五通目 知人の策略

 苦手な科目に赤点はなく、得意な科目で点数を稼ぎ、順位は真ん中より上にはいる。可もなく不可もない成績を収めてテスト期間を乗り越えた私は今日、昨年告知されてから公開されるのを楽しみにしていた映画を観に来た。

 映画特典が複数あることを知った私は黄浮くんに付き添いをお願いした。家が近いので一緒に行くつもりだったけれど、黄浮くんは午前中に予定があるということなので映画館の近くて待ち合わせをすることとなった。

 そこで事件は起きた。


「……え」


 予定よりも早く着いてしまい、黄浮くんが到着するまでまだ時間があった。カフェで待っている気分でもなかったし、天気も良いことだからとベンチに座り、イヤフォンをつけて音楽を聞きながら本を読んでいた。

 しばらくして、紙飛行機が飛んできたのだ。外で遊んでいる子どもが飛ばしたものではなく、いつものやつだと思ったのは読書に集中している私の膝に着地したから。

 紙飛行機は毎日飛んできた。それは学校がある平日の話で土曜日と日曜日に見かけることはなかった。ここにきて法則が崩れたことに驚いた私は目を丸めて、丁寧に紙飛行機を広げる。


「あ、なるほど」


 え、だめだろ。不意打ちで私服姿を目撃するのはだめだろ! 制服姿もジャージ姿も可愛いけど、私服姿は別格じゃん!

 そう書かれており、私は納得した。学校がない日に紙飛行機が飛んでこなかったのは犬走くんが私を見ていないから。……そうすると入学式以降毎日どこかで見られていたことになるのだけれど、そこは考えないようにして。

 つまり、犬走くんは今近くにいるということになる。顔を上げて辺りを確認する。そして、見つける。目が合う前からカッと見開いている犬走くんを。

 私と目が合うと犬走くんは離れたところからでも分かるくらい肩を震わせた。今日も反応が大きいなあと思いながら軽く頭を下げると、慌てて周囲を確認し始める。そして、近くに私の知り合いらしき人物がいないと判断してから犬走くんも頭を下げた。

 

「ど、も」

「……犬走くんって、やっぱり陽の人なんだ」

「え、何。どういうこと」

「私、出先で知り合いに遭遇するの少し苦手なの。声をかけるべきなのかなとか、どういう顔をすればいいのかなとか、いろいろ悩んじゃって。だから、気付かれる前に離れたり、目が合っても手を振るだけで終わらせちゃうから」

「そうなんだ。……あ、じ、じゃあ声かけない方がよかった!?」

「あ、ううん。そういう意味じゃなくてね! 距離があったのに声をかけてくれたから、きっとお友達が多くて、こうやって街中でばったりというのも多いんだろうなあって思ったの」

「そうでもないよ。というか、声をかけたのは小栗鼠さんだからというか、その、えっと、あー……」


 横断歩道を渡ってきた犬走くんは視線を彷徨わせながらも声をかけてくれた。音楽プレイヤーを一時停止してイヤフォンを外してから私も返事をする。

 言葉に悩む様子があったけれど、声をかけることそのものには迷いのない足取りだったので少し驚いた。それを素直に伝えれば、誤解を招くような言い方になってしまった。慌てて付け足せば、犬走くんは安心したような顔をして直接的な言葉を口にしていた。

 気付いていないのだろうか。……気付いていないんだろうなあ。後頭部を掻きながら話題を探している姿を見て、無意識の発言であったと捉える。指摘したらまた素っ頓狂な声を上げて躓きそうなので黙っておこう。


「イヤフォン」

「え?」

「本、読んでいるときさ。いつもイヤフォンしてるよね。何聞いてるの?」


 犬走くんは私が首からぶら下げている白色のイヤフォンを指差す。いつもという副詞に反応しそうなのをぐっと堪えて、音楽プレイヤーに視線を落とす。

 何を聞いているかと問われると回答に悩む。流行りの曲にも触れておけと黄浮くんが勝手に入れたものもあるけれど、大半はクラシック音楽やバレエ音楽。曲名やジャンルを言ったところでピンとこないだろうし、クラシック音楽やバレエが好きで聞いているというわけでもない。どうやって説明しようかと考え、ちらりと犬走くんの様子を窺う。

 雑談としてはおかしくない話題を選んだはずなのに、返事に悩む私を見て狼狽えていた。私がこういう会話に慣れていないせいで不安にさせてしまって申し訳ないなあと、再び音楽プレイヤーに視線を落とした。


「……あ、そうだ。よければ聞いてみる?」

「えっ」

「片方貸すから……あ、ごめんね。私のイヤフォン、有線だから抵抗あるよね」

「ない! そんなもの全然、一切、嫌なんて絶対に思わない!」


 黄浮くんは好きな曲を勧めるときにイヤフォンの片方を貸してくれる。それを真似て渡そうとしたところで気付く。私のイヤフォンは黄浮くんのものと違って有線なので、二人で使おうとしたら接近しないといけない。引っ込めるか両方貸すかしようとしたら、犬走くんは力強く否定して隣に座った。

 そこで犬走くんも気付いたらしい。有線のイヤフォンを二人で使うということはお互いの身体が微かにでも触れるほど距離を縮めないといけないということに。ぎこちない動きでイヤフォンを受け取っていた。

 身長差を埋めるように背を丸めた犬走くんの影が私にかかる。触れそうで触れない肩から伝わってくる緊張に指先が震えそうになるの。犬走くんに気付かれませんようにと願いながら再生ボタンを押す。


「この曲、なんかで聞いたような。……前にやってたドラマ?」

「そうなの! バレエ音楽の『くるみ割り人形』で、ドラマのBGMに使われていたやつ。そして、これはそのドラマの原作小説」

「ドラマで流れていた曲を聞きながら本を読んでたってこと?」

「そうやって読むのが好きなんだあ。まだドラマ化していない小説とかはこういう曲が合うかなあって考えてみるの」

「へえ。なんか面白そう」

「とっても面白いよ。小説の世界に没入できるし」

「小栗鼠さんって本当に本が好きなんだね」

「うん! 今日は黄浮くんとこの小説の映画を観に行く予定なんだあ」

「え、黄浮と?」


 曲を聞いて犬走くんが連想したものは私の選曲理由。朱道ちゃんでさえ説明しなければ思い浮かばなかったことなのに、同じものを連想してくれたことが嬉しくて声が弾む。そんな私に犬走くんはまばたきをしてからとろんと柔らかく目を細めていたこととか、掠めた指先がとても熱いこととか。気付いていたけれど、そこを意識してしまうと顔に熱が集まりそうなので見て見ぬふりをする。

 平静を保つためにも黄浮くんの名前を出すと、犬走くんは目を丸める。私と黄浮くんが仲の良い従兄妹という関係であることは知っているはずなのにどうして驚いているのだろうと首を傾げる。犬走くんは頬を掻き、驚いた理由を言い辛そうにしている。


「……俺、今日は黄浮と遊ぶ予定で」

「え」

「あいつがここに待ち合わせって言ったんだけど……」

「あ、あー……」

「ごめん。ちょっと待ってて」


 あのやろう、やりやがった。私と犬走くんの考えていることが一致した瞬間である。

 犬走くんから見たら私は巻き込まれただけで何も知らない状況だと思うだろう。大変言いにくいことだけれど、黄浮くんが意図していることは私にも伝わっている。そう言えるはずもなく、離れたところで黄浮くんに電話をしている犬走くんを眺める。眉間の皺がどんどん深くなっているのは黄浮くんの飄々とした態度に頭を痛めているのだろう。同情する。

 鞄に入れていたスマホを取り出し、私は私で黄浮くんに抗議のメッセージを送る。返ってくるのは人の神経を逆撫でするようなスタンプ。犬走くんと電話しながら私に返信するなんて器用だなあ、むかつくスタンプばかりだけれど。

 深い溜め息を吐いてメッセージアプリを閉じる。そのタイミングで犬走くんが戻ってきた。とても緊張していますという面持ちで。

  

「あ、のさ」

「は、はい」

「その、黄浮来れなくなったみたいで。小栗鼠さんにも伝えておいてって言われて」

「あ、そうなんだ」

「それで、その、えーっと、もし嫌じゃなきゃなんだけど、あの」


 街の喧騒か遠ざかる。周囲には他にも人がいるのに、私の目には犬走くん以外映らない。

 顔も耳も、首まで真っ赤にした犬走くんは真っ直ぐ私を見つめる。熱っぽい目に浮かされそうになる。

 

「お、俺が代わりに行ってもよろしいでしょうか……」

「よ、ろしい……です」

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