沙月が「心のカフェ」で新しい1日を迎えたある朝、店の外で何かを悩んでいる様子の男性が目に入った。スーツ姿で革靴はよく磨かれているが、疲れ切った顔には深い皺が刻まれている。男性は何度か店の中を覗き込み、意を決したように扉を開けた。

　「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席へ。」

　男性は挨拶には答えず、店の一番奥の席に黙って座った。テーブルの上のメニューには目もくれず、ただ天井を見つめている。

　沙月は彼の様子を見て、静かに声をかけた。

「もしよければ、今日の特別メニューをお作りしましょうか？」

　男性は少し驚いたように沙月を見つめ、ためらいがちにうなずいた。

　厨房に戻った沙月は、冷蔵庫から牛乳とバターを取り出そうとして、ふと手を止めた。

　この人の顔には、執着の色が濃く出ているわ。きっと何かに縛られている。そういう時は、乳製品を控えることで心が軽くなる。

　代わりに、彼女は野菜をたっぷり使ったスープを作ることにした。玉ねぎ、にんじん、セロリを細かく刻み、オリーブオイルで軽く炒める。そこにトマトのピューレを加え、ゆっくりと煮込んだ。

　「お待たせしました。こちらは野菜のスープです。」

　沙月がテーブルに運ぶと、男性はしばらくそのスープを見つめていたが、やがてレンゲを手に取った。一口飲んだ瞬間、彼の表情が少しだけ柔らかくなった。

　「……野菜の甘みがすごいですね。こういう味、久しぶりに感じました。」

　「ありがとうございます。じっくり煮込むことで、自然な甘みが引き出されるんですよ。」

　男性はしばらく黙ってスープを飲み続けたが、やがてぽつりと話し始めた。

　「僕は……ずっとお金のことばかり考えてきました。稼げば稼ぐほど、自分が豊かになると思って。でも実際は、何かを得るたびに、もっと欲しくなってしまう。」

　「その感覚、とてもよくわかりますよ。」沙月は優しくうなずいた。「執着は、人を幸せにしているようで、実はどんどん苦しくさせてしまうんです。」

　「そうなんです。でも、どうすればいいのかわからなくて……。」

　沙月は少し微笑み、話を続けた。

　「実は、食事がその執着を和らげる助けになることがあります。特に乳製品――牛乳やヨーグルト、チーズ、バターなどを控えると、不思議と心が軽くなるんです。」

　「乳製品を控える……？」

　「はい。乳製品は栄養が豊富ですが、摂りすぎると心の中で不安や執着を助長することがあります。今日のスープには乳製品を使っていませんが、どうですか？ 少し違う感覚がしませんか？」

　男性はスープを見つめ、考え込むように答えた。

　「確かに……何というか、食べていて心が落ち着く感じがします。」

　スープを飲み終えた男性は、沙月に深々と頭を下げた。

　「今日は本当にありがとうございました。少し気持ちが軽くなった気がします。乳製品を控える食生活、試してみます。」

　「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。心が軽くなると、きっと目の前に広がる世界も変わりますよ。」

　男性は去り際に微笑みを浮かべていた。その笑顔には、ほんの少しだが新たな希望の光が宿っていた。

　沙月はその背中を見送りながら、小さくつぶやいた。

　「食事には不思議な力がある。ほんの小さな変化が、人の生き方を変えるきっかけになるなんてね。」