第一章 余里館市

 午前七時四十五分、少年は強い倦怠感を伴いながら、夢から醒めた。

 額にじっとりとした汗がうかんでいた。心臓の鼓動が全身を強く響かせる。

 再び静かに目を閉じ、夢を反芻する。

 夢の中では少年はまだ小学生だった。空の浴槽の中でうずくまって震えている。風呂場の小窓からは西陽が差し込んでいた。

 外に出てはいけない。外には鬼がいる。人を食らう鬼が唸り声を上げて徘徊していのだ。ここに隠れていれば安全だが、外には逃げ遅れた友達がいることも少年は知っていた。

――助けなきゃ。

――無理だ。

――友達が食べられてしまう。

――見つかったら、こっちも食べられる!

 やがて絶叫が外から聞こえてくる。名前も顔もわからない友達の声だ。

 無力感と罪悪感が。

そこでいつも目が覚める。ここ三ヶ月ぐらい前からずっと毎夜に繰り返される悪夢だ

 天井に向かって投げやりに罵声をあげた。胸がズキズキと痛むほど、心臓が激しく脈打っていた。

 もう限界が近い。

それを突破してしまえば、二度と元には戻れない――そんな不安がとめどなく襲ってくる。

 シーツを力なく払いのけ、モゾモゾと身体を起こした。額にうっすら浮かんだ汗をぬぐうと、瞳を閉じて胸の鼓動がゆっくりと鎮まるのを待つ。

 身体に振動を感じるほどの鼓動がやがて弱まっていくと、ゆっくりと目を開いて机に置いてある時計を見た。7時30分。そろそろ学校に行く準備をしなければいけない。

外からは雨の音が微かに聞こえてくる。関東地方はもう四日も雨が続いていた。

ノソノソと時間をかけて着替え終わると、部屋を出た。

 彼の名前は霧本薫、もうすぐ17歳になる。


「うっわー……そろそろ散髪したら? 髪がヤバイことなってる。マジで通り魔殺人とか起こしてそう」

 一階のリビングに降りてきた薫を見るなり、妹の美輪の顔が歪んだ。

「お前、朝練だろ? なんでまだ家にいるんだよ」

 できるだけ妹の顔を見ないようにしながら、ソファに座る。

テレビのリモコンを手に取ると、適当なチャンネルを選択し、ボリュームを上げた。

とりたてて観たい番組はないが、うっとうしい妹の存在を誤魔化すには都合がいい。

「今日、火曜日だから朝練ないもん。まあ、美輪はエラいから、そんなのなくても、ちゃんと早起きするけど」

 美輪はテレビの前のテーブルに置いてあった鞄を手に取ると、兄を見下しながら「ふふん」と鼻で笑った。

 中学二年生。142㎝というちっこい身体に似合わず女子バスケ部に所属し、レギュラーの座をキープしている健康優良児だった。制服を少し着崩しながらもあまり粗野に思えないのは、あどけなくも、猫っぽい顔だちと快活な雰囲気のおかげなのか。

 どうしてこんな妹の兄として生まれてきたのか、顔を合わすたびに自分が情けなくなる。

首を傾げて窓ガラスに写った自分の顔を眺めた。

ここ三ヶ月ほど放ったらかしにしていた薫の髪は寝癖のせいもあって、暴風雨にさらされたように乱れていた。

 気力のない瞳に、締りのない表情‥‥‥確かにゾンビっぽいかもしれない。

もともと身だしなみには無頓着だが、ガラス窓にぼんやり映った自分の惨状には、薫自身もさすがに顔をしかめざるをえなかった。

「あ、ここ、あたしの通学路だ」

 兄からテレビに興味を移していた美輪が、不意に素っ頓狂な声を上げた。

 つられて視線をテレビに向ける。見覚えのある風景が液晶画面に映っていた。

「世界初の内界エネルギーの実用化に成功したこの街で、非常に陰惨な事件が先月から立て続けに起こっています。昨日の未明、誰も使用していない廃工場で、全身をまるで猛獣か何かに食い荒らされたかのようなむごたらしい遺体が発見されました。類似の事件がこれまでに三件おこっており、余里館市は不穏な空気に包まれています」

 慌ただしい身振りを交えつつ、レポーターは廃ビルの前で事件の概要を説明している。

 昨日の事件で四件目。その全てで複数の人間がその場に立ち会っていた痕跡があるという。薫や美輪が通っている学校の近辺で起こっている事件だが、生徒たち自身、この話題をどこか避けているのか、あまり話題に上ることはなかった。

「うわぁ、マジかぁ‥‥‥これで三件目じゃん。さっさと犯人捕まりゃいいのに。もー、マジ最悪だよ、これのせいで部活も四時で終わんなきゃダメだし。試合も近いのに」

ソファの背もたれに両肘をかけ、唇を尖らながらテレビを見ていた美輪が不意に薫に顔を向けた。

「ねえ、これってさ」

 美輪の生意気な笑みが視界に広がる。

「きっとお兄ちゃんみたいにキモいヤツが犯人だよね」

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真夜中の幻覚者たち 和泉 和久 @izumiwaku

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