百足山

二ノ前はじめ@ninomaehajime

百足山

 こごえた海に雪が吹き荒れていた。

 吹雪にかすむ海岸で、その頑健な男性は束ねた後ろ髪を棚引かせ、自らの身の丈に迫る大弓を携えていた。やじりが丸みを帯びた、白羽の矢をつがえる。カモシカの毛皮を身にまとい、雪が積もった菅笠の紐を顎で結んだ青年は、凛とした射形しゃけいで弦を引いた。弓矢が限界まで引き絞られ、しなやかな竹の弓が湾曲する。

 あの竹の大弓には見覚えがある。父母が経営する旅館の玄関に飾られた、魔除けの弓だ。豪傑とうたわれたご先祖さまが弓矢を以て、人を取って食う怪鳥を射落とし、山々を荒らし回った大百足を退治したという。

 笠の下からその眼差しが射抜くのは、空との境界が曖昧あいまいな水平線だった。そのかすかな境界線の上に、薄い人影が佇んでいた。あれは子供だろうか。その背後から海水が盛り上がった。此方こちらへ津波が押し寄せようとしている。

 隆起した腕の先で、指が離される。弦が震え、解き放たれた白羽の矢は海水を退しりぞけて飛翔する。かぶら矢の先端が笛に似た音を遠く響かせ、そそり立つ津波を貫いた。遥か海の彼方へと飛び去る。

 威風堂々とした佇まいに見とれた。彼は弓を下ろし、こちらへと顔を向けた。菅笠の陰で薄い瞳が白々しらじらとした娘の姿を映し出している。

 青年は大弓を片手で握り締め、こちらへと差し出した。引き継がなければならない。受け取ろうと小さな手を伸ばして、彼の姿は吹雪の中にかき消えた。

 白い指先が虚空を掻いた。



 電車の揺れでまどろみから目を覚ました。

 窓際の自分が座り、隣と対面の座席にそれぞれ両親が座っている。小さな肩を揺さぶり、母親が準備を促す。車内アナウンスが次の到着駅を告げていた。もうじき目的地へ着く。

 車窓に顔を向ける。青々とした山の景色を望む窓には、己の赤い瞳が映っていた。

 つばの広い帽子を被り、ひなびた駅を降りた。日差しが強いにも関わらず、袖の長い服を着ている。好奇の視線に晒されている気がして、俯いたまま母に手を引かれる。

 自分の容姿が嫌いだった。白い毛髪に赤い瞳。肌から色素が抜け落ちている。陽の光に弱く、長く浴びていると皮膚が焼けてしまう。

 両親からはアルビノという体質だと教えられた。二万人に一人の割合だという。ご先祖さまが雪女をめとったという逸話に関係しているのではないかと、密かに疑っている。

 旅の者が立ち寄る旅籠はたご屋を起点とし、のちに観光地として賑わったという町は当時のおもむきを色濃く残していた。白壁造りの古めかしい建物が街道に並び、観光客向けに甘味処があった。外に置かれた縁台に座り、みたらし団子を味わった。割烹着姿の女性が白い肌の少女を見て言った。

「お嬢ちゃん、真っ白で綺麗ね」

 屈託なく褒められ、どう返したらいいかわからなかった。耳を赤くし、帽子のつばを両手で掴んで顔を隠した。おかしそうな含み笑いが降ってくる。「人見知りなんですよ」と父親が帽子の上から頭を撫でた。

 両親と並んで古風な町並みを歩いた。陽光が若葉を照り返し、山の輪郭が淡く輝いている。

「あそこが百足むかで山と言って、紗雪さゆきのご先祖さまが祀られとっとよ」

 父が指差した。三角錐の峰を描く山の中腹に細長い石段が伸び、その上に朱い鳥居が佇んでいた。奥には境内があり、山幸彦尊を祀り上げた神社があるのだろう。帽子の陰から山頂を見上げ、彼女は言った。

「うん、知っとうよ」

 赤い瞳の色が薄れていた。その霞んだ目に映るのは、山頂から一対の触覚を垂れた大百足の姿だった。黒光りする長躯ちょうくが山々を跨ぎ、尻尾の先端が遠い彼方に見える。おびただしい脚を両側にそなえ、かつてはこの地を蹂躙じゅうりんしたのだろう。鳥居の沿った笠木に鋭く尖った顎肢がくしが届きそうだった。その単眼からは光が失われている。

 平たい額には四方に亀裂が走り、その中心で白羽の矢筈やはずらしい輪郭が日差しにきらめく。

 あれこそご先祖さまが退治したという大百足だろう。死してなお朽ちることなく、現代も山々の上に禍々しい体躯を横たえている。両親はもちろん、この町の住民にもあの怪物が見えていないのだ。いかつい面貌に見下ろされながら平穏を享受している。

 巨大な大百足の死骸を見上げながら、少女は両目を見開いた。

 くらい単眼の奥底で、血塗られた光が瞬いた。刹那、その眼差しが自分を貫いたのを感じる。違う、あれはまだ死んではいない。隆起する大地に身をせながら、目覚めのときを今も待っているのだ。

「紗雪?」

 白い少女は立ち止まった。両親が不思議そうに振り返るにも構わず、左手を持ち上げる。その手の中に見えない弓矢の輪郭が形成され、弦に指をかける。両拳を振り上げ、夢で見た青年の射形を真似て矢筈を引いた。弦が引き絞られ、彼女の身の丈に合った弓幹ゆがらがしなる。

 矢を放った。帽子が飛ばされ、白い長髪が乱れる。鈴虫の鳴き声に似た音色が鼓膜に触れ、白い矢筈が空中を飛翔した。その鏃は大百足に到達することはなく、途中で霧散した。

 少女は嘆息した。だめだ、今の自分では届かない。

 母が地面に落ちた帽子を拾い、埃を払った。

「何ね、ご先祖さまの真似ばしとっと?」

 微笑ましそうに我が娘を見下ろしながら、受け取ったつばの下で、少女の瞳は赤く輝いていた。ご先祖さまが遺した大弓に見合うまで成長したら、自分はまたここへ戻ってくるだろう。

 あれを目覚めさせてはいけない。

 百足山で頭を垂れる怪物へと向かって、白い少女は歩き出した。

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