食卓の魔法使い

まさか からだ

第1話 自己嫌悪の女性と「玉ねぎの味噌汁」

 沙月が「心のカフェ」を開いてから、ちょうど半年が経ったころのこと。店内はいつものように穏やかな香りと静かな音楽に包まれていた。木製のテーブルと椅子が並ぶ小さな店は、どこか懐かしさを感じさせる空間だ。


 その日、店の扉をくぐったのは、髪を無造作に束ねた一人の女性だった。30代後半と思われる彼女の顔は疲れ切っており、その目には深い影が落ちていた。


 「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。」


 沙月が優しく声をかけると、女性は入口近くの小さなテーブルに腰を下ろした。しばらくメニューに目を落としていたが、頼むものを決める様子はない。


 「迷っていらっしゃるようでしたら、今日のおすすめをご用意しますが、いかがですか?」


 女性は驚いたように顔を上げた。


 「ええ、それでお願いします。」


 沙月は軽くうなずき、厨房に向かった。




 注文が入ると、沙月はまず冷蔵庫から玉ねぎを取り出し、丁寧に皮をむいた。彼女の動作には一切の無駄がなく、それでいてどこか温かみがあった。鍋に出汁を注ぎ、玉ねぎを薄切りにして加えながら、沙月は心の中でつぶやく。


 この人は、自分を責め続けてきたのだろうな。自分を許すことができない心には、柔らかな甘さが必要だわ。


 やがて、鍋の中で玉ねぎが透明感を帯び、味噌を加えることで豊かな香りが漂い始めた。


 「お待たせしました。こちら、玉ねぎの味噌汁です。」


 沙月は湯気の立つ味噌汁を女性の前に置いた。その一杯は、見る者の心を和らげるような淡い琥珀色をしていた。




 女性はゆっくりとレンゲを手に取り、スープをすくって口に運んだ。その瞬間、目に見えない変化が彼女の表情に表れた。


 「……なんだか、ほっとしますね。」


 「それはよかったです。玉ねぎは、心を癒やす力を持っています。じっくり煮込むことで、甘さが引き出されて、食べる人の心にも優しく染みわたるんですよ。」


 女性は少しずつスープを飲み進めながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


 「私……最近ずっと、自分が嫌いで仕方なかったんです。仕事でミスばかりして、周りに迷惑をかけてばかりで……。自分なんていない方がいいんじゃないかって、そんなことばかり考えてました。」


 沙月は頷きながら彼女の話に耳を傾けた。


 「でも、不思議ですね。この味噌汁を飲んでいると、なんというか……少しだけ、自分を許してもいいのかなって思えてきました。」


 「それは素晴らしい気づきです。」沙月は微笑みながら言った。「自分を責める気持ちは、心の中に溜まってしまう毒のようなものです。その毒を解くには、まず温かさが必要です。それを助けてくれるのが、食事なんですよ。」




 女性は最後の一口を飲み干し、静かに器をテーブルに置いた。


 「私、これから少しずつでも、自分を大切にしていこうと思います。今日ここに来て、本当によかった。」


 沙月は柔らかく微笑みながら、次の言葉を添えた。


 「自分を愛することは、難しいことのように思えるかもしれませんが、一歩一歩で大丈夫です。食事はそのための第一歩。今日の玉ねぎの甘さを思い出しながら、自分にも少しずつ優しくしてあげてくださいね。」


 女性は深くうなずき、沙月にお礼を言って店を後にした。その背中には、来たときとは違う穏やかな空気が漂っていた。




 その日、沙月は店の帳簿を閉じながら、ふと思った。


 食事が持つ力は、本当に不思議だ。たった一杯の味噌汁で、人の心をこんなにも変えられるのだから。


 彼女の「心のカフェ」には、また新たな物語が刻まれていく予感がしていた。

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