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アサヒさんのことを思い出した。昔、四回だけ銀座の喫茶店で話したきりのひと。そのどれもがせいぜい一時間程度だったから、私の知っているアサヒさんは、合計しても四時間分しかない。だから思い出す内容だって、いつも一緒だ。なにもかもが自分の外側を流れていく感じがしていた、と言ったときの静かに張りつめていた頬や、いくらでも私の話を聞いてくれたあの微笑。どんな小さな質問にも本気で答えてくれた明晰さ。私はアサヒさんについて、結局それしか知らない。
「……胡桃? ……泣いてるの?」
目の前がなんだか霞むな、と思っていたら、それはどうやら涙だったらしい。泣く、なんてことがそうそうないので、気が付かなかった。私は手の甲で涙を拭い取り、硬く唇を結んだ。
「胡桃が泣いてるの、はじめて見た。」
子供みたいに単純な感じの物言いで、深町尚久が言った。そして、ほんの少しだけ唇を曲げて、微かに笑う。
「っていうか、胡桃が感情を表に出すの、はじめて見た。」
「……。」
返す言葉が思いつかず、私は黙りこくっていた。口を開けば嗚咽が漏れそうでもあった。これまで、アサヒさんのことを思っても、涙が出たことなんてないのだから不思議だった。
「やっぱり、俺じゃないんだね。」
深町尚久は、やっぱり笑っていた。皮肉げでもなければ、無理をしているふうでもなく、彼はこれまで見たことのない種類の穏やかさで笑っていた。
「胡桃、そのひとのこと、やっぱり好きでしょう。」
「……分からない。」
「好きなんだよ。すごくね。」
「……そうかも、しれない。」
多分、認めるのが怖かったのだ。父の恋人だったのであろう、うつくしい男のひと。そんなイレギュラーな存在を好いていると、認めることはどうしたって怖かった。子どもだった私が、子供なりに張った防護壁。それがこの年になっても残り続けている。
「そうだよ。そうなんだよ。……よかったね。」
食卓越しに手を伸ばした深町尚久が、私の髪にそっと触れた。この程度の肉体的接触さえ、随分と久しぶりのことだった。
「よかった。よかったよ。」
自分に言い聞かせるみたいに繰り返した深町尚久は、微笑んだまま椅子を立った。
「俺、出ていくね。……一緒にいるの、やっぱり辛いから。」
私も椅子を立って、夫の後について玄関まで見送りに行った。いつもの朝の習慣だった。
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