪そうだなあ」

保健室の扉を開けるとそこにいたのは、昨晩自分を悪魔だと語るヒルだった。養護教諭が座るはずの椅子に腰かけ、当たり前かのように瑠々子を迎えた。こちらを気に掛けるような口ぶりでまったく心配している様子はない。

「なんで…ここに…」

「なんでだと思う?」

質問に質問で返される。ふざけた態度に言葉を発することさえ億劫で、そのまま翻し、保健室を出ようとする。


「どこに行ったっていいけど、お前は数時間後に死ぬ」


「な…」

死ぬ?しかしその単語は重々しく頭に響いた。それほどまでに瑠々子の衰弱はひどくなる一方だった。どこが悪いのかもわからない、今までに経験のしたことのない苦しみが瑠々子の体中を蝕んでいた。

「契約破棄の代償は“死”だ。」

「そんなの…知らない」

瑠々子の言葉に悪魔はハアと息を漏らす。

「昨日からそればっかりだな、瑠々子は。悪いけどそんなのは関係ないんだよ。代償は必ず払われる。現に今すごく辛いだろう?」

ヒルが青ざめた瑠々子の顔を覗き込んだ。

「…お前が生き延びるためには俺に従うしかないんだよ。

どれだけ待ったと思ってるんだ」


ヒルの言葉もうまく頭に入らない。唇が渇き、吐き気がする。瑠々子はついに立っていられなくなり、力なく膝をつく。その時、入り口の扉が音をたてて開いた。

「瑠々子…!」

今にも床の上に倒れ込みそうなぐらつく体を力強く支える腕があった。それは瑠々子にとって嫌というほどに見知った人物だった。

三郷みさと…」

弱った瑠々子をしっかりと抱き寄せる小柄な少年に、瑠々子は身をよじって抵抗する。

「離して…」

嫌悪感に眉を顰めながら、それでも瑠々子は絞り出すように訴えた。

「やあ研也けんや。随分嫌われているようだな」

突然現れた存在にも動じず、瑠々子に少年が避けられている様子を見てニヤニヤと笑うヒル。人を馬鹿にしたような態度をとるヒルを意にも介さず、少年は言葉を返した。

「…早く話せ。大事な食い扶持を殺す気か?」

「まさか」

ヒルは瑠々子に近づくと、冷たい指先で瑠々子の細い顎を掴み上に引き上げた。

弱々しく瞬く瑠々子の瞳をヒルが覗き込む。

「生きたいか?瑠々子」

瑠々子の視界一杯にヒルの無邪気で悪意にまみれた笑顔があった。

完全に自分の命を弄び、苦しむ姿を楽しんでいる笑顔に瑠々子は絶望を覚えた。

そして理解してしまった。目の前の男が本当の“悪魔”であると。


「…どうすればいいの」

「まずは瑠々子に質問だ。君が最も嫌悪する人間は誰だ?」

突然の問いかけに瑠々子は戸惑いつつも一人の人物がすぐに頭に浮かぶ。


「それはこいつ…三郷…研也」


瑠々子が名前を挙げると視界の端で少年は少し悲しげな目をしたようだったが、そんなことは瑠々子にとってどうでもよかった。

ヒルもそれ対し、がっかりしたように大げさに眉をひそめた。

「本当に研也でいいのか?他にもいろいろいるんじゃないのか?」

「他なんていないから…」

「本人もそういってる。早くしろ」

研也に急かされたヒルは「ハイハイ」と適当な返事をし、おもむろに指先を差し出した。その切っ先が宙で円を描くと小さく何かを呟いた。


「では今から、瑠々子は研也の体液を飲まなければ死ぬ体になった」

「…は?」


「聞こえなかったかな?研也の体液を飲まないと死ぬと言ったんだ」


頭が真っ白になる。瑠々子は言葉がとっさに出てこず息を詰まらせた。

ありえない。

ありえない。

ありえない。

「…なっ…」

「処女なのに残念だなあ!飲まなきゃいけないんだよ瑠々子はこいつのせ」

「おい」

屈辱的で乱暴な言葉を研也が静止する。

「体液だろ?唾液で十分だ。…嫌いな奴の唾液なんて最低だろ」

「…つまんないなあ。まあでも、そうか唾液でも瑠々子にとっては屈辱か。」

「嫌よ…!!なんでこいつの唾液なんか飲まなくちゃいけないのよ…!」

「瑠々子忘れたのか、俺は言ったろう?君の“屈辱”を頂くと。

今、大嫌いな奴の魂にお前の魂を寄生させたんだ。だから瑠々子は研也がいないと生きられない。命をわけてもらうという意味で研也の唾液を恵んでもらうんだよ。とても屈辱的だろう?」

「い…いや…いやああああ!」

瑠々子は抱きとめる研也の腕を振り払った。床の上に無防備に転がり落ちるもそんなことに構っていられなかった。

「いいね、いいねえ!その心からの叫びっていうのがこの身に染みるよ…!やはり17歳まで立派に育ったプライドは最高においしいなあ!」

心身が弱りボロボロになっても必死に泣き叫ぶ瑠々子に研也がそっと近づき、彼女の前にハンカチを差し出した。

「俺の唾液を湿らせた…これを吸え」

「いやッ…!」

「…死にたいのか?」

研也の瞳はまっすぐ瑠々子を見ている。そんな研也を瑠々子が力一杯睨みつける。

「死んでもいいっ‼死んでもいいからそれでも嫌なのっ‼」

差し出されたハンカチを瑠々子は乱暴に叩き落とした。

その瞬間、瑠々子は強引に顎を掴まれ、その口に拾ったハンカチを強引にねじ込まれる。

「やッ…んぐッ……ふッ…」

弱り切った体では瑠々子は身動きがとれず、それでもハンカチから逃れようともがく。悔しさにまた涙が滲む。自分には暴力に対抗する術がないわけではなかった。護身術なども嗜んでいた。だけれど何の抵抗も意味をなさない。力の入らない手足をぶら下げ、呆れるほどに自分は無力だった。

抵抗をやめない瑠々子に研也がそっと顔を寄せ、耳元に囁いた。それは力づくで抑え込む態度とは真逆の優しい声音だった。

「安心しろ…誰にもいわないし、仕方のないことなんだ…

瑠々子は死ぬ必要なんてないんだから」


…そうだ。これは仕方がない…そして私は死にたくない…。

その気持ちに身を委ね、ささやかであったが抗う力を抜いた。

ハンカチを一口吸う。

それは眩暈がするほどに甘く、体が満たされた。抱えていた苦しみから一気に解放されていく。

その心地よさに夢中で吸い続け、いつの間にかどちらのものか分からなくなった唾液が首筋を伝い、だらだらと雫となって床を汚す。

部屋中に羞恥心を捨てきったくちゅくちゅとあられもない水音が響く。浅ましき姿を隠すこともできず、ただ恍惚とした感覚に身を委ね、瑠々子は意識を手放した。

遠くでぼんやりと悪魔の下品な笑い声が聞こえていたような気がした。


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