第13話 彼女を変えた一皿――魔法使いが生まれた日

 沙月は、心の中に深く根付いた暗い記憶を抱えていた。子どものころ、家庭は決して幸せとは言えなかった。両親の喧嘩が絶えず、家の中はいつも張り詰めた空気が漂っていた。誰かが何かを言うたびに、次に来るのは言葉の暴力か、物の投げ合いだった。沙月はそのたびに心を閉ざし、何も感じないように自分を守った。


 そんな環境で育った沙月は、自分が何かを感じることを恐れるようになった。感情を抑え込み、外の世界と切り離されたような生活を送っていた。しかし、それは本当の意味での孤独だった。


 大人になってからも、沙月は常にその冷徹な心で生きていた。感情を持つことは脆弱さを露呈することだと思っていたし、他人と関わることが怖かった。どんなに優しくされても、彼女の中には距離を置く壁が厚く立ちはだかっていた。


 ある日、仕事で疲れ切った沙月は、ふらりと立ち寄った小さなカフェで席に着いた。カフェの店主は、陽子という名の女性で、沙月にとっては不思議な存在だった。陽子は何も言わずとも、彼女が疲れ果てていることを察して、温かいスープを一杯出してくれた。そのスープは、他のどんな料理とも違った。穏やかな味わいが舌の上で広がり、体の中から温かさが染み渡るようだった。


 「あなた、少し休んだ方がいいですよ。身体だけでなく、心も癒やさなきゃ。」


 陽子の言葉は優しく、沙月の心に静かな波紋を広げた。陽子はただの店主ではなかった。どこか人の心に寄り添い、その温もりを与えるような存在だった。


 次の日から、沙月はカフェに足を運ぶことが日課となった。最初は無言で座り、スープを飲むだけだったが、次第に陽子との会話が心地よく感じるようになった。陽子は沙月に、食べ物が持つ力について語り始めた。


 「食事は、体を作るだけでなく、心も作るものなのよ。だから、何を食べるかで、あなた自身がどう変わるかが決まるんだ。」


 陽子は食事が心に与える影響を熱心に話し、沙月に料理を教えたり、食材の選び方を教えたりした。その中で、陽子が勧めた一皿があった。それは「かぼちゃのスープ」だった。陽子は言った。


 「かぼちゃには、心を温める力があるの。特に、感情を抑え込んでいる人にはぴったりよ。」


 沙月は、そのスープを飲んだ瞬間に、今まで感じたことのない温かさを感じた。かぼちゃの甘さが舌の上で優しく広がり、心の中の氷が少しずつ溶けていくのを感じた。それと同時に、胸の奥で何かが動き始めるのを感じた。




 その晩、沙月は家に帰ると、久しぶりに自分の過去を思い出した。あの冷たい家庭環境の中で、感情を押し殺していた自分。だけど、陽子の温かさ、かぼちゃのスープの優しさが、何かを解き放ってくれるような気がした。


 「感情を抑え込んでばかりいたけれど、今は少しだけ、感じてみよう。」


 そう決意した沙月は、次の日から少しずつ、自分の心を開き始めた。食事を通して、陽子から教わったことを実践し、心を温める食材を取り入れるようにした。それだけで、彼女の中で何かが少しずつ変わり始めた。




 数ヶ月後、沙月は陽子から「魔法使い」と呼ばれるようになった。それは、彼女が他の人たちにも食事を通して心を癒やす力を持つようになったからだ。最初はその呼び名を信じられなかったが、彼女が気づいたのは、食事が人の心を変える力を持っているということだった。彼女は自分自身が変わったと実感した。


 食材と心のつながりを深く理解した沙月は、他の人々にその力を伝えようと決意した。陽子のように、食事を通して他人の心を温め、支える魔法使いになりたいと思った。


 そして、その日から沙月は、他の人々を助けるために新たな一歩を踏み出した。彼女の人生は、陽子との出会いによって、まさに魔法のように変わったのだ。

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