第5話 限界と戒律
世の中は、大きく分けて、
「無限」
と
「限界」
というものに分かれているのではないだろうか?
普通に生活していると、身近に感じられるものとして、
「ほとんどのものには、限界がある」
ということである。
その一番の例とすれば、
「生命」
というものではないだろうか?
「形あるものは必ず滅びる」
という、
「諸行無常」
という教えがある。
それと同じで、人間の命にも限りがあり、実際に人間の歴史の中で、
「死ななかった」
という人は一人もいないのだ。
ただ、
「その命がどうなってしまうのか?」
というのは、いろいろな宗教の考え方などによって、いろいろ言われていることであろう。
たとえば、
「輪廻転生」
という言葉があり、死後の世界で、
「地獄に行く」
というような、大罪を犯した人間でなければ、
「いずれは、別の人間として生まれ変わる」
という発想である。
しかし、
「人間に限らずであるが、欲というのは、果てしのないということで、不老不死というものを望む」
という輩もいたりする。
中国の、
「西遊記の話」
などで、
「坊主の肉を食らうと、不老不死の力が得られる」
ということで、
「三蔵玄奘がよく、魔物に狙われる」
という話になっているではないか?
もっとも、そういう設定になっているというだけで、実際には、
「坊主の肉」
というのは関係がないのかも知れない。
ただ、確かに、
「無限」
あるいは、
「果てしない」
というものは存在する。
「無限」
というと、本当に、
「限界のないもの」
と考えられるが、
「果てしない」
という発想は、
「本当に無限なのかどうか分からない」
ということで、
「無限という発想が、本当に成り立つのかどうか?」
ということを確定させるものではないと考えられるだろう。
ただ、
「不老不死」
というものをえられたとして。
「それが、幸せだ」
とどうしていえるのか?
ということである。
確かに、生物の欲としては、
「死にたくない」
「なるべく長生きしたい」
と思うのは当たり前のことである。
しかし、その戒めということで考えられるのが、似hンのおとぎ話としての、
「浦島太郎」
の話なのではないだろうか?
こちらは、
「逆の意味からの戒め」
と言っていいかも知れず。その考え方として、
「竜宮城から帰ってくると、自分の知っている人、さらには、自分を知っている人までも誰もいない世界だ」
ということである。
いきなり自分一人だけ、誰も知らない未知の世界に放り出されたわけで、
「帰る場所を間違えた」
というわけではないということであった。
いろいろ確認したのだろうが、どうやら、
「遠い未来に行きついた」
ということであった。
探せば。自分の世界が見つかる」
というわけではない。
「次元が違っている」
ということかも知れないが、どちらにしても、
「前にいた次元」
に戻るということは不可能だったのだ。
そう考えると、
「生きているだけで苦痛だ」
といえるのではないか?
本来であれば、
「皆同じように年を取っていくわけで、順当にいけば、年老いた親から先に死んでいく」
ということであるはずなのに、その親はすでにいない。
ということは、
「自分がいた世界では、親やまわりの人たちは、自分がいないことをどう考えたのだろう?」
「行方不明になった」
ということで、
「死んだことになった」
ということになるかも知れない。
とにかく、この世で暮らしていくことで、一番辛いことは、
「自分を知っている人がいない」
あるいは、
「自分が知っている人がいない」
ということではないだろうか?
「人の死」
というのは、その時は悲しいことになるかも知れないが、時間が経てば、解決してくれるということになるだろう。
それは、
「人は必ず死を迎える」
ということが分かっていて、たぶん、無意識のうちに、
「必ず、死が訪れる」
ということが分かっているので、意識と覚悟はあるということであろう。
それが、
「不老不死」
ということになると、
「皆が不老不死であれば、このままの生活が続く」
ということになるので、幸せなのかも知れないが、何といっても、
「前例のないことで、どんな世界線が待っているか?」
ということは分からないわけである。
普通に考えると、もし、
「人が死ぬことはなく、生まれるばかり」
ということであれば、
「世界の人口は増える一方だ」
ということになるだろう。
それは、
「弱肉強食」
ともいえる、
「自然界の摂理」
から考えると、人間だけが増えていくということになり、
「食糧不足」
ということで、
「いずれは滅亡する」
ということになるだろう。
しかし、これもし、
「人間だけでなく、他の動物までもが不老不死」
ということになれば、どうなるか?
「自然の摂理」
というものが、不可避であるということになると、
「弱肉強食」
というものはなくならない。
ということは、
「今いる者が、食料になる」
ということで、そもそも、
「人間や動物が死んで、その肉体が腐乱していくにつれて、それが肥料となって成長する
植物が、存在できない」
ということになる。
すると、
「小食動物が生きられなくなり、それを食料としている、肉食動物がいなくなる」
結局、
「人間の食糧がなくなる」
ということで同じ結果をもたらすのではないだろうか?
それ以外で考えると、
「動物が食料がなくなった時点で、声明を維持するために、主食となるもののターゲットを変えてでも、生き残ろうという本能のようなものがあるのだとすれば、今まで、食料となることのなかった人間がターゲットになり、
「食べられる」
という生物の、
「生存体系」
というものが変わってくる。
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「生命のランクというものが変わってきて、遠い未来には、人間は、地球上で一番の高等動物ではない」
ということになるだろう。
そういえば、昔の映画で、
「猿が支配する世界」
というものがテーマの映画があり、実は、
「未来の地球だった」
という話があったではないか。
それを思えば、
「今の時代が永遠ではなく、いずれ変わってしまう」
ということも考えられるであろう。
これは、あくまでも、
「永遠」
という発想ではなく。
「不変」
という発想である。
これは、
「正対する発想だ」
ともいえるが、
「完全に正対するものだ」
といえるだろう。
そんな世の中において、
「不変というものはない」
というのは、意識の上で考えられるということでもあった。
「浦島太郎」
のように、
「一人孤独な世界に取り残された」
ということであれば、
「死んだ方がマシだ」
と考えることもありではないだろうか?
だから、自暴自棄になって、
「開けてはいけない」
と言われた玉手箱を開けてしまったというのも無理もないことであろう。
ただ、逆にいえば、これが、
「不老不死」
ということであれば、たとえ、
「自分で自分の命を断とうとしても、
「死ぬことはできない」
ということになるであろう。
「実際に、死ぬということがどういうことなのか?」
あるいは、
「自分で死を選ぶ自殺」
というのは、
「本当はしてはいけないことなのか?」
という、宗教的な話になってしまう。
戦国時代にあったことで、
「キリシタンは、人を殺めることを許さない」
と言われているが、ある戦の前に、その手始めとして、
「相手の留守を襲って、家族を人質にする」
という作戦を取ってきた武将がいた。
これを、
「卑怯だ」
と考えるか、それとも、
「時代の流れ」
ということで、
「作戦として仕方のないことだ」
と考えるかは、その人それぞれであろう。
特に、
「群雄割拠の戦国時代」
ということになると、
「時代は、なんでもあり」
ということになり、しかたのないこととなるだろう。
そんな時代において、留守にした武将の妻は、
「夫の足かせになる」
ということを避けるため、
「人質にはならない」
という選択をし、
「死を選ぶ」
ということになる。
しかし、
「キリシタンは、人を殺めてはいけないという戒律があり、それは、たとえ自分の命であっても、同じ」
ということだった、
したがって、
「自殺も許されない」
ということになるのだ。
それを考えると、彼女は、
「どうすればいいか?」
と悩んだ挙句、
「配下の者に、自分を殺させる」
ということを選択した。
「潔い」
といえるだろうが、果たしてそうだろうか?
確かに配下の者は、
「キリシタンではない」
かも知れない。しかし、
「いわれもなく人を殺す」
ということがどういうことなのか?
を考えなかったのだろうか。
つまり、
「いくら、戦を何度も重ねて。数多くの人を殺してきたからと言って、自分を殺させるというのは、何かが違う気がする」
といえるのではないだろうか?
戦であれば、
「敵を殺す」
ということであり、しかも、
「自分がやらねば、相手が自分を殺すだけだ」
ということで、それこそ、
「殺し合い」
ということなので、
「それも仕方がないことだ」
ということになるだろう。
つまりは、
「自分が死ななければならない」
ということを、自分の主君の妻が思ったからと言って、少なくとも、
「いわれがないどころか、さっきまで、主君として仰いでいた人である。
ということだ。
「良心の呵責」
というものがないわけではないだろう。
そんな思いを配下にさせるわけである。
「キリシタンでなければ、キリスト教の恩恵は得られない」
と考えていて、
「それは、戒律であっても同じことだ」
ということであれば、
「キリスト教の教え」
というのは、
「なんて、傲慢なものなのか?」
と考えられるのではないだろうか?
それを思えば、
「配下に自分を殺させる」
ということは、
「自殺したわけではない」
ということで許されるのだろうか。
ただ、あの切羽詰まった場面では、、尋常な判断はできないかも知れない。
だから、実際にいわれていることが、
「史実だ」
ということだとしても、問題は、
「その行為」
ということではなく、逆に、
「そのエピソードを、まるで美談である」
とでもいうように、語り継がれてきたことだった。
その妻のことを、
「潔い行動であり、あっぱれだ」
ということでの、語り継ぎということであれば、
「本当に正しいことだ」
といえるのだろうか?
ということである。
歴史には、後世に語り継ぐこととして、えてして、
「後で天下を握り、政権を握った人たちにとっての都合の悪い歴史は、抹消する」
というところがある。
逆に。
「都合のいいことは、美談として語り継ぐ」
ということが多いことから、この話も、
「美談」
ということで、語り継ぐということになったのかも知れない。
もっと言えば、
「天下人によって、歴史が曲げられた」
ということも多いようで、昔から言われてきた、
「悪役」
と言われてきた人が、
「実は善人だった」
ということであったり、その逆があったりと、歴史は、
「ゆがめられた事実」
によって作られたことなのかも知れない。
それを考えると、
「歴史が答えを出してくれる」
という話があるが、それが、
「本当にそうなのだろうか?」
と考えられるのであった。
歴史が答えなど出してくれる」
というのは、迷信だという人もいるだろう。
「勝てば官軍」
という言葉があるが、まさにそうである。
「極東国際裁判」
と言われた。いわゆる、
「東京裁判」
でもそうではないか?
「誰かを犠牲にして、責任を押し付けて、責任を取らせる」
という名目で処刑するという、
「勝者の裁き」
というのが、国際的に行われたのだ。
確かに、
「誰かが犠牲にならなければいけないことだ」
ということかも知れないが、それを、行ったのが、
「勝者である」
ということがそもそもの間違いだというものではないだろうか?
それを考えると、
「歴史だって、結局は、その時の、公然の秩序で表される」
ということになるのだ。
「全員が納得する」
ということはできるわけはないだろうが、少なくとも、
「落としどころ」
というものはあるだろう。
それを考えると、
「答えを出してくれるはずの歴史」
というものを信じるということは、ありえないといえるのではないだろうか?
それが、
「無限」
というものが、
「そもそも存在しない」
ということに繋がってくるだろう。
だから、
「人の命を殺める」
ということが、
「一番の大罪だ」
ということは、
「限りある命は、その人だけのものであり、それをいかなる理由があろうとも、他人が犯してはいけない」
ということになるのだろう、
だとすれば、
「今までに常習的に行われている戦というのは、どういうことになるのか?」
ということである。
人を殺してはいけないということであれば、戦だって許されることではないのではないだろうか?
だとすると、
「相手に襲われた時、抵抗もせずに、死ななければいけない」
ということになる。
となれば、
「死を自らで選ぶというのは、自殺ではないもか?」
ということになる。
だから、戦に発展してしまうわけで、その大義名分に、
「自分たちを守るため」
ということだったわけだ。
これは、一見、
「侵略に見える」
ということであっても、
「領土を増やさないと、人口増加を考えると、こ九人を養っていけない」
ということであったり、
「水源が足りない」
などの理由で、
「生存が危うくなってしまう」
ということになれば、
「戦を行う」
ということに対しての、
「大義名分が立つ」
ということになるだろう。
それを考えると、
「戦というものが、矛盾に包まれている」
と言ってもいいかも知れない。
そういう意味でいけば、
「自殺は許されない」
ということで、
「自分の配下の者に、自分の命を断たせる」
という行為も、
「許容範囲ではないか?」
と考えたとしても、無理もないことなのかも知れない。
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