真夜中の幻覚者たち
和泉 和久
序章
西暦二千四十五年十月九日、午前三時過ぎ。
霧雨が降りしきる夜だった。人口二百万人規模の余里館市はうっすらと肌寒く、街そのものが眠りについたかのように静かだった。
雨に覆われた街を無数の街灯が朧気に照らしている。信号機の鮮やかな色灯は、濡れたアスファルトを艶めかしく彩っていた。道の端々に出来た水たまりは音をたてることなく、無数のかすかな波紋をつぎつぎと生み出しては消えている。
そして街を取り囲むようにして建設された十三基の巨大な内界エネルギー集積アンテナは、無防備に雨を浴びつつ、黙々と糧となる人々の心を吸い上げていた。
冷たく湿った空気は淀んだ夜の底に少しずつ沈殿し、積もっていた。
本当に静かな夜だった。赤ん坊の微睡みのように穏やかで安らかな夜だった。時間すら時を刻むのを忘れて眠っているのではないか――そう錯覚してしまうほどに。
街の大半の人々は眠りについている。今日の続きである明日を待ちながら。
濡れた暗闇の底を少女は駆けていた。
肩から斜めに下げた、薄汚れた濃緑のショルダーバッグが激しく揺れる。
纏わりつくような雨を切り裂くように走り、大通りを抜けて細い路地へ走りこんだ。
しばらく走ると目の前に、高さ二メートル程度のブロック壁が立ちふさがる。袋小路だ。だが、少女はスピードを落とすことなく、壁に向かって駆け寄ると、なんの躊躇いもなく跳躍した。
ブロック塀に手をかけ、いともたやすく反対側にある空き地へ身を躍らせると、しなやかに着地した。
すぐに塀の向こう側から複数の慌ただしい足音が聞こえてくる。少女はピタリと壁に身を寄せ、息を潜めた。
「MFFの反応はどうなってる?」
「反応が読み取れません。ここらへんは特に共有思念領域の“ほつれ”がひどくて‥‥‥」
焦燥を押し殺した声が壁を通してかすかに聞こえてくる。
「くそ――っ」
短い唸り声。
「いや・・・・・・まだ遠くにいってないはずだ。」
「主任、この辺りのMFF値は臨界点をこていませんよ、アイツは発症者じゃないんじゃ‥‥」
男たちの声には、焦りのほかに微かな怯えが混じっていた。
「あの廃ビルにあったあの死体を見ただろ。どうみたってMESを発症したヤツの仕業だ。もしアイツが発症者じゃないとしたら――」
主任と呼ばれた男の言葉、そこでいったん途切れる。
「とにかく、いざという時は躊躇うな。これ以上の外界化現象は阻止するんだ」
やがて、男たちは複数のチームにわかれると、街の隅々に散っていった。
彼ら気配が消えるのを確認すると、少女は大きく息を吐き出し、立ち上がった。
霧雨に包まれた街灯の淡い光が、その華奢な姿をぼんやりと照らす。
暗闇と同化したような濃紺のブレザーとスカートに身を包み、胸元には鮮血を思わせる真っ赤で小さなリボンが結わえていた。
周囲に漂う空気は凍てつくように寒々しく、冷えきった瞳がある一点を見定める。
彼女の視線の先には、壁にスプレーで大きく描かれ落書きされた一文があった。
『滅びの日は近い』
少女がこの街で同じ落書きを目撃したのは、これで三つ目だった。
――――そう、滅びの日は近い。
薄桜色をした唇から、微かな呟き声が漏れる。
次の瞬間、少女の姿は音もなく暗闇に溶け込み、消えた。彼女の気配は霧雨によって少しずつ四散していく。
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