覚えていられなかった夜達に

楽天アイヒマン

覚えていられなかった夜達に

『酒に出会ったのは5年前だった。

当時19歳の僕は、高校生時代からの友人であるサイトウとよくつるんでは、夜中の駅前で遊んでいた。片田舎の中ではまだ賑わっていたその駅を、当時の僕たちは、自分たちにとっては分不相応なほど都会的だと思っていた。居心地の悪さを誤魔化すためにビクビクしながらコンビニで缶チューハイを買い、一気に呷った。

 酒とサイトウ、どちらも体に悪く、相乗効果は凄まじかった。ゆっくりと脳みそのネジがゆるまり、喋ることに意味が追いつかない感覚がただ楽しかったことを覚えている。感覚が僕の体から抜け出して、僕の一歩跡を歩いていた。電灯がぼやけて、テールランプが後を引いている光景は片田舎特有の美しさと侘しさを携えて、僕たちのウブで柔らかい心臓を滅多刺しにした。


 その夜から今に至るまで、休肝日はほぼないといっても過言ではない。明日は来ないと思って飲み続けた。その頃の僕はどうしようもない片思いをしており、いつだって死んでいいと思っていた。しかし自殺するだけの勇気と動機もないから、酒をひたすら飲めば、記憶がないうちにどうにかなると思っていた。

 一度だけ、片思いをしている女の子と一緒に飲むことがあった。僕は人見知りを拗らせており、酒を飲まないと喋れなかった。彼女とのデートに全力を注ぐべく、僕は瞬く間に一升瓶を干した。そしてヨレヨレになった僕を見て、彼女は楽しそうに呟いた。

 『あなた、30になったら死ぬね』

 その後のデートの行方は覚えていないが、そう言って笑った彼女の美しさは今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。


 思えば酒のために色々なものを失ってきた。みずみずしい感受性、記憶、友人、金、信用…仄暗い酩酊の沼に投げ込んでは、翌日の朝、頭痛と吐き気と闘いながら、投げ込んだものを慌てて引っ張り出した。水をがぶ飲みして、食べたくもない飯を詰め込んで、昼の2時頃にはようやく人間らしく振る舞える。投げ込まれたものたちもただ投げられるだけじゃないらしく、時折姿形を変え、なんでもない他人のようなふりをして、僕の中におさまろうとする。気づけたものもあるし、気づけなかったものもきっとある。そうやって僕はどうやら大人になったようだ。


 周囲からはアル中や依存症などと、心配と侮蔑半々の言葉を投げかけられる。しかし、冷静になって考えてほしい。何かに依存していない人間はいないし、依存というものはマイナスなイメージが先行してしまうが、プラスに考えればこれさえあれば大丈夫という、大変楽しい言葉にもなれるのだ。

 僕はたまたまアルコールに依存先が集中してしまっているが、他の人たちは恋愛や食事、仕事などに少しずつ依存して毎日を過ごしている。そういった生き方は大変素晴らしく尊いものだが、窮屈な気がするのは僕だけだろうか。僕にアルコールがなくなったら、きっと依存先がない、透明な幽霊みたいな人間になれるだろう。そして風が吹いたらどこかに行ける、いいようによっては自由とも孤独とも呼べるんじゃないだろうか。まあこれもアル中の自己欺瞞ではあるのだろうが。

 

 酒を飲むなら、一人で飲むか、飲酒のきっかけとなったサイトウのような下品なやつと一緒に飲みたい。サイトウは今でも月に一回は飲みに行く数少ない貴重な友人だ。

 彼女や家族といった、仮面を被らないといけない連中と飲むのなんか最悪だ。仮面は大きな瘡蓋のようなもので、それがアルコールによってふやけてくると、チクチクと青臭い痛みを発するようになる。なんで僕はこんな掃き溜めの底にいるんだ、あの時こうしていればよかった、なんてどうしようもない後悔や恨みが湧いてくるから、自然と仲良くする奴らは、僕と同じ、転がって生きているアル中だらけになった。

 その点、サイトウとは非常に馬があった。お互いのコンプレックスも似通っており、仕事、金、恋、家族。全てに敗れて、それでも生きているのが僕たちだった。

 僕たちを取り巻く毎日は最低だったが、何十回に一回か、美しいと思える夜がある。そんな夜は大体サイトウが横にいて、バカな話をして、悪態をつきながらビルの光を眺めている時なのだ。死神が鎌をブンブン振り回すのを、おっかなびっくり潜り抜け、一日一日の隙間にある誰も知らない時間で、僕達みたいな奴らは深い深いため息をつく。そのため息は酒臭くて、生ゴミ臭くて、夜明けみたいな臭いがした。


 きっとアル中になる人間は、過去の栄光が明るすぎる人たちなんだろう。その光が強すぎるほど影も濃くなり、酒が美味くなる。暗闇の中、提灯を眺めながら飲む酒こそ、脳を痺れさせる麻薬であり、トゲトゲした世の中をほんの少し柔らかくする麻酔薬なのだ。』


 もう5年も前の手記だ。手記を読み返すと、背中に冷たい鳥肌が立つ。あの頃は若かったなんてありふれた言葉で片付ける気はないけど、この手記はあまりに青臭すぎる。20代も半ばを過ぎた僕は、アルコールへの付き合い方を考え、一日一杯だけ飲むようにしていた。居酒屋に行っても、飲むのは最初の一杯だけで、あとは烏龍茶で過ごした。最初は辛かったが、断酒会に通い、なんとかアルコールへの依存から脱却できた。

 先日、この手記に登場するサイトウと一緒に飲みに行った。実に3年ぶりの再会だろうか。お互い少しやつれていたが、まだ10代の面影が残っていた。居酒屋で飲むことにして、道すがらお互いの近況を話した。雨足がだんだんと強くなっていく。

 違和感は雨音と共にだんだんと大きくなっていった。いまいち話が噛み合わない。何が違うのか、何がおかしいのか、必死に考えた。そして結論に辿り着いた。

 僕だ。僕が変わってしまったんだ。今の僕には守るものが多すぎる。もうあの頃の僕とは違うんだと、まざまざと見せ付けられた気がした。

 話もそこそこに、四時間ほどで僕たちは解散した。話した内容は全く覚えていない。しかしサイトウが人を貶す発言をして、僕がひどく怒ったことは覚えている。あの寂れた駅前で飲んでいた頃は、そんな下世話な話ばっかりしていたというのに。

 別れ際、サイトウに今何をしているか聞いた。彼はアルコール中毒になり、仕事どころではないと言って誇らしげに笑った。駅へ向かう足取りはフラフラとして、二度と振り返ることはなかった。

 数日後、サイトウは死んだ。自殺だった。

 僕が酒をやめて生を選んだように、サイトウは死を選んで酒を飲み続けた。僕も酒を飲んでいた頃は、自分がいつ死んでもいいと思っていた。それはやぶれかぶれでありながら、一種の爽快感があった。おそらくサイトウもそうだったんだろう。彼はそのまま突っ走っていってしまった。

 葬式には行かなかった。サイトウを偲んで部屋で一人、日本酒を飲んだ。めっきり肝臓が弱ったのか、グラス一杯を飲んだ時点でだいぶ酔っ払ってしまった。明日も仕事がある。悪酔いしないように、9時前に布団に入った。


 いつものように酔っ払った夜、僕は呂律の回らない口でサイトウに向かって叫んでいた。

「お前はなんで酒を飲む?」

『気持ちいいから飲むんだよバカ』そう言ってサイトウは笑った。それに勢いづいて僕は捲し立てた。

「そう、気持ちいいから飲むんだ。酒をやめて得られるのは、愛とか健康とかぼんやりしたものだけだ。それに比べて、アルコールは現実的な快楽をくれる。僕は現実主義だ。酒を飲んで夢の世界に行く奴らはバカだ。現実見ろってんだ」そう言って一気にグラスのウイスキーを干した。

 そろそろ記憶をなくす頃合いだ。僕達は会計を済ませて店を出る。火照った頬に冬の夜風が滑り抜けていく。

『じゃあな」そう言って駅へ向かうサイトウへ僕は叫んだ。

『またなって言えや』

 サイトウは振り返らず、駅へ歩いていく。その後ろ姿はグルグルと回って、いつしかプツリと暗くなった。

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